(六)田舎者二人
◆ 初日の現実
村を出てしばらくは、何も起きなかった。
それだけで、少し拍子抜けする。
大きな魔物も出ない。
盗賊もいない。
道が急に崩れることもない。
ただ、荷が重い。
ロアンは肩紐を直した。
「旅って、もっとこう、始まった感じがするものかと思ってた」
ミルカは地図を見ながら言う。
「始まってるよ」
「今のところ、肩が痛いだけだ」
「肩から始まる旅もある」
「嫌な旅だな」
「荷造りで鍬を入れようとした人が言う?」
「鍬があれば肩の痛みをごまかせたかもしれない」
「重さで?」
「別の痛みで」
「却下して正解だった」
少し進むと、ロアンの靴紐が切れた。
ロアンは足元を見る。
「……早くない?」
ミルカは立ち止まり、荷から予備の靴紐を出した。
「入れておいてよかった」
「さすが」
「誰かが切りそうだったから」
「誰かって俺?」
「他に誰がいるの」
ロアンは靴紐を結び直しながら言う。
「旅って、思ったより靴紐だね」
「そう。靴紐」
さらに進むと、小川があった。
浅い。
渡れる。
ロアンは石の上を軽く渡った。
ミルカは荷を抱え、地図を濡らさないように慎重に渡る。
途中で足を滑らせかけた。
ロアンが手を伸ばす。
ミルカは踏みとどまる。
「大丈夫」
「今、危なかった」
「濡れてないから大丈夫」
「基準が地図寄りだな」
「地図は替えが少ない」
「俺の替えは?」
「ある程度、自力で乾く」
「扱いが雑」
「丈夫でしょ」
小川を越えた先、湿った道の端にスライムがいた。
ロアンは剣に手をかける。
ミルカが止める。
「倒さなくていい。右から回れる」
ロアンはスライムを見る。
確かに、右側は少し乾いた土が続いている。
「回った方が早い?」
「倒すよりは」
「じゃあ回ろう」
「成長」
「今のは褒めた?」
「少し」
「今日二回目」
「油断しないで」
「褒められるのに慣れてないから、むしろ緊張する」
二人はスライムを避けて進んだ。
敵がいることと、戦うべきことは違う。
それはもう、ロアンの中に少しずつ染み込んでいた。
◆ 宿代
夕方、二人は隣町の手前にある小さな宿場へ着いた。
旅人が数人。
荷馬車が一台。
馬小屋。
煙突から細く上がる煙。
村とは違う匂いがした。
焼いた肉の匂い。
濡れた革の匂い。
知らない人の声。
ロアンは少しだけ胸が高鳴った。
「宿場だ」
ミルカは財布袋を取り出す。
「まず宿代」
「景色を味わう前に?」
「景色は無料。宿は有料」
「現実的だな」
「初日から野宿したい?」
ロアンは空を見た。
雲が低い。
「雨、降る?」
「夜に降ると思う」
「宿にしよう」
「賢明」
宿の主人に値段を聞いて、ロアンは固まった。
「そんなに?」
主人は眉を上げる。
「二人で一部屋ならこの値だ」
ロアンはミルカを見る。
ミルカは財布を開き、黙って計算する。
「高い」
「野宿なら無料」
「夜に雨」
「高い」
「荷が濡れる」
「でも高い」
「初日から風邪をひくより安い」
ロアンはうなった。
「旅って、思ったより帳簿だね」
「そう。帳簿」
ミルカは村長の紹介状を出した。
「西の村長からです」
主人は紹介状を読み、少し顔を変えた。
「西の村長の紹介か。なら、馬小屋の横の小部屋でよければ安くする」
ロアンは紹介状を見た。
手紙は荷物より軽い。
だが、道を開くことがある。
村長の言葉を思い出す。
「すごいな、手紙」
ミルカは小さくうなずく。
「鍬より軽い」
「また鍬か」
「しばらく言う」
「三年?」
「今日のところは宿代分くらい」
二人は安い小部屋を取った。
馬小屋の横で、少し藁の匂いがした。
でも、屋根があった。
荷を置けた。
地図を濡らさずに済んだ。
それだけで、ロアンは十分ありがたいと思った。
◆ 田舎者二人
夜。
小部屋の中で、二人は初日の記録をつけていた。
歩いた距離。
使った金。
食べたもの。
避けた魔物。
切れた靴紐。
小川の位置。
宿代。
明日の予定。
ミルカが手帳に細かく書いていく。
ロアンは横で干し肉を噛みながら言った。
「町まで出るだけでこれか」
「まだ町の手前だけど」
「言わないで」
「事実」
「事実は時々痛い」
「だから記録するの」
ロアンは窓の外を見る。
宿場の灯りの向こうに、暗い街道が伸びている。
村では見ない数の足跡が、道に重なっていた。
人。
馬。
車輪。
旅人。
商人。
知らない人たち。
知らない行き先。
「俺たち、村の外だと本当に田舎者だな」
ミルカが筆を止める。
「うん」
「否定しない」
「否定する理由がない」
「少しは気を遣ってもいい」
「田舎者なのは悪いことじゃないでしょ」
ロアンは少し考えた。
「そうかな」
「知らないって分かってる方が、まだまし」
「知らないのに知ってるふりするより?」
「うん」
「それ、俺に言ってる?」
「少し」
「少しでよかった」
「だいぶ」
「増えた」
ミルカは手帳を閉じた。
「私も、もう少し何とかなると思ってた」
「ミルカでも?」
「私でも」
「魔法があるのに?」
「魔法で宿代は安くならない」
「紹介状は安くした」
「手紙の勝ち」
「魔法、負けたな」
「今日のところはね」
少し沈黙があった。
窓の外で、雨が降り始めた。
屋根を打つ音が、小さく部屋に響く。
ロアンは外套を見た。
濡れずに済んだ。
宿代は高かった。
でも、払う理由はあった。
「来てよかった」
ロアンは言った。
ミルカは小さくうなずく。
「うん。見ないと分からない」
「世界、広いな」
ミルカは窓の外を見る。
「まだ隣町の手前だけど」
「それでも広い」
「じゃあ、明日はもっと広いね」
「肩ももっと痛いかな」
「荷を減らす?」
「鍬はもうない」
「心の鍬を捨てて」
「何それ」
「余計な見栄」
「重そうだな」
「かなり」
ロアンは笑った。
ミルカも笑った。
雨の音は強くなっていった。
でも、荷は濡れていない。
二人は屋根の下にいる。
それが、初日の成果だった。
◆ 世界を見に行こう
翌朝。
雨は上がっていた。
空はまだ曇っているが、道は歩ける。
二人は安い朝食を分け合い、荷を詰め直した。
ロアンは靴紐を確認する。
ミルカは地図を広げる。
紹介状は油布に包んで、荷袋の奥へ入れた。
手帳も革袋にしまう。
ミルカは、師匠の言葉をもう一度見た。
魔法は、使う場所を知らねば形にならん。
ロアンは村長の言葉を思い出した。
手紙は荷物より軽い。
だが、道を開くことがある。
二人はまだ何者でもなかった。
ロアンは、剣士と名乗るには経験が足りない。
護衛と名乗るには失敗が多い。
旅人と名乗るには、まだ宿場で宿代に驚く。
ミルカは、魔術師と名乗るには自信が足りない。
賢者と呼ばれるには遠すぎる。
村の外では、二人とも田舎者だった。
宿代の高さに驚く。
荷物の重さに疲れる。
靴紐一本で立ち止まる。
スライム一匹を倒すか避けるかで相談する。
それでも、村の門の外へ出た。
隣町のさらに先を見に行くために。
ロアンが荷を背負う。
「行くか」
ミルカが手帳をしまう。
「行こう」
「どこまで?」
「まずは隣町」
「その先は?」
「見てから考える」
ロアンは笑った。
「世界を見に行こう」
ミルカは少しだけ呆れた顔をした。
「大きく出たね」
「昨日よりは広くなった」
「まだ隣町の手前から隣町だけど」
「それでも、昨日より遠い」
ミルカはうなずいた。
「じゃあ、昨日より遠い世界を見に行こう」
二人は宿場を出た。
足元には、濡れた道。
背中には、少し重い荷。
荷袋の中には、紹介状と手帳。
空には、まだ低い雲。
その先に、まだ知らない道が続いていた。
ロアンとミルカの旅立ちは、伝説の始まりではなかった。
神託はなかった。
聖剣もなかった。
祝福の鐘も鳴らなかった。
村人たちは、特別な使命を背負う者として二人を見送ったわけではない。
ただ、心配し、荷物を減らし、弁当を持たせ、紹介状を渡し、靴紐を余分に入れた。
二人は、自分たちを田舎者だと思っていた。
実際、そうだった。
それでも、世界を見に行くと決めた。
それは、まだ大きな言葉ではなかった。
ただ、若い二人の少し無謀で、少し真面目な旅の始まりだった。
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