(一)森の前で止まる軍
◆ 森の前で止まる軍
南の大陸は、湿っていた。
海から上がったばかりの風が、内陸の森へ押し込まれている。
地面は柔らかく、草は厚く、木々はこれまでロアンたちが通ってきた土地よりもずっと濃かった。
港から内陸へ進んだ各国混成軍は、その森の前で止まっていた。
森の向こうには、魔王軍の深森拠点がある。
そこを落とせば、内陸への補給路が開く。
だが、軍は進めていなかった。
森に入った斥候が戻らない。
戻ってきた者もいるが、半日進んだはずなのに、森の入口近くをぐるぐる歩いていたと言う。
別の部隊は、仲間の声が聞こえた方へ進んで、ぬかるみに落ちた。
地図は役に立たない。
木の並びは似ている。
霧が出る。
音がずれる。
根が足を取る。
沢の位置が分からなくなる。
軍の指揮官は、森を睨んでいた。
「正面から進めば、森そのものに兵を削られる」
ロアンも森を見た。
入り口だけなら、普通の森に見える。
ただ、奥が暗い。
木の影が重なりすぎて、どこから道で、どこから藪なのかが分かりにくい。
エナは胸元に手を当てている。
「森の奥、嫌な感じがします」
ガルドは剣の柄に手を置いた。
「嫌な感じの森か」
ミルカが言う。
「だいたいの森は、準備なしで入ると嫌な感じになる」
「そうなのか」
「そう。特に知らない森」
ロアンは指揮官へ顔を向けた。
「森を抜ける道は、ないんですか」
指揮官は首を振る。
「地図上にはある。だが、森の中では消える」
「消える?」
「進んでいるつもりが、いつの間にか逸れる。印を付けても、次に見ると違う木に付いているように見える」
ガルドが眉をひそめる。
「木が動くのか」
ミルカが即座に言った。
「たぶん動かない」
「動かないなら、なぜ違う木に見える」
「全部似ているから」
「木にも個性があるだろう」
「ガルドが木の個性を見分けられるなら、ぜひ前へ」
ガルドは森を見て、少し考えた。
「……三本目までは分かる」
「少ない」
「五本なら努力する」
「努力で何とかなる森じゃないと思う」
近くにいた神官が、古い文献を抱えて進み出た。
「勇者文献には、こうあります。勇者は導きの石を手に、迷いの森を抜けた、と」
ロアンは聞き返した。
「導きの石?」
「はい。古い祠に納められていた、森を進むための石です」
ミルカが眉をひそめる。
「また、文献の言葉ですね」
ロアンは小さく笑った。
「最近、古い文献はそのまま信じない方がいいって分かってきた」
エナがうなずく。
「人魚も、人魚ではありませんでした」
ガルドが森を見る。
「なら、石も石ではないのか」
ミルカは少し考えてから答えた。
「石ではあると思う。問題は、それが何をしていたか」
神官は少し困った顔をした。
「しかし、文献には確かに」
「文献が間違いとは言っていません」
ミルカは森を見た。
「ただ、何をもって導きと呼んだのかは、現地で確認した方がいい」
ロアンは頷いた。
「森のことは、森の人に聞こう」
ガルドが言う。
「人魚の時と同じだな」
エナが少し笑った。
「次は、森の人ですね」
ロアンは森の入口に立つ村を見た。
「まずは、導きの石を知っている人を探そう」
◆ 石はなかった
現地の村には、導きの石の話が残っていた。
森の近くに古い祠がある。
そこに、黒い石を収めた小さな器が置かれていた。
森へ入る者は、その石を借りて入った。
勝手に持ち出すことは禁じられていた。
石だけではなく、歌と一緒に使うものだったという。
村人の話を聞きながら、ロアンは少し首をかしげた。
「石と歌?」
村人は頷く。
「そう聞いている。石を持って、歌を知る者と入るんだ」
ガルドが言う。
「歌だけでは駄目なのか」
「駄目らしい」
「石だけでは?」
「それも駄目らしい」
ガルドは腕を組んだ。
「不便な神器だな」
ミルカが言う。
「神器と決めるのは早い」
「では不便な石か」
「それもまだ早い」
「じゃあ何なんだ」
「それを調べる」
ロアンは苦笑した。
「ガルド、今日は早いな」
「何がだ」
「決めつけが」
「早い方が迷わない」
ミルカが冷静に返す。
「早すぎると間違う」
「なるほど」
祠は、村の外れにあった。
石の屋根は割れ、苔が付いている。
扉は壊されていた。
中には、台座が残っている。
その上にあったはずの器は割れ、破片が周囲に散っていた。
そして肝心の石は、なかった。
神官が息を呑む。
「導きの石が……」
指揮官も顔をしかめる。
「これでは森へ入れん」
兵士たちの間に、落胆が広がった。
「神器がないなら、無理だ」
「王都から魔術師を呼ぶしかない」
「別の道はないのか」
「森を迂回すれば数週間かかる」
「その間に拠点を固められるぞ」
ロアンは台座を見る。
「石がないなら、どうしようもないのかな」
ミルカは割れた器の破片を拾い上げた。
「石そのものはない。でも、どういうものだったかは調べられるかもしれない」
ロアンが聞く。
「石はないのに?」
「石はない。でも、置き方と使い方の跡は残ってる」
「跡で分かる?」
「全部は無理。でも、何もないよりはずっといい」
ガルドが祠の床を見る。
「荒らされているな」
村人が頷いた。
「近年、魔王軍が勇者伝承に関わる場所を潰して回っている、という話があります。この祠も、その時に」
エナがそっと割れた器を見る。
「持っていかれたんでしょうか」
村人は首を横に振った。
「分かりません。持ち去られたのか、砕かれたのか。それすら」
ロアンは黙った。
導きの石はない。
文献に頼ってきた兵士たちは落胆している。
だが、何も残っていないわけではない。
台座がある。
器の破片がある。
村人の話がある。
石と歌を一緒に使うという言葉がある。
ロアンは顔を上げた。
「この石を使っていた人はいませんか」
村人たちは顔を見合わせる。
「今はもう、森へ深く入る者はいません」
「昔は?」
「昔は、歌を知る者がいたそうです」
「歌」
ロアンはミルカを見る。
ミルカも頷いた。
「歌を聞きましょう」
村人は少し考え、村外れに住む老婆を紹介した。
森の炭焼きの家に生まれた老婆だという。
幼い頃に森の歌を聞いて育った。
今は足が悪く、森には入らない。
だが、歌は覚えているらしい。
ガルドが言う。
「歌を知る老婆か」
ロアンが頷く。
「海の時も、歌を知る人がいたな」
エナが言う。
「昔の歌は、道を覚えるためにも使うんですね」
ミルカは台座を見たまま答えた。
「文字にしにくいものを残すには、歌の方が強い時がある」
「ミルカも歌いますか?」
「歌わない」
「即答ですね」
「必要なら読む」
ガルドが言う。
「読む歌とは」
ミルカは少しだけ眉を寄せた。
「今そこを掘らないで」
※第30話「新しい導きの石」は全七回です。
続きます。
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