(一)隣村は近い
◆ 隣村は近い
朝の広場には、荷物が並んでいた。
薬草袋。
塩漬け肉。
麻布。
修理した農具。
空の樽。
縄でくくられた小さな木箱。
隣村へ届けるものと、隣村から受け取るものの札が、それぞれ荷の上に結ばれている。
西の辺境の村にとって、隣村は遠い場所ではなかった。
名前なら、子どもの頃から何度も聞いている。
誰かの親戚がいる。
誰かの嫁ぎ先がある。
祭りの時には向こうから人が来る。
薬が足りなければ取りに行き、塩が切れれば受け取りに行く。
晴れて道がよければ、半日と少し。
朝出れば、夕方には戻れることもある。
だが、それは空身の話だった。
荷馬車がある。
荷がある。
雨が降るかもしれない。
車輪が沈むかもしれない。
魔物が出るかもしれない。
誰かが足をくじくかもしれない。
ロアンは、荷物の山を見下ろしていた。
背は伸びた。
子どもの頃より腕も太くなった。
スライム程度なら、もう慌てず追い払える。
村外れの道も、林の入口も、薬草の丘も、前よりずっと遠くまで一人で行ける。
けれど、今日はいつもの村外れではない。
隣村まで、荷を守って歩く。
正式な護衛ではない。
荷運びの手伝い兼、見習い護衛。
そう言われている。
それでも、ロアンには十分大きな役目に思えた。
荷運びの男が、馬の背を撫でながら言った。
「隣村は近い。だが、荷を持つと遠い」
ロアンは水袋を肩にかけた。
「半日なら行けますよ」
荷運びの男は、目を細める。
「空身ならな」
「荷があっても、歩くのは同じじゃないですか」
「同じだと思ってるうちは、荷を見る役には向かん」
ロアンは少し口を尖らせた。
村長がやって来る。
「ロアン、お前は前に出すぎるな。荷の横につけ」
「前を見た方がよくないですか」
「前を見る者はいる」
猟師のおじさんが、背後から言った。
今日、彼は最後まで同行しない。
林の入口まで見送るだけだ。
それでも、いつものように弓を背負い、何かあればすぐ動ける姿で立っている。
「お前は荷を見る」
ロアンは荷を見た。
「荷ですか」
荷運びの男が笑う。
「荷が落ちれば失敗。荷が濡れても失敗。人が転んでも失敗。敵を倒しても荷が届かなければ失敗だ」
ロアンは少し驚いた。
魔物を倒せば、護衛は成功。
どこかで、そんなふうに思っていた。
猟師のおじさんが言う。
「剣を抜く前に、何を守るのか考えろ」
ロアンは、荷馬車の横に立った。
薬草袋。
塩漬け肉。
麻布。
修理した農具。
空の樽。
どれも、剣より軽そうで、剣より面倒そうだった。
◆ 水の玉
出発前、ロアンは井戸のそばでミルカを見つけた。
ミルカは小さな木皿を前に置き、指先ほどの水の玉を宙に浮かせていた。
水の玉は、ただ浮いている。
それだけだった。
だが、形は崩れない。
震えもしない。
ミルカは息を整えながら、水を糸のように細く伸ばす。
それから、また丸く戻す。
一滴もこぼさない。
ロアンは近づいて言った。
「まだそれやってるの?」
ミルカは水の玉から目をそらさずに答えた。
「毎日やれって言われたから」
「先生、もういないのに?」
「いないからやるの」
ミルカは、伸ばした水をまた丸く戻す。
「見られてない時に崩れるなら、覚えたことにならないでしょ」
ロアンは少し気まずく笑った。
村にしばらく滞在していた北の魔術師は、もういない。
ミルカはその人に、基礎の基礎ばかり教わっていた。
火を大きくするより、同じ温度に保つこと。
水を増やすより、同じ形で留めること。
風を荒らすより、一定方向へ流すこと。
魔力を強く出すより、細く通すこと。
ロアンも、昔は一緒に教わったことがある。
だが、薬草採りや家の手伝いや荷運びで抜けることが多かった。
覚えているのは、少しだけだ。
「俺も昔やったな、それ」
ミルカは水を崩さずに言う。
「三日くらいね」
「もう少しやった」
「薬草採りでよく抜けてた」
「家の手伝いは大事だから」
「それはそう」
「じゃあ、認めてくれるんだ」
「家の手伝いは認める。魔法を覚えてるふりは認めない」
「厳しいな」
「水は甘やかすとすぐ落ちるから」
「俺は水だったのか」
「水より落ち着きがない」
ロアンは少し傷ついた顔をした。
「せめて水よりは上にしてほしい」
「じゃあ、跳ねた水」
「余計悪い」
ミルカは水の玉を、皿の上へ静かに落とした。
水は跳ねなかった。
ロアンは少し感心する。
「それ、何の役に立つの?」
ミルカは考えた。
「分からない」
「分からないのに毎日やってるの?」
「先生は言ってた。役に立つ形にするのは後でいい。まず崩さないことを覚えろって」
ロアンは、自分の指先に魔力を集めようとした。
井戸桶の水面が、ほんの少し震える。
次の瞬間、ぱしゃりと跳ねた。
ロアンの袖が濡れる。
ミルカは見なかったふりをした。
「……俺も、ちょっとは覚えてる」
「うん。ちょっとは」
「今のは、調子が悪かっただけだ」
「水の?」
「俺の」
「それは知ってる」
「知ってるなら聞かないで」
ミルカは、やっと少し笑った。
それから、広場に並んだ荷を見た。
「今日、隣村まで行くんだって?」
「うん」
「計画は?」
ロアンは胸を張った。
「歩く」
ミルカは黙った。
ロアンは慌てて付け足す。
「荷を運ぶ」
「他には」
「魔物が出たら倒す」
ミルカはため息をついた。
「だいぶ心配」
「そこは応援するところじゃない?」
「応援はする。信用は別」
「信用してないのか」
「信用してるから、確認するの」
「確認って便利な言葉だな」
「雑って便利な性格よりまし」
ロアンは何か言い返そうとして、言葉を探した。
見つからなかった。
◆ 出発前の準備
父は、ロアンの荷物を一つずつ確認した。
水袋。
硬いパン。
干し肉。
替え布。
縄。
小刀。
火打ち石。
雨除けの油布。
ロアンは腰の剣に手を置いた。
「剣はあります」
父はうなずく。
「剣だけでは腹はふくれん」
「分かってる」
「分かっている顔ではない」
母が、布に包んだ弁当を渡した。
「途中で全部食べないこと」
「分かってる」
母はじっと見る。
ロアンは目をそらす。
「……たぶん」
「たぶんで食料を管理しないで」
横からミルカが言った。
ロアンが振り返ると、ミルカは地図を持っていた。
「まだいたの?」
「心配だから確認に来たの」
「今ので三回目の確認だぞ」
「四回目。水の時も確認した」
「あれは確認じゃなくて失敗を見られただけだ」
「見られる場所で失敗するからよ」
「井戸のそばで魔法の練習してたのはそっちだろ」
「私は失敗してない」
「強い」
「水がね」
ミルカは地図を広げる。
羊皮紙ではない。
村で何度も使われている、布に描かれた簡単な地図だ。
村。
林道。
沢沿いの細い道。
尾根道。
隣村。
古い石小屋。
ぬかるみやすい場所には、小さな印がある。
ミルカは沢沿いの道を指した。
「午前中に林道を抜けられなかったら、沢沿いには行かない方がいい」
「どうして?」
「午後から雨かもしれない」
ロアンは空を見た。
青い。
「晴れてるけど」
「雲が低い」
ロアンは雲を見た。
低い気もする。
低くない気もする。
「なるほど」
ミルカが聞く。
「分かった?」
「雲が低い」
「意味は?」
「雨かもしれない」
「よろしい」
「じゃあ、あの雲は?」
ロアンが別の雲を指した。
ミルカは見上げる。
「たぶん、羊に似てる」
「天気は?」
「知らない」
「知らないこともあるんだな」
「あるわよ。だから確認するの」
父が縄を締めながら言った。
「戦う準備だけが準備ではない。靴を見る。縄を見る。空を見る。荷を見る。戻る道を見る」
ロアンは剣から手を離した。
「見るもの、多いな」
荷運びの男が通りがかりに言う。
「多いから、仕事になる」
ミルカが地図を畳みながら言った。
「忘れそうになったら、荷を見る」
「魔物が出たら?」
「荷を見る」
「雨が降ったら?」
「荷を見る」
「腹が減ったら?」
「それは少し食べる。でも全部は食べない」
母がうなずく。
「そこはミルカちゃんの言う通り」
ロアンは弁当を見た。
「俺の味方が少ない」
ミルカは真顔で言った。
「荷と弁当の味方をしてるの」
「俺は?」
「戻ってきたら味方する」
ロアンは少し笑った。
荷馬車の横に立つ。
門が開く。
いつもより、外の道が長く見えた。
※第16話「隣村までの道」は全四回です。
続きます。
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