(四)火を焚かない夜
◆ 火を焚かない夜
夜。
一行は、崖のくぼみで休んだ。
火は焚かない。
煙も出さない。
声も低くする。
水は少しだけ。
食事は乾いたもの。
寒さで指が動きにくい。
ガルドが布を被りながら言った。
「火がほしいな」
ミルカが答える。
「火を焚いたら、あっちに知らせる合図になる」
ガルドは黙って布をさらに被った。
「火は敵か」
「今は敵」
「水の時は味方ではなかった」
「状況による」
「火も水も難しい」
ロアンが乾いた食料を噛みながら言う。
「鍋があれば、少し気持ちは楽だった」
ミルカが冷たく答える。
「鍋は置いてきた」
「知ってる」
「未練があるの?」
「少し」
エナが小さく手を合わせる。
「鍋が無事に戻れますように」
ミルカが言う。
「祈る対象が鍋になった」
ガルドは真面目に頷いた。
「大事な鍋だった」
「あなたまで」
ロアンは少し笑った。
崖の上で笑うのは危ない。
それでも、笑わないと体が固まりすぎる気がした。
遠くで、天空要塞の風笛が鳴った。
低い音が、夜の山を渡っていく。
魔王城へ向けた定時信号かもしれない。
ミルカが呟く。
「要塞はちゃんと生きてる」
ロアンは答える。
「だから、攻めない」
エナが空を見る。
「見られませんように、じゃなくて……落ちませんように、ですね」
ロアンは頷いた。
「両方でお願いします」
ガルドが言う。
「それと鍋も」
ミルカがため息をついた。
「鍋はもういい」
「まだ戻ってない」
「今ここで鍋の心配をしても、鍋は何も変わらない」
「たしかに」
エナは少し笑って、布を引き寄せた。
夜は長かった。
火を焚かない夜は、体よりも心が冷える。
それでも、誰も火を求めて動かなかった。
見つからないこと。
それが今の戦いだった。
◆ 要塞を見上げる
翌日。
雲が薄くなった。
一行は岩陰から、天空要塞を見上げた。
高い。
黒い壁。
火鏡塔。
鳥型魔物。
風に揺れる監視旗。
過去の勇者は、あそこへ向かった。
塔を壊し、司令官を倒し、道を開いた。
文献に残る勝利とは、きっとそういうものだ。
ガルドが言う。
「行かないのか」
ロアンは答えた。
「行く理由がない」
ガルドが少し笑う。
「見つかったら?」
「逃げる」
ミルカが言う。
「雑」
ロアンは要塞を見上げたまま答える。
「でも、戦うよりまし」
エナが静かに言った。
「あそこへ行ったら、たぶん戻れません」
ロアンは頷く。
「だから行かない」
ガルドはしばらく要塞を見ていた。
「強そうだ」
「強いと思う」
「戦わないのか」
「戦わない」
「勝てないからか」
ロアンは少し考えた。
「勝てたとしても、ここで勝つ必要がないから」
ミルカが言う。
「勝ったら、魔王城に知らせることになる。要塞を攻める時点で、大きな痕跡になる」
エナが言う。
「誰かがたくさん怪我をします」
ガルドは頷いた。
「なら、行かない」
ロアンは要塞を見上げた。
勇者なら挑む。
灰の一団は挑まない。
そこに誇らしさはない。
でも、恥でもない。
必要なことをする。
必要のないことをしない。
それだけだ。
ロアンは言った。
「俺たちは魔王城へ行く。天空要塞を倒しに来たんじゃない」
ミルカが頷く。
「目的を間違えない」
ガルドが剣から手を離した。
「分かった。今回は見逃してやる」
ミルカが即座に返す。
「向こうは見逃されたと思ってない」
「それでいい」
ロアンは少し笑った。
たしかに、それでよかった。
◆ 痕跡を消す
灰の一団は、通った跡をできるだけ残さないように進んだ。
土を踏まない。
雪の上を長く歩かない。
岩場を選ぶ。
崩れた石は戻せないが、大きな落石は起こさない。
布切れを落とさない。
食べ残しを捨てない。
野営跡を残さない。
ミルカは低く言う。
「完全には消せない。けど、軍の痕跡にはしない」
ロアンが聞く。
「軍の痕跡?」
「足跡の列。荷物の跡。焚火の灰。車輪。馬の糞。折れた枝の数。そういうもの」
ガルドが自分の足元を見る。
「俺たちの跡は?」
「獣か、猟師か、はぐれ兵か、分からないくらいには薄くしたい」
エナが言う。
「分からないなら、報告されてもすぐには動かない?」
ミルカは頷く。
「たぶん。あの要塞が見るべきものは多すぎる」
ロアンは足元の小石を直した。
直したというより、目立ちにくい場所へ寄せた。
「これは意味ある?」
ミルカが見る。
「少しは」
「少し」
「少しの積み重ね」
ガルドが言う。
「俺も小石を戻すか」
「大きな石を動かすと、逆に目立つ」
「難しいな」
エナがガルドの外套の裾を直した。
「ここ、岩に引っかかって糸が出ています」
ミルカがすぐに切る。
「残すと目印になる」
ガルドは外套を見る。
「外套も怪我をするのか」
ロアンが答えた。
「してる」
「手当ては?」
エナが少し笑った。
「縫います。あとで」
ミルカが言う。
「今は切るだけ」
ガルドは頷いた。
「外套も戻れるといいな」
ロアンは思った。
ロアンたちはいつの間にか、物にも戻る場所を考えるようになっている。
鍋も外套も。
もちろん、人が先だ。
だが、そういう小さな会話が、今の自分たちを保っている気がした。
痕跡を消しながら、進む。
目立たないように。
意味を持たせないように。
空の目に、ただの小さな乱れとして処理されるように。
※第32話「空の目を避けて」は全六回です。
続きます。
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