(四)名前のない助力
◆ 恐怖に形を与える
竜将が、やや呆れたように言う。
「陛下。結局、人魚も水の精霊王もいない。調査に割いた時間と手間は、無駄では」
現魔王は首を横に振った。
「無駄ではない」
「存在しなかったのでしょう」
「存在しないと確認できた」
竜将は黙る。
現魔王は続けた。
「知らぬまま恐れるのが最も悪い。存在しないものを存在すると見なせば、戦力を割きすぎる。存在するものを存在しないと決めつければ、足元をすくわれる」
吸血侯が言う。
「つまり、調査とは恐怖の形を整えることですか」
「そうだ。恐怖に形を与えれば、管理できる」
死霊宰相がうなずく。
「人魚は確認されない。水の精霊王も確認されない。ただし、沿岸口伝と水害記録は残る」
「残せ」
魔王は短く言った。
「確認されない助力は、戦略の中心に置かぬ。だが、周辺情報は捨てるな」
竜将が少し不満げに言う。
「そこまで残しますか」
「捨てた情報は、後から見直せぬ」
魔王は長卓の上の札を見た。
人魚。
水の精霊王。
その二つの札の横に、別の小札が置かれる。
沿岸口伝。
海底洞窟候補。
素潜り技術。
火山水害記録。
古い堤。
水路跡。
死霊宰相が問う。
「これらはどう扱いますか」
「低優先度で監視。主対策は不要。深海拠点と火山拠点には、通常防衛を維持させる」
海魔将がうなずく。
「深海拠点は、引き続き船を沈めます」
火山伯も言う。
「火山拠点は、排熱路と溶岩堀の点検を強化します」
現魔王は二人を見る。
「油断はするな。人魚がいなくとも、人間は海を渡ろうとする。精霊王がいなくとも、人間は火を消そうとする」
二人は頭を下げた。
「は」
現魔王は、二枚の札を見下ろした。
人魚。
水の精霊王。
どちらにも、実在確認の印はつかない。
「勇者譚にある助力は確認されなかった。存在しない助力に、これ以上戦略の中心を割く必要はない」
記録官が書く。
人魚、実在未確認。
水の精霊王、実在未確認。
特殊助力、現存せず。
監視継続。
◆ 名前のない助力
夜の漁村。
女たちが、壊れた網を直している。
年寄りが、若い娘に昔話をしていた。
「昔、勇者さまがこの浜の魔物を退治してくれたんだ。それで、海が道を開いたってさ」
若い娘が笑う。
「人魚が出たって話じゃなかった?」
「そう言う者もいるね」
年寄りは、糸を引きながら言う。
「海の話は、語るたびに姿を変える」
「じゃあ、本当は何だったの」
「さあね」
年寄りは、夜の海を見る。
黒い波が、月の光を細く砕いている。
「ただ、海に入れる者がいたんだろうさ。勇者さまだけじゃ、海の底までは行けない」
若い娘は、網を結ぶ手を止めた。
「人魚じゃなくて?」
「人魚かもしれない」
年寄りは笑った。
「人間かもしれない」
波の音がする。
誰もそれを、助力とは呼ばない。
ただ、海で生きる者たちの話だった。
火山地帯の外れ。
草に埋もれた古い石積みがある。
割れた水路。
崩れた壁。
誰も管理していない堤の跡。
雨水が、石のくぼみに少しだけ溜まっていた。
近くの老人が、子どもに言う。
「昔はここに水が溜まってたんだとさ。山が荒れた時、堤が切れて、ものすごい水が流れたって話だ」
子どもが目を丸くする。
「水の精霊王?」
老人は笑う。
「そう呼ぶやつもいる」
「本当は?」
老人は、草に埋もれた石積みを足でつついた。
「私の祖父は、堤が切れたと言っていた。堤なんてここらへんにねぇのに、変な話だ」
子どもは、石積みを見る。
苔が生えている。
半分は土に埋もれている。
ただの古い石にしか見えない。
老人は言う。
「でもな、水は怖い。溜めた水は、落ちる時に山より強い」
風が吹く。
草が揺れる。
石積みの隙間に溜まった水が、小さく光った。
人魚は見つからなかった。
水の精霊王も見つからなかった。
海の底に王国はなく、火山の麓に精霊王の玉座もなかった。
現魔王の調査は、正しく結論を出した。
勇者譚に記された助力は、その名のままには存在しない。
だから魔王軍の記録には、こう記された。
特殊助力、現存せず。
監視継続。
人魚はいなかった。
水の精霊王もいなかった。
けれど、海のことを深く知る者はいた。
火山の麓には、壊れた堤があった。
水の流れを知る者もいた。
助力は存在しなかった。
ただし、人魚や精霊王という名前ではなかった。
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