第7話:決断は、うつけの手で
漆喰の土壁に囲まれた米蔵の中は、外の五月の夜風さえ届かないほどに密閉され、戸口の外に掲げられた松明の光だけが、蔵の奥までかすかに差し込んでいた。
積み上げられた米俵の前に立ち尽くす織田信長の背中は、言葉を失ったまま硬直している。
四十日。
それが、この清洲城に立てこもった場合に織田家に残された、命の猶予のすべてだった。
今川義元の二万を超える大軍が城を包囲すれば、一ヶ月余りでこの蔵の米は底を突き、城内は飢えと病で崩れ、戦う前に降伏か内崩れへ追い込まれる。
戦うことすらできずに滅びる未来が、冷酷な数字となって信長の前に突きつけられていた。
「四十日……。そんな、そんなはずはなかろう……」
信長はカサカサに乾いた声で呟き、自らの手のひらを見つめた。
「織田の本拠であるこの清洲が、わずか一ヶ月余りで使い物にならなくなるというのか。林の言う和睦も、権六の言う籠城も、すべてはただの夢物語だったというのか……」
絶望の波が、再び彼の若い身体を支配しようとしていた。
彼の膝が、またしても微かに震え始める。
私はジャージのポケットに両手を突っ込んだまま、静かにその様子を見つめていた。
私の目は、彼がここからどう動くのかを冷徹に、しかしどこか祈るような気持ちで追いかけている。
ここで私が「義元本陣を狙う道筋を教えるから、十九日の未明に動いて」と答えを言ってしまえば、彼は目先の危機を脱出できるかもしれない。
けれど、それでは彼は家臣の操り人形から、今度は未来人の操り人形に代わるだけだ。
自らの意志で決断し、歴史を切り開く総大将にはなれない。
私はゆっくりと息を吐き、信長の隣へと歩み出た。
「信長さん。数字は嘘をつかないわ。これが、あなたが背負っている現実よ。籠城という安全そうな選択肢は、最初から崖っぷちへと繋がる罠だったの」
信長はゆっくりと私に顔を向けた。
その目は、涙こそ乾いていたものの、深い漆黒の闇に呑み込まれそうなほどに揺れていた。
「コンサルタント……。わしは、どうすればよい。籠城が死ならば、わしらはどうやってこの二万の軍勢から生き残ればよいのだ。やはり、わしがここで腹を切り、今川に降伏を申し出るしか……」
「本当に、選択肢はそれだけかしら」
私はあえて突き放すように、しかし確かな道標を置くように問いかけた。
「籠城がダメ。降伏もダメ。だったら、残された道は一つしか無いはずよ。目を閉じて考えてみて。これまでの歴史で、圧倒的な格差をひっくり返して勝った指導者たちは、どうやって戦ったと思う?」
「どうやって、じゃと……?」
信長は眉をひそめ、むさぼるように思考を巡らせ始めた。
恐怖によって麻痺していた彼の天才的な脳細胞が、私の投げかけた問いによって、再び激しく回転を始める。
城にこもれば餓死する。
降伏すれば処刑される。
ならば、城の外へ出るしかない。
城壁という盾を捨て、自らの足で大地を踏み締め、敵の懐へと飛び込むしかないのだ。
「……外、じゃ」
信長が、地を這うような声で呟いた。
「ええ。外よ」
「城にこもって干上がるのを待つくらいなら……こちらから打って出る。今川の大軍そのものではなく、隙を晒した中枢を叩く。それ以外に、織田が、わしが生き残る道など、最初から無かったのじゃ!」
信長の声から、徐々に震えが消えていった。
代わりに、低く、しかし驚くほど硬い決意の響きが混ざり始める。
彼は自分の意思で、初めて「迎撃」という最も危険で、しかし唯一の活路へと舵を切った。
その瞬間、彼の佇まいから、怯えるだけの少年の影が薄れていくのが分かった。
しかし、戦国時代の現実はそんなに甘くない。
私はすぐに、次の現実的な課題を彼に突きつけた。
「決断したのは素晴らしいわ。でも、忘れないで。織田の兵力は二千。今川は二万。まともに平地でぶつかったら、数の暴力で一瞬ですり潰されるわよ。それにね、もう一つ大きな問題があるわ。信長さん、今すぐあのおじさまたちのところへ行って、『籠城はやめて外へ出る』って言ったら、どうなると思う?」
信長はハッとして、数時間前の大広間での軍議を思い浮かべたようだった。
林秀貞の冷ややかな侮蔑。
柴田勝家の頑なな表情。
家臣団の間に流れていたあの不協和音が、脳裏をよぎる。
「……林らは猛反対するであろ。十倍の敵に挑むなど正気の沙汰ではないと、わしをうつけと罵り、力ずくで止めにかかるに違いない。下手をすれば、戦う前に織田家が内部分裂し、今川に寝返る者が続出するやもしれぬ」
信長の表情が、苦渋に満ちたものに変わる。
「大正解」
私は小さく頷いた。
「家臣の人たちは、今川が怖くて心の余裕がないの。そんな状態で、説得力のない作戦を提案しても、誰も命を預けてはくれない。彼らを納得させるには、あるいは彼らを動かすには、ただの精神論じゃない『勝てる根拠』が必要よ」
「勝てる、根拠……」
「そう。二千が二万に勝つための、絶対的な情報と隙。それを見つけなきゃ、出陣したところで犬死にするだけだわ。だから、まだ誰にも言ってはダメ。家臣にも、味方にもね」
信長はじっと自分の手を見つめ、それからニヤリと、どこか不敵な笑みを浮かべた。
初めて彼が見せた、狂気と知性が混ざり合ったような、戦国武将らしい笑みだった。
「なるほどな。家臣には籠城と思わせておき、わしらは裏で牙を研ぐというわけか。面白い。まずは敵を知らねばならぬな。今川義元がどこを歩き、どこに陣を敷き、どこに隙を晒しているのか。それを突き止めるのが先決じゃ」
信長は蔵の入り口で平伏したまま動けないでいる老蔵役人に目を向けた。
「おい。今夜、わしがここへ来たこと、そして兵糧の数を調べたことは、誰にも口外するな。林や柴田にさえもじゃ。もし一言でも漏らせば、お前の首をはねる」
「は、ははっ! 滅相もございませぬ! この命に代えましても、誰一人として話しませんぬ!」
役人は恐怖に身を震わせながら、板敷きに頭を擦りつけた。
信長は役人を残し、自らの手で蔵の重い扉を閉めた。
外へ出ると、夜風が私たちの頬を冷たく叩いた。
頭上には、現代の満天の星空よりも遥かに鮮やかな、戦国時代の星々が広がっている。
信長は私を振り返り、その目に確かな光を宿して言った。
「コンサルタント……いや、そういえば、まだ名を聞いておらんな」
「私? 文月史花。ふみづきふみかよ。史花でいいわ」
「そうか。ならば史花、わしは打って出ると決めた。だが、城の中にいては今川の隙など見つからぬ。まずは情報を集める。家臣に黙って、わし自ら敵の動静を探る手段を考えねばならぬな」
「いい心がけよ、信長さん」
私は白い靴下のまま、城の廊下へと戻るために足を進めながら、心の中でガッツポーズを突き上げた。
よし!
籠城の選択肢を潰して、自発的な迎撃の意思を引き出すところまでは完璧。
次は情報収集。
つまり、あの身軽で口のうまい若者の出番ね。
歴史の歯車が、本来の正しい軌道に向かって、静かに、しかし確実に回り始めていた。




