第9話:ステルス潜入! 今川軍の前線基地
清洲城の女中衆から借りた古着の小袖に身を包み、頭には手ぬぐいを姉さん被りに巻きつけた。
磨かれた水鏡に映る自分の姿は、どこからどう見ても戦国時代の貧しい村娘だ。
隣には、背負子に麦、干し大根、青菜、味噌といった食べ物を山盛りに積んだ木下藤吉郎が立っている。
私たちは「今川様に逆らう気はありませんと示すため、食べ物を差し出しに来た近在の百姓」という設定で、今川方の最前線拠点である大高城の周辺を目指していた。
「ひぃぃ……オラ、やっぱり腹が痛くなってきただわ。便所掃除に戻らせてくだせえ……」
「何言ってるの。ここまで来て逃げたら、白米も組頭の話も全部パーよ」
尾張の南東へと向かう街道を歩きながら、藤吉郎はすでに十回は逃げ出そうとした。
その度に私は彼の首根っこ、正確には背負子の紐を掴んで引き留めている。
戦国時代において、敵の陣地に忍び込むなど命知らずの極みだ。
極度のビビリである彼の生存本能が警報を鳴らし続けるのも無理はない。
しかし、私にはどうしても彼を大高城へ連れて行かなければならない理由があった。
大高城は、今川軍の最前線である。
この城の周辺を探ることで、大軍の動向や兵の疲弊具合、そして総大将・今川義元の動きを予測する手がかりが掴めるはずなのだ。
やがて、鬱蒼とした森を抜けると、視界が一気に開けた。
「……うわぁ」
私は思わず息を呑んだ。
遠くに大高城が見えた。
その周辺の街道や丘陵には、今川方の兵や荷駄、馬、旗指物が絶え間なく行き交っている。
城そのものを囲むというより、尾張南東部一帯が今川方の軍勢に呑み込まれつつあるようだった。
数え切れないほどの馬、槍、そして人、人、人。
これが、二万を超える大軍の現実。
圧倒的な暴力の質量だった。
「あわわわわ……終わりだ、尾張は終わりだぎゃ……」
藤吉郎は腰を抜かし、土の地面にへたり込んだ。
ガタガタと歯の根が合わない音を立てている。
「しっかりしなさい! 私たちは百姓よ。食べ物を差し出しながら、敵陣の様子を探るの。あなたのその口のうまさと機転を活かす時よ」
「む、無理だわ! あんなおっかねえ武士どもに声なんかかけたら、一刺しで……」
「おい、そこの者! 何をしておる!」
突然、背後から野太い声が響いた。
振り返ると、今川方の旗指物を背負った足軽が三人、槍の穂先をこちらに向けて立っていた。
見張りの兵に見つかってしまったのだ。
「ひっ!」
藤吉郎が悲鳴を上げ、私の後ろに隠れる。
まずい、怪しまれる!
私が必死に言い訳を考えようとした、その瞬間だった。
「おおっと、これはこれは! 勇猛果敢なる今川の御陣とお見受けいたしますだわ!」
私の背中に隠れていたはずの藤吉郎が、弾かれたように飛び出し、地面に額をこすりつけるほどの見事な土下座を見せた。
あまりにも素早く、プライドを完全に捨て去った流れるような動作だった。
「何奴だ、貴様ら。織田の密偵か!」
足軽の一人が凄むと、藤吉郎は顔を上げ、満面の、それはもう愛嬌たっぷりなへらへらとした笑みを浮かべた。
「滅相もございませんだわ! オラたちはしがない尾張の百姓でして、今川様のあまりの強さに恐れおののき、せめてささやかな食べ物でも献上して、お許しをいただこうとやって参った次第でございます! ささ、この干し大根と味噌! 駿河の屈強なお侍様方にこそ、食っていただきてえだわ!」
藤吉郎は背負子から干し大根を引き抜き、泥を袖で拭って差し出した。
彼の口から次々と飛び出す「勇猛果敢」「屈強なお侍様」という誉め言葉のシャワーに、険しかった足軽たちの顔が、みるみるうちに緩んでいく。
「ほう、献上とな。尾張の百姓にしては殊勝な心がけではないか」
「はいな! 織田の若殿なんかより、今川様の方がずっと立派だわ! ところで、お侍様方はずいぶんと遠くからお越しで、さぞお疲れでしょうに。これだけの御軍勢では、飯の支度だけでも一苦労でございましょうなあ」
藤吉郎は食べ物を押し付けながら、ごく自然な流れで世間話に持ち込んだ。
この男、本当にコミュ力と生存本能だけはカンストしている。
足軽の一人が、干し大根をかじりながら愚痴をこぼし始めた。
「ああ、まったくだ。大高城へ兵糧を入れよとの命が出ておるのだが、丸根だの鷲津だの、織田方の砦が邪魔でなかなか気が抜けぬ。それに、本隊の連中は後ろでのんびりしているというのに、我ら先鋒ばかりが働かされておる」
私は少し離れた位置から、現代の女子高生としての、そして歴史オタクとしての観察眼を光らせていた。
なるほど。
最前線の部隊は疲弊していて、本隊に対して不満を持っている。
それに、これだけの大軍が狭い街道にひしめき合っているせいで、補給の列がスムーズに進んでいないんだわ。
数字の暴力である「大軍」は、確かに強い。
しかし、人数が多ければ多いほど、食料の消費は激しく、行軍の列は間延びし、意思疎通は遅れ、末端の兵士には疲労と不満が溜まるのだ。
これこそが、大軍が抱える致命的な「隙」になり得る。
「そうでしたか! そりゃあ大変だわ。どうかこの食べ物で精をつけてくだせえ!」
藤吉郎は持っていた荷をすべて足軽たちに押し付け、「それではオラたちはこれで!」と再び見事な土下座をしてから、私の手を引いて脱兎のごとく走り出した。
背後から「おう、大儀であった!」という上機嫌な声が聞こえる。
私たちは森の奥まで一目散に駆け抜け、完全に姿が見えなくなったところで、ようやく息をついた。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思っただわ! もう二度とごめんだぎゃ!」
藤吉郎は草むらに大の字になって倒れ込み、ぜぇぜぇと息を切らしている。
私はその情けないポンコツっぷりに呆れながらも、彼がたった今引き出した生きた情報の価値に震えていた。
「よくやったわ、藤吉郎くん。あなたのその生存本能と口のうまさ、本当に天才的よ」
「えっ……オラ、褒められてるのか?」
「ええ。大出世への第一歩よ」
私は風呂敷からまとめノートを取り出し、大高城周辺の地図に新たな情報を書き込んだ。
今川軍は巨大だが、一枚岩ではない。
最前線と本隊の間に、見えない温度差と距離の開きが存在しているのだ。
よし。
敵の前線の様子と、大軍の弱点は分かったわ。
次は……。
私は視線を地図のさらに先、大高城のすぐ近くで過酷な任務を強いられているであろう、もう一人の「ポンコツ偉人」が泥まみれになっているはずの方角へと向けた。




