(七)水の精霊王
◆ 歌を残す
深森拠点が落ちた後、軍は新しい導きの石を持ち帰ろうとした。
神官が言う。
「これは再び必要になるかもしれません。軍で管理するべきでは」
ロアンは首を横に振った。
「これは、この森のものだと思います」
神官は少し困った顔をする。
「しかし、また必要になった時は」
ミルカが答えた。
「作り方を記録します」
「作り方」
「黒い鉱石、金属片、器の構造、針の置き方、台座の矢印との合わせ方、歌との合わせ方。持ち去るより、作れるようにした方がいい」
老婆が頷いた。
「石だけでは足りないよ」
ロアンは老婆を見る。
「歌も、ですよね」
「そう。石だけ持っていっても、森は歩けない」
エナが言う。
「歌を忘れたら、右も戻る場所も分からなくなります」
ガルドが導きの石を見る。
「石は道を知らない」
ミルカが少し笑う。
「覚えたのね」
「覚えた。石は向きを忘れないためのもの」
「合ってる」
「褒められた」
「はいはい」
村の子どもたちが、老婆の周りに集められた。
老婆は歌をもう一度歌う。
子どもたちは真似して歌う。
朝は苔石。
昼は白樺。
夕は沢音。
夜は星なし。
赤い沢には足を入れるな。
三つ倒れた木を越えたら戻れ。
鳥の声が消えたら右へ行くな。
黒い石には急かされるな。
軍の記録係が、それを書き留める。
ただし、紙だけでは足りない。
節。
間。
歩調。
どこで止まるか。
どこで待つか。
それは村人が教える必要がある。
ロアンは記録係に言った。
「歌詞だけでは足りません。歩き方も一緒に残してください」
記録係は頷く。
「分かった。村の者に教えを請う」
老婆は少し偉そうに言った。
「請われたなら、教えるさ」
ガルドが小声で言う。
「老婆は師範に似ている」
ミルカが答える。
「年を重ねた人は、だいたい強い」
「剣も?」
「剣以外も」
「なるほど」
ロアンは新しい導きの石を台座に戻した。
かつての石ではない。
失われた神器の完全な再現でもない。
けれど、同じ役目は果たした。
森の中で、人が向きを失わないようにした。
それで十分だった。
◆ 水の精霊王
深森拠点から、次の拠点に関する資料が見つかった。
火山地帯の防衛線。
溶岩流。
熱風。
水のない土地。
魔王軍の補給記録。
灰の一団と軍の指揮官たちは、臨時の天幕で資料を確認した。
神官が古い勇者文献を開く。
「火山地帯について、文献にはこうあります」
ロアンは少し身構えた。
この流れには覚えがある。
人魚の導き。
導きの石。
どちらも、文献の言葉をそのまま受け取るだけでは足りなかった。
神官は読み上げた。
「水の精霊王が現れ、炎の砦を沈めた」
沈黙が落ちた。
ミルカが最初に言った。
「また、すごい言葉が出てきた」
ガルドが真面目に聞く。
「水の精霊王は、頼めば来るのか」
エナが少し困った顔をする。
「来てくれるなら、ありがたいですけど」
ロアンは資料を見る。
火山。
熱。
水のない土地。
炎の砦。
水の精霊王。
言葉だけなら、今度こそ本当に神話めいている。
だが、人魚はいなかった。
導きの石も、失われたままでは終わらなかった。
必要だったのは、現地の海女。
歌。
黒い鉱石。
職人。
台座。
戻る道。
なら、今回もきっと、いきなり精霊王を呼ぶ話ではない。
ロアンは顔を上げた。
「まず、火山の近くで話を聞こう」
ミルカが頷く。
「伝承より、現地の人の話」
ガルドが言う。
「火山の人か」
エナが不安そうに聞く。
「火山にも、人がいるんでしょうか」
指揮官が答える。
「麓にはいる。昔から水路と灰避けで暮らしてきた村がある」
ロアンは頷いた。
「なら、そこへ行きましょう」
神官は少し複雑そうに文献を見た。
「水の精霊王ではなく、現地の人ですか」
ミルカが言う。
「人魚の時もそうでした」
ガルドが付け足す。
「導きの石の時もそうだった」
エナがやさしく言う。
「でも、文献も役に立っています。聞きに行く場所を教えてくれますから」
神官は少し驚いたようにエナを見た。
それから、静かに頷いた。
「そうですね」
ロアンは灰色の外套を整えた。
次は火山。
古い文献には、水の精霊王とある。
ロアンたちは、まだ知らない。
そこに精霊王は来ない。
だが、水はある。
昔の人間が、山に残した水がある。
それを知るために、彼らはまた次の土地へ向かう。
◆ 新しい導きの石
導きの石は、そこにはなかった。
祠は荒らされていた。
石を置いていたらしい台座だけが残り、器は割れ、周囲には魔王軍が踏み荒らした跡があった。
持ち去られたのか。
砕かれたのか。
それすら、現地では分からなかった。
残っていたのは、石そのものではない。
石を置いていた台座。
器の破片。
黒い石という言葉。
台座に刻まれた四つの矢印。
そして、老婆が覚えていた歌だった。
朝は苔石。
昼は白樺。
夕は沢音。
夜は星なし。
赤い沢には足を入れるな。
三つ倒れた木を越えたら戻れ。
鳥の声が消えたら右へ行くな。
黒い石には急かされるな。
導きの石は、失われていた。
だが、導きそのものが失われたわけではなかった。
歌が残っていた。
台座が残っていた。
黒い石を知る鍛冶師がいた。
器を削れる石工がいた。
そして、それらを見て、もう一度作ろうとするミルカがいた。
新しい導きの石は、かつての石ではなかった。
失われた神器の完全な再現でもなかった。
だが、同じ方を向いた。
森の中で、人が向きを失わないようにした。
それで十分だった。
石だけでは足りなかった。
歌が要った。
台座に刻まれた矢印が要った。
朝は苔石。
昼は白樺。
夕は沢音。
夜は星なし。
赤い沢には足を入れるな。
三つ倒れた木を越えたら戻れ。
鳥の声が消えたら右へ行くな。
黒い石には急かされるな。
それは、森を歩くための歌だった。
同時に、森から戻るための歌だった。
老婆が覚えていた。
村が忘れかけていた。
ミルカが石を作り直した。
ロアンが進む道と戻る道を考えた。
エナが危ない場所で立ち止まった。
ガルドが狭い根道で魔物を止めた。
そして、軍が進んだ。
深森拠点は落ちた。
灰の一団だけで成したことではない。
鍛冶師が針を打った。
石工が器を削った。
老婆が歌を教えた。
村人が道を思い出した。
兵士が森を進んだ。
それぞれが、少しずつ足りないところを補った。
森は、もう完全には閉じていなかった。
だが次に見えたのは、火山だった。
古い文献には、水の精霊王とある。
ロアンたちは、まだ知らない。
そこに精霊王は来ない。
だが、水はある。
昔の人間が、山に残した水がある。
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