(二)白い岩の下
◆ 白い岩の下
夕方、浜辺で古い歌が聞こえた。
歌っていたのは、網を直している老婆だった。
声は高くない。
美しく響かせようとしているわけでもない。
手を動かしながら、一定の調子で口ずさんでいる。
ロアンたちは足を止めた。
人魚の歌ではなかった。
網を引く時の作業唄。
潮の流れ、岩場、危険な渦、潜る時間を覚えるための歌だった。
ミルカが耳を澄ませる。
「白い岩、って言った?」
老婆は手を止めずに答えた。
「言ったね」
ロアンが聞く。
「その歌、人魚の歌ですか」
老婆は鼻で笑った。
「そう歌う者もいる。だが、私の祖母は、人魚じゃなくて“白い岩の下で息を数えた女”の話だと言っていたよ。歌にすると、人魚の方が聞こえがいいんだろうね」
エナが小さく繰り返す。
「白い岩の下で、息を数えた女」
ガルドが言う。
「人魚じゃないな」
老婆は網を引き寄せる。
「人間だよ。たぶんね」
ロアンは身を乗り出した。
「息を数えた女って、何ですか」
「潜る時は、息の数を間違えると戻れない。白い岩の下に手を入れるなら、なおさらだ」
ミルカの目が細くなる。
「白い岩の下に、何かあるんですか」
老婆は肩をすくめた。
「私は潜らないからね。ただ、昔の女たちは知っていたらしいよ。潮が弱い朝だけ、白い岩の下に触れる場所があるって」
エナが言う。
「この歌、道案内みたいです」
ガルドもうなずく。
「でも、海の中の道だな」
老婆は少しだけ笑った。
「道っていうより、戻り方だよ。海の中で大事なのは、行き方より戻り方だ」
その言葉に、ロアンは反応した。
戻り方。
海の中でも、それは同じなのか。
ロアンは老婆に、もう一度歌を聞かせてもらった。
ミルカは歌詞を書き取る。
エナは節を覚えようと、小さく口の中で繰り返す。
ガルドは海を見る。
白い岩。
息の数。
潮が弱い朝。
それらは、文献の中の人魚よりもずっと地味だった。
けれど、ずっと確かに見えた。
◆ 海女たち
翌朝、ロアンたちは村の女たちが海へ入るのを見た。
彼女たちは貝や海藻を採るために潜る。
船からではなく、岩場から海に入り、潮の流れを見て、短い時間で潜って戻る。
村では当たり前の技術らしい。
だが、ロアンたちから見れば、信じられないものだった。
息を止める。
冷たい水に潜る。
岩場の下へ手を入れる。
視界の悪い海底で作業する。
そして、何事もなかったように戻ってくる。
ガルドが言った。
「人間は、海の中でも動けるんだな」
ミルカが答える。
「全員じゃないと思う」
若い海女が笑った。
「私らは人魚じゃないよ。息も切れるし、足もつる」
年配の海女も言う。
「潜れる時間は短い。だから、時間を数える。潮を見る。無理はしない」
ロアンは海女たちを見た。
文献を書いた者が、これを見たらどう思うだろう。
白い肌で水から上がる女。
息を止めて海底へ潜る女。
暗い岩場を手探りで進む女。
海を知らない者なら、人魚と書いたかもしれない。
ミルカが言う。
「人魚じゃなくて、潜れる人間だったのかもしれない」
ロアンは頷いた。
「文献を書いた人が、海を知らなかったなら、そう見えたのかも」
年配の海女が腕を組む。
「人魚かどうかは知らないけど、海の底に古い石組みがあるのは知ってる」
ロアンたちは一斉に反応した。
「石組み?」
「ある。白い岩の近く。普段は潮が悪くて近づけない。けど、年に何度か、流れが弱くなる時がある。その時だけ、白い岩の下に手が入る」
ミルカが聞く。
「手を入れる?」
「奥に、押せる石がある」
ロアンは息を呑んだ。
人魚の導き。
海底の門。
その正体が、少しずつ形を持ち始める。
「押したことがあるんですか」
ロアンが聞くと、年配の海女は少し気まずそうに目を逸らした。
「子どもの頃にね」
「なぜ押したんですか」
「度胸試しだよ。ひどく怒られた」
ガルドが感心したように言う。
「海の底で度胸試しか」
ミルカが呟く。
「危なすぎる」
海女は笑った。
「だから怒られたんだ」
エナは海を見た。
波は穏やかに見える。
でも、そこには戻れなくなる危険がある。
人魚はいなかった。
でも、海を知る人間がいた。
そして、その人間だけが押せる石があった。
※第29話「人魚はいなかった」は全五回です。
続きます。
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