(一)条件照合
◆ 玉座の間へ
黒い扉が開いた。
重い音が、玉座区画の奥へ沈んでいく。
ロアンは、一歩だけ足を止めた。
ここまで来た。
排水路を抜けた。
外縁第三門を抜けた。
結界の要をずらした。
門を通らず、壁を抜けた。
追われながら、通れる道だけを選んできた。
そして今、扉の向こうに魔王がいる。
玉座の間は広かった。
天井は高い。
黒い柱が並んでいる。
壁には暗い炎が灯っている。
床には、古い魔法陣の線が薄く走っていた。
魔力の灯りは揺れていない。
それなのに、空気そのものが重い。
ロアンは一歩入った瞬間、ここまでのどの場所とも違うと分かった。
海の底の水圧。
森の迷い。
火山の熱。
高山から見下ろす空の目。
魔王城の結界。
そのどれとも違う。
目の前にいる者そのものが、場所を支配している。
玉座には座っていない。
黒い階段の下、玉座の前に立っている。
待っていた。
魔王。
ロアンはそう思っただけで、喉が少し乾いた。
ミルカは息を殺し、魔力の流れを見ている。
エナは胸元を押さえている。
ガルドは剣に手をかけたまま、珍しく何も言わない。
ロアンは思う。
ここまで来た。
でも、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが一番危ない。
背後で、黒い扉が静かに閉じた。
逃げ道が閉じた音に聞こえた。
それでも、ロアンは下がらなかった。
◆ 名を聞こう
魔王は、四人を見た。
その視線だけで、体の奥が冷えた。
攻撃されているわけではない。
魔法を向けられているわけでもない。
ただ、見られている。
それだけで、息が浅くなる。
魔王はすぐには攻撃してこなかった。
ただ、問う。
「名を聞こう」
ロアンは少し息を整えた。
名。
名乗り。
一瞬、迷った。
勇者のような名乗りなど知らない。
騎士のような格式もない。
神殿の紋章もない。
名乗るべき称号もない。
だから、いつも通りに答えるしかなかった。
「ロアン」
隣で、ミルカが続いた。
「ミルカ」
エナが、少し遅れて言う。
「エナです」
ガルドが短く答えた。
「ガルド」
それだけだった。
玉座の間に、沈黙が落ちる。
魔王は黙っている。
何かを待っているように見えた。
ロアンは少し困った。
名乗った。
名前は言った。
他に何が必要なのか分からない。
やがて魔王が言う。
「それだけか」
ロアンは思わず聞き返した。
「他に何か必要ですか」
言ってから、少しだけまずかったかもしれないと思った。
相手は魔王である。
聞き返し方として正しいかは分からない。
ミルカが横で、ほんの少しだけ顔をしかめた。
けれど、ロアンには本当に分からなかった。
名前を聞かれたから、名前を言った。
それだけでは足りないらしい。
何が足りないのか。
勇者。
神託。
聖剣。
そういうものを、魔王は待っていたのだろうか。
だとしたら、なおさら困る。
そんなものはない。
◆ 所属
魔王が問う。
「所属は」
ロアンはミルカを見た。
ミルカが小さくうなずく。
ここは曖昧にしない方がいい。
ロアンは答えた。
「アークガルム王国第八傭兵団第三遊撃部隊、灰の一団です」
言い慣れてきたはずの名乗りなのに、玉座の間では妙に長く響いた。
最初に聞いた時も長いと思った。
今言っても、やはり長い。
ガルドなら途中で飽きるかもしれない。
そんなことを一瞬考えてしまい、ロアンは自分で少し驚いた。
まだ、そんなことを考えられる。
魔王の眉が、わずかに動いた。
「王国の兵か」
ロアンは首を振る。
「正式な兵ではありません。傭兵扱いです」
「傭兵が、魔王の前に立つか」
その言葉に、ロアンは返答に困った。
立ちたくて立っているわけではない。
できれば、ここまで来る前に誰かが何とかしてくれた方がよかった。
けれど、誰かだけでは足りなかった。
だから来た。
ロアンが答える前に、ガルドがぼそりと言った。
「危険手当は出るんだろうな」
ミルカが即座に小声で返す。
「今それ言う?」
ガルドは肩をすくめた。
「大事だろ」
「大事だけど、順番がある」
ロアンは少しだけ笑いそうになった。
怖い。
足は重い。
魔王は目の前にいる。
それでも、そのやり取りで呼吸が戻る。
自分たちは、まだ自分たちのままだ。
エナも少しだけ目を伏せた。
笑ったわけではない。
でも、張り詰めていた肩がほんの少しだけ下がった。
魔王は、そのやり取りを黙って見ていた。
威厳のある名乗りではない。
神聖さもない。
決戦に酔う熱もない。
ただ、長い旅の途中で何度も危ない橋を渡ってきた四人の、いつもの間がそこに残っていた。
ロアンにとっては、それがありがたかった。
## 条件照合
魔王は四人を観察した。
ロアンは、その視線が自分の剣、外套、手、顔、立ち位置を順に見ているのを感じる。
剣を見られる。
靴を見られる。
呼吸を見られる。
ミルカの杖を見られる。
エナの装束を見られる。
ガルドの構えを見られる。
ただ見られているだけなのに、身動きが重くなる。
魔王が言う。
「東の血筋ではない」
ロアンは答えた。
「西の村の出です」
東の血筋。
勇者候補の話で聞いたことはある。
けれど、自分には関係がない。
ロアンは本当にそう思っている。
魔王は続ける。
「中央神殿の神託は」
エナが首を横に振った。
「受けていません」
声は少し震えていた。
だが、嘘はない。
エナは神託など受けていない。
田舎神殿にいた。
掃除をして、祈って、怪我人を治していた。
そこでロアンたちと出会った。
それだけだ。
魔王がさらに問う。
「聖剣は」
ロアンは腰の剣を見る。
「これですか?」
魔王は答えない。
ロアンは正直に言った。
「もらいものです」
少しだけ、あの鍛冶場の熱を思い出す。
疲れ切った鍛冶師。
その妻。
炉の赤。
受け取った時の重さ。
大事な剣ではある。
旅の間、ずっと使ってきた。
何度も助けられた。
だが、聖剣ではない。
少なくとも、ロアンはそう思っている。
魔王が問う。
「誰から」
「鍛冶屋さんから」
「聖都の鍛冶師か」
「いえ。田舎町の」
ガルドが少しだけ剣を見る。
あの剣を初めて見た時のことを思い出しているのかもしれない。
ミルカは無言だった。
魔王は次を問う。
「聖痕は」
四人は顔を見合わせた。
ロアンは一瞬、幼い頃の火傷を思い出しかける。
だが、すぐに違うと思った。
あれは、スライムに焼かれた跡だ。
聖なるものではない。
ただの失敗の痕である。
ミルカが少し困ったように答えた。
「そういうのは、ありません」
「神殿の認定は」
「ありません」
「天空要塞は」
ガルドが短く言う。
「通ってない」
ミルカが補足した。
「遠回りしました」
「攻略していないのか」
「してません」
「なぜ」
ミルカは一瞬、答えに迷った。
それから、当然のように言う。
「行く理由がなかったので」
玉座の間が静まった。
ロアンは、魔王が何を確認しているのか、少しずつ分かってきた気がした。
魔王は、勇者を探している。
勇者の条件を探している。
血筋。
神託。
聖剣。
聖痕。
天空要塞攻略。
神殿認定。
けれど、自分たちにはそのどれもない。
ないものを聞かれても、ないと答えるしかない。
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