(六)森の門
◆ 急かす声
森の深部に近づくと、導きの石の針が大きく揺れた。
これまでよりもずっと不安定だった。
兵士たちがざわつく。
「壊れたのでは」
「戻るべきでは」
「急いで抜けた方がいい」
その時、森の奥から声が聞こえた。
「おーい」
人の声だった。
助けを呼んでいるようにも聞こえる。
兵士の一人が顔を上げる。
「仲間か?」
別の兵士が一歩踏み出した。
ロアンも、反射的に動きかけた。
エナが袖を掴む。
「今は、だめです」
ロアンは止まった。
ミルカが導きの石を見る。
針はまだ揺れている。
村人が小さく、歌の最後を口ずさんだ。
「黒い石には急かされるな」
ロアンは拳を握った。
「待つ」
声はまた聞こえた。
「こっちだ」
今度は、少し近い。
ガルドは剣に手をかけたが、抜かなかった。
「声が近づいた」
ミルカが言う。
「位置がおかしい。風の流れとも合わない」
エナは袖を離さない。
「行かない方がいいです」
一行は動かずに待った。
針が揺れる。
声が聞こえる。
枝が軋む。
誰かが焦って息を飲む。
それでも待つ。
やがて、声はぷつりと消えた。
導きの石の針も、少しずつ落ち着いた。
ガルドが低く言った。
「あれは、声じゃなかったな」
森の奥で、何かが枝を揺らした。
葉の間に、細長い影が見えた。
猿に似ていたが、腕が長すぎる。
顔の横に、裂けた袋のような喉が膨らんでいる。
その喉が、さっきの声を出していたのだと分かった。
ロアンは呟いた。
「……人の声を真似る魔物か」
ミルカは地面を指した。
声の方へ向かう細い道の先には、落ち葉で隠れた穴があった。
穴の縁には、太い根が絡んでいる。
一度足を踏み外せば、腰まで落ちる。
そこへ上から魔物が飛びかかる。
そういう場所だった。
ガルドが剣を抜きかける。
ミルカが止めた。
「追わない。向こうの場所が有利」
ガルドは少しだけ目を細め、それから剣を戻した。
「分かった。あれは、待つ方が勝ちか」
エナは小さく息を吐いた。
「行かなくてよかったです」
ロアンも頷く。
「声に急かされていたら、穴に落ちていた」
村人が震えた声で、歌の最後を繰り返した。
「黒い石には急かされるな」
ロアンは導きの石を見た。
小さな器の中で、金属片が一つの向きを示している。
それは言葉を話さない。
道を知っているわけでもない。
ただ、同じ向きを示している。
その基準があるだけで、人は踏みとどまれる。
森に急かされても、待てる。
ロアンは小さく言った。
「これ、歌がなかったら全部踏んでたな」
ミルカが頷く。
「石だけでも無理。歌だけでも無理。両方あって、ようやく進める」
エナが森を見た。
「でも、森はちゃんと教えてくれていたんですね」
ロアンはその言葉を考えた。
森は悪意を持っているわけではない。
ただ、知らない者には危険すぎる。
知っている者が、歌にして残した。
それを聞くかどうか。
守るかどうか。
そこが分かれ目だった。
◆ 森の門
深森拠点の入口は、巨大な木の根に覆われていた。
石造りの門がある。
だが、苔と根が絡み、遠目にはただの崖か、木の塊にしか見えない。
普通に進めば、ここへ辿り着く前に道を見失う。
沢を避ける。
赤い水を避ける。
鳥の声が消えた場所を避ける。
似た木立に惑わされる。
そうしているうちに、入口へ向かっていたはずの足は、いつの間にか森の外縁へ逸れる。
森が人を追い返しているのではない。
森を知らない者が、自分から道を外してしまう。
ロアンは根の列を見た。
老婆の歌。
新しい導きの石。
村人の知識。
エナの予感。
それらを使って、ようやくここまで来た。
「ここか」
ガルドが根の隙間を見る。
「狭いな」
ミルカが言う。
「拠点入口は、狭い方が守りやすい」
「大きく振れない」
「だから大きく振らないで」
「森に入ってから、そればかり言われる」
「必要だから」
最後の地点には、三つの倒木の先に似た戻りにくい道があった。
だが今回は、準備を済ませている。
戻れる道も確認している。
後続への目印も残してある。
導きの石の針が揺れた。
兵士が焦る。
「今なら開けられるのでは」
ミルカは首を振った。
「黒い石には急かされるな」
一行は待った。
森の風が止まる。
遠くで、鳥が一度だけ鳴いた。
導きの石の針が、ゆっくりと落ち着く。
ミルカが言う。
「今」
ロアンは根の影にある石を見つけた。
押すのではない。
叩くのでもない。
村人の言葉どおり、手を置く。
そして、待つ。
根の奥で、低い音が鳴った。
木の根がきしみ、苔に覆われた石の隙間が少しずつ開いていく。
森の門が現れた。
兵士たちが息を呑む。
ガルドは静かに剣を抜いた。
「ここからは敵だな」
ロアンは頷いた。
「でも、俺たちだけで落とすんじゃない」
ミルカが振り返る。
「後続を呼ぶ」
エナが言った。
「戻る道もあります」
ロアンは小さく息を吐いた。
「よし。道は開いた」
◆ 深森拠点
門が開いたことで、後続の多国籍軍が進入できるようになった。
灰の一団は門を開けた。
だが、深森拠点を単独で落とすわけではない。
ロアンは後続部隊へ道を伝える。
「赤い沢は迂回。三本倒木のところで一度止まって目印確認。鳥の声が消えた場所では右に行かない。導きの石が揺れたら待つ」
兵士が書き留める。
「待つ、ですか」
「待つ、です」
「敵前でも?」
ミルカが横から言う。
「敵前で間違うよりまし」
「了解」
ミルカは導きの石の向きをもとに、安全な休止地点と危険地帯を地図に写す。
エナは森で倒れた兵を手当てする。
「この人は水を少しずつ。そちらの人は、足を冷やしすぎないでください」
ガルドは狭い根道で魔物を止めた。
森の中では、長槍や大盾が扱いにくい。
兵士たちの動きも鈍る。
ガルドは短く言った。
「大きく振るな。木に当たる。戻せる幅で斬れ」
兵士が聞き返す。
「戻せる幅?」
ガルドは剣を小さく振った。
「こうだ。斬った後、すぐ戻せるところまで」
ロアンは思わず言う。
「師範っぽい」
ガルドは少し得意そうにした。
「田舎道場の教えだ」
ミルカが言う。
「森でも役に立つのね」
「だいたい役に立つ」
「その自信は少し分けてほしい」
「要るか?」
「今はいらない」
「そうか」
深森拠点は、森の迷いを防御に使っていた。
しかし、道が開けばただの拠点でもある。
各国軍が突入する。
補給庫を焼く。
魔法陣を破壊する。
捕虜を救出する。
魔王軍は撤退を始めた。
森の深部に隠されていた補給路は断たれる。
戦いは激しかったが、長くは続かなかった。
森が守りだった。
その森を抜ける道ができた時点で、深森拠点の優位は崩れていた。
ロアンは、門の近くで後続の兵を誘導していた。
「こちらです。赤い布の目印から外れないでください」
兵士が走る。
神官が負傷者を運ぶ。
魔術師が結界を張る。
村人が森の道を示す。
灰の一団だけではない。
それぞれが役目を持って動いている。
ロアンはその光景を見て、少しだけ頷いた。
「やっぱり、道を開ければ進めるんだな」
ミルカが隣で答える。
「道を開けるまでが大変だけどね」
「それは本当に」
ガルドが魔物を斬り伏せて戻ってくる。
「森は敵より厄介だった」
エナが頷く。
「でも、森は敵ではありませんでした」
ミルカが導きの石を見た。
「知らないと危険。知れば進める。そういう場所」
ロアンは森を見上げた。
木々の隙間から、わずかに光が差している。
森は、もう完全には閉じていなかった。
※第30話「新しい導きの石」は全七回です。
続きます。
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