第8話:サルと呼ばれる男と、ピクニックの約束
清洲城の米蔵での密会から一夜が明けた。
「家臣に黙って、まずは自ら敵の動静を探る」と決意した信長だったが、さすがに総大将が一人で城を抜け出して敵陣へ向かうわけにはいかない。
かといって、えんじ色のジャージ姿の私が一人で戦国時代の街道を歩けば、五分で不審者として捕まるのがオチだ。
今川軍の正確な位置や兵の配置を探るための、密偵が必要だ。
それも、ただの密偵ではない。
現地の農民や商人に怪しまれずに溶け込める風貌で、なおかつ口が上手く、どんなピンチからも逃げ延びる図太さを持った人間。
「そんな都合のいい人間が……あ、いるじゃん。この時代の清洲城なら、もうあの子がいてもおかしくない!」
私は歴史オタクの知識を総動員し、城内の足軽長屋や下働きが集まる区画へと向かった。
厩の近くを通りかかった時、怒声が響き渡った。
「こら、藤吉郎! 貴様、また馬の世話をサボって藁の上で昼寝をしておったな!」
「ひぃぃ! 滅相もねえだわ! オラはただ、馬の気持ちを理解しようと、同じ目線で添い寝をしておっただけで……」
「言い訳をするな! 昨日は便所掃除をサボり、今日は馬の世話をサボる。給金泥棒め、叩き斬ってくれる!」
恰幅の良い先輩足軽が、小柄な若者の胸ぐらを掴み上げていた。
掴み上げられている若者は、ひどく痩せっぽちで、手足が長く、まるで猿のような愛嬌のある顔立ちをしていた。
間違いない。
のちに天下人となる男、豊臣秀吉。
若き日の木下藤吉郎だ。
教科書や伝記では、持ち前の機転と明るさで主君の心を掴む天才肌のように描かれている。
私はワクワクしながら、天才の鮮やかな切り返しを期待した。
「ご、ご勘弁を〜ッ!」
藤吉郎は空中でジタバタと暴れたかと思うと、先輩足軽の手からつるりと抜け出し、そのままの勢いで見事なジャンピング土下座を決めた。
額を泥だらけの地面にこすりつけ、涙と鼻水を流しながら叫ぶ。
「オラが悪かっただわ! でも聞いてくだせえ、先輩! オラ、先輩のあまりに見事な槍さばきを昨日見てから、夜も眠れねえくらい感動してしまって、つい寝不足に……。あんな美しくて力強い槍を振るう先輩の馬は、さぞ立派だろうと見とれていたんだわ! 許してくだせえ、尾張一の槍の名手様ァーッ!」
「お、おう……? お前、俺の槍さばきを見ておったのか? まあ、俺も最近腕を上げたとは思っておったが……」
「はいな! もう先輩なら、一軍の大将を任されてもおかしくねえ器だわ!」
「ば、馬鹿野郎、声が大きい! ……まあ、今回は許してやる。次は真面目に働けよ」
先輩足軽は照れ臭そうに鼻の下をこすりながら、すっかり気を良くして去っていった。
私は唖然としてその光景を見ていた。
……なんだ、今の。
息を吐くように嘘をついたぞ。
しかも、プライドというものが一ミリもない完璧な土下座だった。
「ふぅ、危なかったぎゃ。少し褒めればすぐこれだわ。ちょろいもんだぎゃ」
泥だらけの額を袖で拭いながら、藤吉郎がへらへらと笑って立ち上がる。
これが、未来の関白太政大臣?
信長さんに続き、またしても私の推し偉人のイメージがガラガラと崩れ去っていく音がした。
「……ねえ、君が木下藤吉郎くん?」
私が声をかけると、藤吉郎はビクッと肩を跳ねさせ、私のジャージ姿を上から下までジロジロと見た。
「なんだおめえ、妙な服を着とるな。オラに何か用か?」
「私、文月史花。信長さんの……えっと、特別な相談役みたいなものよ。ねえ藤吉郎くん、伝記だと、針売りをしていたとか、信長さんの草履を懐で温めて取り立てられたっていう凄い逸話があるんでしょ? やっぱり昔から実務能力が高かったの?」
私のオタク心全開の質問に、藤吉郎は「はあ?」と間の抜けた顔をした。
「針売り? 何言ってんだ、そんな面倒なことオラがするわけねえだろ。それに草履の件は思い出したくもねえわ!」
「えっ、どういうこと?」
「この前の冬にな、殿の草履が冷たかろうと思って、オラが懐に入れて温めてからお出ししたんだわ。そしたら殿、『うわっ、生温かい! しかもなんか汗臭い! 気味が悪いわ!』ってマジギレして、オラの顔面を草履でひっぱたいたんだぎゃ。おかげでそれからずっと、便所掃除と馬の世話ばっかりだわ!」
……ポンコツだ。
史実の美しい逸話が、実はただの空回りした失敗談だったなんて。
刀の持ち方も怪しそうだし、実務能力はおそらくゼロに近い。
この男はただ、コミュ力と生存本能、そして逃げ足の速さだけに全ステータスを振っている完全な口先男なのだ。
しかし、私はそこでハッとした。
待って。
今川方への潜入任務において、一番必要なスキルって何?
剣術?
違う。
敵に怪しまれずに取り入るコミュ力と、ヤバいと思ったらプライドを捨てて逃げ出せる生存本能じゃない!
この見事なまでのポンコツ具合、逆にスパイとしてはこれ以上ない超即戦力だ。
私は口角を上げ、藤吉郎の肩にポンと手を置いた。
「ねえ、藤吉郎くん。ちょっといいバイトしない?」
「ばいと?」
「そう。あなた、このまま一生、便所掃除で終わるつもり? 本当は、一国一城の主になりたいとか、でっかい夢を持ってるんじゃないの?」
藤吉郎は目を丸くした。
「な、なんでオラの夢を知ってるんだわ!? 誰にも言ったことねえのに!」
「私、未来が見えるコンサルタントだから。あなたが出世するための第一歩、私が特別にプロデュースしてあげる」
私が自信たっぷりに言うと、藤吉郎の猿のような顔に、キラキラとした野心の光が宿った。
「ほ、本当か!? オラ、出世できるのか!?」
「ええ。ただし、ちょっとだけお出かけに付き合ってもらうわ。私と一緒に、尾張の南東までピクニックに行かない?」
「尾張の南東……?」
「そう、大高城のあたりまで。今川方の前線拠点よ。今川軍がどの辺にいるか、ちょっと見に行くだけよ」
その瞬間、藤吉郎の顔から血の気がサーッと引いた。
「大高城!? い、今川の最前線じゃねえか! 冗談じゃねえ、四万の軍勢がうじゃうじゃいるんだぞ! 見つかったら串刺しにされて殺されるわ!」
藤吉郎はものすごい速さで踵を返し、脱兎のごとく逃げ出そうとした。
「あっ、待ちなさい! ここで逃げたら、一生馬のフンを片付ける人生よ!」
私の言葉に、藤吉郎の足がピタリと止まる。
「これは、信長さんからの極秘ミッションなの。これが成功して敵の隙を見つけられたら、あなたはただの草履取りから、便所掃除からは卒業できるかもしれない。うまくいけば、足軽組頭だって夢じゃないわ。毎日、白米がお腹いっぱい食べられるわよ」
「組頭……白米が、腹いっぱい……!」
藤吉郎の喉が、ゴクリと大きく鳴った。
恐怖と野心。
二つの感情が彼の頭の中で激しく戦い、やがて、極度の出世欲が恐怖をほんの少しだけ上回ったようだった。
「……見に行くだけ、だぎゃ? 絶対に戦ったりしねえな?」
「もちろん。ヤバくなったら、あなたのその自慢の逃げ足で全力疾走して逃げればいいわ」
藤吉郎は何度か深呼吸をした後、泥だらけの顔にニカッと人懐っこい笑みを浮かべた。
「よっしゃ。白米と組頭のためだ。史花様、その話、乗ったぎゃ!」
こうして、現代の歴女女子高生と、超絶ビビリで口先だけのポンコツ足軽という、戦国時代で最も戦闘力の低い凸凹コンビによる、今川勢が押さえる尾張南東部の重要拠点へのステルス潜入ミッションが幕を開けたのだった。
もちろん、このジャージ姿で出歩くわけにはいかない。
女中さんから小袖と手ぬぐいを借りて、村娘っぽく変装していこうかな。
その時点で、私はすでに嫌な予感しかしなかった。




