(二)倒す前に、死なないことを覚えろ
◆ 手当て
家に戻ると、母はロアンの顔を見るなりため息をついた。
「やっぱり転んだのね」
「スライムが跳ねたんだよ」
「知ってるわよ。スライムは跳ねるもの」
「知ってたなら先に言ってよ」
「聞きなさい」
ロアンは黙った。
母は井戸水で泥を洗い、膝の擦り傷に薬を塗った。
ロアンは少し身をよじった。
「痛い」
「痛いでしょうね。泥ごと転んでるもの」
「転びたくて転んだわけじゃない」
「足元を見ていないから転ぶの」
「スライム見てた」
「スライムだけ見てたから転ぶの」
ロアンは言い返せなかった。
母は次に、手首の赤い跡を見た。
表情が少しだけ真面目になる。
棚から小さな陶器の壺を取り出し、淡い匂いのする軟膏を指に取った。
「これはしばらく残るかもしれないね」
ロアンは手首を見た。
「消えないの?」
「薄くはなるわ。でも、覚えておくにはちょうどいいかもしれない」
「何を?」
「スライムは跳ねるもの、ってこと」
「それ、母さんも言った」
「聞きなさい」
ロアンはまた黙った。
軟膏は冷たかった。
じんじんしていた痛みが、少しだけ引いていく。
母は包帯を巻きながら聞いた。
「怖かった?」
ロアンはすぐには答えなかった。
怖かったと言えば、もう行くなと言われるかもしれない。
怖くなかったと言えば、嘘になる。
手首はまだ痛い。
心臓もまだ早く打っている。
ロアンは、小さく言った。
「怖かった」
母はうなずいた。
「怖いと分かったなら、今日は一つ覚えたのよ」
「怖いの、いいことなの?」
「いいことよ。怖いものを怖いと分かっていない方が危ない」
母は包帯の端を結ぶ。
「怖くても、戻ってこられたでしょう」
ロアンは門のことを思い出した。
走って戻った。
笑われた。
でも戻った。
「うん」
「なら、次はもう少し早く戻れる」
ロアンは手首を見た。
赤い線は、包帯の下に隠れた。
でも、痛みはまだ残っていた。
スライムは跳ねるもの。
近づきすぎると、痛い。
それは、もう忘れられそうになかった。
◆ もう一度
翌日。
ロアンはまた村外れにいた。
猟師のおじさんは、驚かなかった。
「来たか」
ロアンは棒を握ってうなずく。
「昨日、逃げただけだったから」
猟師のおじさんは、片眉を上げた。
「逃げた。戻った。だから今日また来られた」
ロアンは少し不満げにする。
「倒したい」
「なら、まず見る」
「昨日も見た」
「昨日は見ていたつもりで、見ていなかった」
猟師のおじさんは、林の端にいるスライムを指した。
「跳ねる前に縮む。動く前に揺れが止まる。水たまりの近くでは速い。乾いた土の上では遅い。坂だと下に流れる。石の上では跳ね方が変わる」
ロアンは顔をしかめる。
「多い」
「一つずつでいい」
「一つだけ?」
「今日は、縮むところだけ見ろ」
ロアンは棒を握ったまま、スライムを見た。
近づかない。
ただ見る。
スライムが震える。
震えが少し止まる。
ぎゅっと縮む。
跳ねる。
ロアンは下がった。
今度は、間に合った。
スライムはロアンの前に落ちる。
しぶきは届かない。
猟師のおじさんが言う。
「昨日より早い」
ロアンは少しだけ嬉しくなる。
「今の、見えた」
「ならもう一度」
二度目。
ロアンは下がりすぎた。
後ろの石に足を取られて転ぶ。
子どもたちが笑った。
ロアンはすぐに起き上がった。
猟師のおじさんは言う。
「距離を取りすぎると、後ろを見なくなる」
ロアンは後ろを見た。
石。
草。
門。
逃げる道。
「後ろも見るの?」
「前だけ見て生きられるなら、目は一つでいい」
ロアンは、何となく納得しきれない顔をしながらも、もう一度スライムを見た。
その日は倒さなかった。
ただ、縮むところを見た。
跳ねるところを見た。
水たまりのそばでは少し速く動くところを見た。
乾いた土では、ぷるぷると進むのが遅いところを見た。
帰る頃、ロアンは棒を一度も落としていなかった。
猟師のおじさんは言った。
「今日は、昨日より早く下がれた」
ロアンは、包帯の巻かれた手首を見た。
「明日は、もっと早く下がる」
「下がるだけでなく、どこへ下がるかも見ろ」
「多い」
「一つずつでいい」
◆ 少しずつ
三日目。
ロアンはスライムが縮む前に、揺れが止まる瞬間に気づいた。
「今だ」
そう思って下がった。
下がりすぎて、尻もちをついた。
猟師のおじさんが言う。
「後ろ」
ロアンは泥のついた尻を払う。
「見た」
「見てから転んだのか」
「ちょっとだけ」
「なら、ちょっとだけ良くなった」
四日目。
ロアンは初めて棒をスライムに当てた。
ぱちん、と音がして、棒の先が少し溶けた。
ロアンは驚いて棒を投げた。
父が拾い、先を見せる。
「道具は傷む」
「棒、だめになった」
「傷んだ道具で続けるな。折れかけた棒で突けば、折れる。折れたら近づきすぎる」
「新しい棒にする?」
「直すことも覚えろ」
父は棒の先を削り、布を巻き、樹液で固めた。
「全部を買い替えられる家ばかりじゃない」
五日目。
スライムが畑の若芽に近づいた。
ロアンは倒そうとしたが、届かない。
猟師のおじさんが叫ぶ。
「畑から離せ」
ロアンは棒で地面を叩いた。
スライムが反応し、畑とは逆の方へ動いた。
大人が近づき、鍬で追い払う。
村長が言った。
「倒すだけが仕事じゃない」
ロアンは、畑の若芽を見た。
溶けていない。
少しだけ胸を張った。
六日目。
友だちが見ていた。
「ロアン、今日は倒せるんだろ」
ロアンは言った。
「まあね」
本当は分からなかった。
でも、そう言った。
少し格好をつけた。
近づきすぎた。
スライムが跳ねる。
ロアンは避けたつもりで、足元の泥に滑った。
派手に転んだ。
顔まで泥がついた。
子どもたちは大笑いした。
猟師のおじさんは言った。
「見栄を張ると距離を間違える」
ロアンは泥を吐き出す。
「見栄じゃない」
「じゃあ何だ」
「戦略的に地面を確認した」
村の広場へ戻ると、幼いミルカが本を抱えて立っていた。
彼女はロアンを見て、少しだけ目を細めた。
「また転んだの?」
ロアンは胸を張った。
「転んだんじゃない。戦略的に地面を確認した」
ミルカはしばらく考えた。
「負け惜しみ?」
「違う」
「じゃあ、次は地面を確認しなくて済むといいね」
ロアンは言い返せなかった。
ミルカは本を抱え直し、何事もなかったように歩いていった。
ロアンは、泥だらけのまま空を見た。
何だか、とても悔しかった。
※第15話「スライムのいる町」は全四回です。
続きます。
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