(二)火よりも先に、影が来る
◆ 異変の前
中央神殿の朝は、いつも通りに始まった。
大理石の階段には巡礼者が並び、施療院では下級神官が負傷者の包帯を替えている。
写本庫では、年老いた写字生が古い神託記録を書き写していた。
神託の間では、若い巫女が水盤の前に座り、目を閉じて祈っている。
大神官は、神殿騎士長と向かい合っていた。
「東の辺境からの連絡が途絶えています」
神殿騎士長が言った。
「魔物に塞がれているのでしょう。王都へ護衛を要請しますか」
大神官は首を横に振る。
「王都も国境で手一杯です。東の封鎖が勇者の一族を狙ったものなら、次に狙われるのはここです」
神殿騎士長の表情が硬くなる。
「中央神殿を、ですか」
「神託と聖剣を狙うでしょう」
「ならば、聖剣庫の警備を増やします」
「神託の間もです。写本庫も。勇者認定の祭壇も」
神殿騎士長はうなずいた。
彼らも愚かではない。
東の辺境が封じられた時点で、次に何が狙われるのかを考えていた。
だが、考えることと、間に合わせることは違う。
若い巫女が、水盤の前で小さく息を呑んだ。
水面が揺れている。
誰も触れていない。
神託の間に風はない。
それでも、水面だけが暗く波打った。
巫女は不安そうに言う。
「光が濁っています」
大神官が振り向く。
「何が見える」
巫女は水盤を見つめたまま答えた。
「炎ではありません」
「では、何が」
「影です。火よりも先に、影が来ます」
大神官は、わずかに目を細めた。
神殿騎士長が剣の柄に手を置く。
外では、巡礼者の列がまだ続いていた。
施療院では、子どもの咳が聞こえていた。
写本庫では、羽ペンが紙をこする音がしていた。
中央神殿は、まだ祈りの場所だった。
その夜、それは戦場になる。
◆ 強襲
鐘が鳴るより先に、影が動いた。
夜の中央神殿。
外壁を覆う結界の端に、吸血侯の配下が細い穴を開ける。
切り裂くのではない。
砕くのでもない。
結界の継ぎ目を見つけ、そこに針を通すようにして、影を滑り込ませる。
同時に、竜将の部隊が外周へ回った。
飛竜の翼が夜気を裂く。
火を吐く魔獣が、神殿正面の広場に降りる。
死霊術師たちは、写本庫へ向かう通路を塞ぐ。
小鬼兵たちは、神殿内の階段や裏口へ散った。
魔王軍の動きは、一斉だった。
だが、無秩序ではない。
外周制圧。
神託の間。
写本庫。
聖剣庫。
祭壇。
連絡塔。
鐘楼。
部隊は、それぞれ目的を持って動いていた。
吸血侯が、聖堂の屋根の影から現れる。
月明かりの下、彼の黒い外套だけが風を受けて揺れた。
「急ぎなさい。夜明けまでに終わらせます」
配下たちが散る。
神殿騎士が叫んだ。
「魔王軍だ!」
鐘を鳴らそうとした騎士が、鐘楼へ駆ける。
しかし、鐘楼はすでに影に包まれていた。
鐘は半分だけ鳴った。
一度。
それから、途中で止まる。
不完全な警鐘が、中央神殿の夜に響いた。
◆ 外周制圧
神殿正面。
竜将が、神殿騎士たちの前に立っていた。
背後には飛竜。
左右には火を吐く魔獣。
神殿騎士長が剣を抜く。
「魔王軍が神の家を踏むか」
竜将は笑った。
「神の家なら、神が守ればよい」
神殿騎士たちが突撃する。
彼らは弱くない。
中央神殿を守る騎士である。
鎧には祝福が刻まれ、剣には魔を払う聖句が刻まれている。
だが、竜将はそれを真正面から受けた。
一人を盾ごと弾き飛ばす。
一人の剣を爪で砕く。
炎が広場を走り、騎士たちの進路を断つ。
神殿騎士長が叫ぶ。
「火を使うなら、なぜ聖堂へ向けない」
竜将は、いかにも不満そうに答えた。
「命令だ」
炎は騎士の前に落ちる。
だが、大聖堂の柱には届かない。
施療院の屋根にも向かわない。
巡礼者の宿舎も避けている。
神殿騎士長は、その異様さに気づいた。
「何を狙っている」
竜将は剣を弾きながら言う。
「知らぬ」
そして、少しだけ笑う。
「いや、知っているが、我の役目ではない」
神殿騎士長が踏み込む。
竜将はそれを受け止める。
「我の役目は、お前たちをここに留めることだ」
炎が、神殿の正面広場を囲んだ。
聖堂は燃えない。
だが、神殿騎士たちは前へ進めない。
※第4話「神託を焼く」は全五回です。
続きます。
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