(二)証など外へ出てからでいい
◆ 閉じられた家
東の辺境の村。
夜。
勇者の一族と呼ばれる古い家の中で、灯りが絞られていた。
窓は布で覆われている。
火は小さい。
外から見れば、ただ眠っている家にしか見えない。
だが、家の奥には人が集まっていた。
年老いた女。
少年の母。
村の神官。
そして、十代半ばの少年。
机の上には、古い剣がある。
古い地図。
聖都へ宛てた書簡。
小さな薬袋。
短剣。
家紋の刺繍が入った布。
少年は、短剣を握っていた。
手は震えている。
震えを止めようとして、余計に強く握っている。
老女が言った。
「昔なら、もう隣の町へ出していた」
母親が尋ねる。
「隣の町へ出せば、勇者になるのですか」
老女は首を振った。
「分からん」
母親は黙る。
老女は、少年を見る。
「ただ、村の中だけでは何も分からん。道を覚え、人を見て、魔物を知って、負けて、逃げて、また立つ。そういうものを積まねばならん」
少年は、顔を上げた。
「僕は、勇者にならなきゃいけないんですか」
誰もすぐには答えなかった。
神官も。
老女も。
母親も。
その沈黙が、少年には答えのように聞こえた。
母親が、小さく言う。
「勇者にならなくてもいい」
少年が母を見る。
母親は、無理に笑おうとはしなかった。
「ただ、このまま閉じ込められて終わってほしくない」
神官が、聖都宛の書簡を手に取る。
「聖都へ知らせを出します。中央神殿が動けば、封鎖を破る手段もあるはずです」
老女は、神官を見た。
「中央は動けるのか」
神官は答える。
「動くはずです。勇者の一族が封じられている。聖都が黙っているはずがない」
その声には、信じたいという響きがあった。
彼らは知らない。
中央神殿の神託の間が沈黙したことを。
聖剣が神殿から消えたことを。
勇者を認定する祭具が砕かれたことを。
彼らは、古い手順に従おうとしていた。
東の辺境から聖都へ知らせる。
神殿が動く。
勇者候補を保護する。
聖剣を授ける。
それが、彼らの知る道だった。
その道は、すでに別の場所で断たれていた。
◆ 証など外へ出てからでいい
脱出計画は、大きな反乱ではなかった。
少年を一人、森側の古道から外へ逃がす。
村の猟師が途中まで案内する。
神官の密書を持たせる。
古い剣は目立つ。
だから持たせない。
旅人の服。
短剣。
薬袋。
家紋の入った小布。
それだけを持たせる。
神官が眉をひそめた。
「剣は持たせないのですか」
老女は、机の上の古剣を見た。
「持たせるな」
「しかし、これはこの家に伝わるものです。勇者の証として……」
「勇者らしく見えるものほど、見張りに見つかる」
神官は言葉に詰まった。
老女は、古剣に触れる。
刃は古く、何度も研がれて細くなっている。
立派な剣ではない。
だが、この家にとっては重い剣だった。
「証など、外へ出てからでいい」
神官は驚いたように老女を見る。
「証は、後でよいのですか」
「生きて外へ出られぬ者に、証だけ持たせて何になる」
老女の声は低かった。
「外へ出て、道を覚え、人に会い、負けて、逃げて、また立つ。そうして残ったものが、いつか証になる」
少年は、老女の言葉を聞いていた。
意味をすべて理解できたわけではない。
だが、剣を持たないことが臆病ではないのだと、少しだけ分かった。
母親が少年の肩に手を置く。
「逃げなさい」
少年は母を見た。
「母さんは」
「私は残る」
「でも」
母親は少年の頬に触れた。
「勇者にならなくてもいい。偉くならなくてもいい。誰かに選ばれなくてもいい。ただ、あなたの目で外を見てきなさい」
少年の目に涙が溜まる。
それでも、こぼさなかった。
「帰ってきてもいい?」
母親は、初めて少し笑った。
「帰ってきなさい。必ず」
老女が言う。
「死んだらなんにもならんよ」
少年はうなずいた。
短剣を腰に差し、薬袋を肩から下げ、密書を服の内側へ隠す。
家の外は暗い。
夜道は湿っている。
森は、村のすぐ向こうにある。
少年は、戸口に立った。
母親が、小さく言う。
「行って」
少年は夜へ出た。
※第8話「血筋の檻」は全五回です。
続きます。
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