(四)水を来させる
◆ 精霊王を待つ者
作業が進む一方で、軍の中にはまだ水の精霊王を待つ者がいた。
神官の一人が、堤を見上げて言った。
「本当に精霊王を呼ばずに済むのでしょうか」
別の兵が答える。
「文献には、現れたとある」
「祈祷の準備をした方が」
「大規模な水精霊術なら、魔術師を集めるべきでは」
ロアンはその声を聞いていた。
責める気にはならない。
火山拠点の防衛線は強い。
水の精霊王という言葉にすがりたくなる気持ちも分かる。
でも、待っていても水は来ない。
ロアンは言った。
「来ないものを待っている間に、できることをやります」
神官がロアンを見る。
「来ないと決めつけるのですか」
「来たら助かります。でも、来なかった時に何もできていないのが一番困ります」
エナが少しだけ神官を見る。
「精霊を信じることと、堤を直すことは、矛盾しないと思います」
神官は言葉に詰まった。
ミルカは水路を指した。
「水が流れれば、見た人は精霊王だと思うかもしれない。でも、流す準備をする人がいなければ、水は来ないし、来ても暴れる」
ガルドが戻ってきて言った。
「つまり、精霊王は来ないが、水は来る」
ロアンは頷く。
「水を来させる」
その言葉に、周囲の空気が少し変わった。
水を待つのではない。
水を呼ぶのでもない。
水を来させる。
そのために、石を積み、水路を掘り、避難路を作り、合図を決める。
ミルカは堤を見上げた。
「ほぼ精霊王ね」
ガルドが聞く。
「精霊王なのか」
「違う。でも扱いは近い」
「つまり、怒らせると危ない」
「かなり」
「なら丁寧にやる」
「そうして」
神官は、しばらく堤を見ていた。
それから、小さく言った。
「祈祷は続けます」
ロアンは頷く。
「お願いします」
「堤の作業も、手伝わせます」
ミルカが言う。
「それは助かります」
エナは少しだけ微笑んだ。
祈る人がいてもいい。
石を積む人がいてもいい。
水路を掘る人がいてもいい。
役目が違うだけだ。
全部が揃って、ようやく水は来る。
◆ 決壊の条件
堤を切るには、条件があった。
早すぎれば、魔王軍が立て直す。
遅すぎれば、味方が火山拠点の正面で削られる。
水量が少なければ、防衛線は崩れない。
水量が多すぎれば、下流の村や味方も危ない。
さらに、火山の熱で水が一気に蒸気になる可能性がある。
ミルカは火山拠点側の地形を見ながら言った。
「熱い岩の上に流れると、蒸気で視界が消える。味方は近づかせない方がいい」
ロアンは指揮官に確認する。
「水が流れた後に、突入するのはどの部隊ですか」
指揮官は地図を指した。
「重装兵は遅い。軽装兵と工兵、魔術師で先に入る」
ガルドが言う。
「足場は悪い。大盾は捨てた方がいい」
兵士の一人が反論しかける。
「盾を捨てるのか」
ガルドは淡々と言った。
「泥に取られる。持つなら小さい盾だ。大きい盾は戻せない」
ミルカが小さく呟く。
「戻せる幅、火山版」
ロアンは頷く。
「分かりやすい」
エナは山を見ていた。
「決壊の直後じゃなくて、少し待った方がいい気がします」
指揮官が聞く。
「どれくらい待つ」
エナは困った顔をした。
「そこまでは、はっきりとは」
ミルカが補う。
「水の第一波は危険すぎる。二波目の後、蒸気が切れる瞬間を狙う」
ロアンは作戦を整理する。
「堤を切る。第一波は待つ。二波目の後、蒸気が薄くなったところで突入。戻る道は黒い谷じゃなく、尾根側」
指揮官が地図に線を引く。
「尾根側は狭い」
「だから、戻る部隊と進む部隊を分けます。負傷者は尾根側へ。突入部隊は黒い谷へ」
ミルカが言う。
「蒸気が濃い間は、合図が見えない。音で決めましょう」
水番の末裔が頷く。
「鐘と角笛だな」
ロアンは全員を見る。
「切った後は、止められません。だから、切る前に全部確認します」
ガルドが言う。
「切る前に戻る道」
「そう」
「切った後は進む道」
「そう」
ガルドは少し満足そうに頷いた。
「分かってきた」
ミルカが言った。
「水は待ってくれないからね」
エナが小さく言う。
「だから、人が待つんですね」
ロアンは頷いた。
「うん。水を待たせるんじゃなくて、俺たちが待つ」
堤の水は、静かに揺れていた。
まだ何も知らないように。
けれど、一度動けば止まらない。
◆ 乾いた谷
火山拠点側では、魔王軍が防衛線を固めていた。
乾いた谷には柵が並ぶ。
上には弓兵。
黒い岩壁には、落石を起こすための仕掛け。
火山灰の斜面には、足を取る細かな砂が積もっている。
熱風が谷を抜ける。
長時間ここにいれば、水も体力も奪われる。
魔王軍は、水の精霊王の伝承を知っていた。
だが、本当に精霊王が現れるとは考えていなかった。
警戒していたのは、大規模な水精霊術や、神官たちの儀式だった。
火山拠点の防衛は、乾いた谷を前提に作られていた。
水は少ない。
敵は冷却も消火もできない。
谷を進ませ、上から撃つ。
岩を落とす。
熱で削る。
それが防衛線だった。
山上の古い堤が、まだ使えるとは思っていない。
堤は古く、壊れ、忘れられている。
だからこそ、盲点になった。
ロアンは遠くからその防衛線を見ていた。
「乾いた谷を前提にしている」
ミルカが頷く。
「そこへ水を入れる」
ガルドが言う。
「乾いたところに水を入れたら、滑るな」
「滑るどころじゃないと思う」
エナは谷を見て、少し顔を曇らせた。
「味方も近づきすぎない方がいいです」
ロアンは頷く。
「第一波は待つ。絶対に」
指揮官が兵士たちへ命じる。
「合図までは前に出るな。水を追うな。蒸気に入るな」
兵士たちは緊張した顔で頷いた。
水の精霊王は来ない。
それでも、何か大きなものが来る。
その予感だけは、全員にあった。
※第31話「水の精霊王は来ない」は全六回です。
続きます。
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