(五)手の届く範囲
◆ 悪い予感
その夜、エナは眠れずに甲板へ出た。
海は暗い。
船の側面を波が叩く音がする。
空には雲があり、星は少なかった。
エナは胸元を押さえた。
悪い予感がしていた。
はっきりしたものではない。
船が沈むとか、誰かが死ぬとか、そういう明確なものではない。
ただ、胸の奥が冷える。
進む先に、何かがある気がする。
そこへ、白い旅装の女性が来た。
「眠れませんか」
エナは少し驚いた。
「少しだけ」
女性は海を見る。
「悪い予感がしますか」
エナはさらに驚いた。
「どうして」
女性は微笑む。
「そういう顔をしていました」
エナは迷った。
それから、小さく言う。
「私は、時々、だめな気がすることがあるんです」
「だめな気」
「はい。見えているわけではないんです。ただ、今そっちへ行ったらだめとか、この人を後にしたらだめとか。そういう感じで」
女性は静かに聞いていた。
「それで、助けられた人はいますか」
エナは少し考える。
国境の道。
森。
橋。
怪我人。
海女が潜る時。
いくつかの顔が浮かんだ。
「たぶん、います」
女性は頷いた。
「なら、それでよいのです」
エナは女性を見る。
「それで、いいんですか」
「ええ」
女性は海へ目を向けたまま言った。
「未来は、石に刻まれているものではありません」
エナは首をかしげる。
「未来?」
「人は時々、これから起きそうなことの影を見ることがあります。それは確定したものではありません。もっとも起こりやすいものが、少しだけ見えるだけ」
エナは黙った。
女性の言葉は、不思議だった。
けれど、どこかで分かる気がした。
悪い予感は、決まった未来ではない。
止まれば変わる。
声をかければ変わる。
道を少し変えれば変わる。
女性は続けた。
「手が届く範囲なら、変えられます。誰かの袖を引く。道を変える。少し待つ。声をかける。それだけで、未来は変わります」
エナは小さく言う。
「だから、私は悪い予感がすると止めたくなるんでしょうか」
「そうかもしれません」
「でも、もっと遠くが見えたら?」
女性はしばらく黙った。
風が、二人の間を抜ける。
それから女性は言った。
「見ない方がいい」
エナは女性を見る。
その顔は穏やかだった。
でも、目だけが少し疲れていた。
「手の届かないところまで見えてしまったら、人は壊れます。助けられないものを見続けることになるから」
エナは息を呑んだ。
女性はやさしく言う。
「だから、自分の周りだけを見なさい」
◆ 手の届く範囲
エナは、手すりを握った。
自分の力を、初めて少しだけ理解した気がした。
これまでは、ただの勘だと思っていた。
悪い予感。
なんとなく。
今はだめ。
そちらへ行かない方がいい。
この人を後にしてはいけない。
それ以上の言葉はなかった。
でも、それでよかったのかもしれない。
女性は言う。
「あなたの力は、世界を背負うためのものではありません」
エナは小さく言った。
「でも、困っている人がいたら」
「手が届くなら、手を伸ばせばよいのです」
「届かなかったら?」
女性は海を見つめた。
「届く場所まで行ける人に伝えなさい。あなた一人が全部を見る必要はありません」
エナは灰の一団のことを思った。
ロアンが道を見る。
ミルカが条件を決める。
ガルドが前に立つ。
自分が嫌な感じに気づく。
誰かが全部をする必要はない。
「私は、悪い予感のままでいいんでしょうか」
女性はうなずいた。
「ええ。そのくらいが、きっとあなたを守ります」
エナは少しだけ安心した。
名前を付けなくていい。
大きくしなくていい。
世界全部を見なくていい。
手の届く範囲。
袖を引ける距離。
声をかけられる場所。
そこで止めればいい。
エナは女性に尋ねた。
「あなたも、そういうことが分かるんですか」
女性は少し微笑む。
「少しだけ」
「神殿の記録係さん、ですよね」
「今は、そういうことにしておいてください」
エナは不思議そうにした。
けれど、それ以上は聞かなかった。
女性は去り際に言った。
「悪い予感がした時は、怖がっていいのです。怖がることは、逃げることではありません。変えるために立ち止まることです」
エナはその言葉を胸に残した。
怖がっていい。
立ち止まっていい。
変えるために。
女性は静かに船室へ戻っていった。
その背中は、普通の記録係には見えなかった。
でも、エナはその人が何者なのか、まだ知らなかった。
知らないままでよかった。
今は、その言葉だけで十分だった。
◆ 南の大陸
翌朝、船は霧の中を進んでいた。
南の大陸が近い。
船員たちは忙しく動いている。
船長は予定通り進もうとしていた。
エナは甲板に出て、海霧を見た。
胸の奥が、少し冷えた。
昨日よりはっきりしている。
「少し、右に寄った方がいい気がします」
ロアンはすぐに聞いた。
「どのくらい?」
船員が困った顔をする。
「この霧で進路を変えるのは危ないぞ」
ミルカが風を見る。
「右に寄ると、流れは少し安定するかも」
ガルドが言う。
「なら寄ろう」
船長は渋った。
だが、深海拠点攻略で灰の一団の判断を見ている。
少しだけ針路をずらした。
しばらくして、霧の中に黒い影が浮かんだ。
沈みかけた残骸だった。
木材と岩が絡み、海面のすぐ下に隠れている。
そのまま進んでいれば、船底を傷めていた。
船長が息を吐く。
「助かった」
エナは小さく言った。
「手の届く範囲なら、変えられる」
ロアンが聞く。
「何か言った?」
エナは首を振る。
「少しだけ、分かった気がしたんです」
船は南の大陸へ着いた。
港は荒れていた。
交易は細っている。
倉庫の一部は壊れ、桟橋には修理の跡がある。
遠くには黒い山影。
内陸には深い森。
空には魔物の影が見えた。
南の大陸は、これまでの土地よりも魔王軍の気配が濃かった。
海上部隊の隊長が言う。
「ここから先は、陸の戦いだ」
ミルカは地図を広げる。
「次の候補は、深森拠点」
ロアンが聞く。
「導きの石、だったか」
エナは森の方を見る。
胸の奥に、また小さな冷たさがある。
でも、今はそれに怯えすぎなくていいと思えた。
「森の奥、嫌な感じがします」
ガルドは剣を確認した。
「なら、ゆっくり行こう」
ロアンは頷く。
「まず、現地で聞く。森を知っている人に」
人魚はいなかった。
けれど、海を知る人たちがいた。
なら、森にもいるはずだ。
森を知る人たちが。
灰の一団は、南の大陸へ足を踏み出した。
次の土地が、彼らを待っていた。
◆ 人魚はいなかった
人魚はいなかった。
少なくとも、ロアンたちが訪ねた漁村にはいなかった。
海辺の者たちは、人魚の話をほとんど信じていなかった。
むしろ、海から離れた土地ほど、人魚は美しく語られていた。
銀の髪。
波間の歌。
勇者を導く白い腕。
だが、海辺にあったのは、干された網と、傷だらけの船と、潮を読む目だった。
そして、海に潜る女たちがいた。
息を止め、暗い岩場へ潜り、手探りで海底の石を探す者たちがいた。
彼女たちは人魚ではなかった。
息も切れた。
体も冷えた。
足もつった。
それでも海を知っていた。
だから、海底の門は開いた。
深海拠点は落ちた。
灰の一団だけで成したことではない。
海女が潜った。
漁師が船を出した。
海上部隊が突入した。
治療師が負傷者を運んだ。
魔術師が潮の乱れを読んだ。
ロアンたちは、その間をつないだ。
そして船は南へ向かった。
その船の上で、エナは一人の女性と話した。
その人が何者なのか、エナは知らない。
ただ、その言葉だけが残った。
手の届く範囲だけを見なさい。
未来は、決まったものではない。
届く場所なら、変えられる。
届かない場所まで見ようとすれば、人は壊れる。
エナはまだ、自分の力に名前を付けなかった。
悪い予感。
それでよかった。
そのくらいの言葉で持っていられる力もある。
南の大陸が近づいていた。
森が見えた。
次の土地が、彼らを待っていた。
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