第10話:雨の中の三河武士
初夏の空が急に薄暗くなり、ぽつぽつと冷たい雨粒が落ちてきた。
「うわっ、雨だわ! 史花様、早くどっかで雨宿りしねえと……風邪引いちまうぎゃ!」
「しっ、静かにして、藤吉郎くん。あそこを見て」
大高城の周辺から少し離れた、街道脇の木立の陰。
私は、泥まみれになってへたり込んでいる一団を指差した。
彼らは皆、鎧兜を身につけた武士たちだった。
しかし、その姿は満身創痍という言葉がふさわしい。
鎧は泥と血に汚れ、槍の柄を杖代わりにして、ぜぇぜぇと荒い息を吐いている。
彼らの背後には、空になった米俵や、荷を運び終えた馬が力なく首を垂れていた。
どうやら、危険な兵糧入れを終えた直後らしい。
先ほど大高城の周辺ですれ違った、威張っていた今川の足軽たちとは明らかに様子が違った。
「あわわ……お、おっかねえ武士がいっぱいいるだわ! 逃げるべ、史花様!」
「待って。あの人たち、今川の本隊じゃないわ。鎧の形も旗指物もバラバラだし、何より……すごく疲れてる」
私の視線の先、一団の中心に、立派な具足に身を包んだ一人の若い武将が丸太に腰掛けていた。
年はまだ十代後半くらいだろうか。
信長さんより一回り近く若いはずなのに、その顔には年齢に似合わない疲労が刻まれていた。
顔色は土気色を通り越して真っ青で、両手で自分のお腹をきつく抱え込んでいる。
「……うぅ、痛い。胃が、胃がちぎれそうじゃ……」
若い武将が、うわ言のように呟いた。
「今川の先鋒として大高城へ兵糧を入れよなどと、無茶にも程がある。丸根だの鷲津だの、織田方の砦に睨まれながら兵糧を運び込むのだぞ。死ぬかと思ったわ……うぅ、また腹が下ってきた……」
「元康様! 見事な采配でございました!」
そこへ、傷だらけだがやけにテンションの高い初老の家臣が駆け寄ってきた。
「我ら三河衆の決死の働き、今川様も必ずや評価なさいましょう! これで三河独立も夢ではありませぬな! さあ殿、我らはいつでも次の死地に赴く覚悟ができておりますぞ!」
「お、おう……ご苦労であったな。少し、少しだけ一人にしてくれ……休ませてくれ……」
家臣が熱い視線を残して去っていくと、若い武将はさらに深く胃を押さえ込み、誰にも聞こえないような声で呻いた。
「何が三河独立じゃ……。今川様は我らを使い捨ての駒としか思っておらぬし、家臣どもはわしに重すぎる期待を押し付けてくる。上からも下からも板挟みじゃ……。プレッシャーで夜も眠れぬ。もう嫌じゃ、武士なんて辞めたい。三河に帰って、静かに大根でも育てて暮らしたい……」
家臣が彼を「元康様」と呼び、三河の独立を口にするのを聞いた瞬間、私の頭の中で歴史のデータがピタリと一致した。
大高城への過酷な兵糧入れを命じられ、見事に成功させた三河の若き当主……。
間違いない、松平元康!
後の江戸幕府初代将軍、徳川家康だ!
しかし、目の前にいるのは、タヌキ親父でも天下人でもない。
超ブラック企業、今川家の理不尽な命令と、熱血すぎる部下、三河武士の重い期待に挟まれ、ストレスで胃腸を壊している究極の中間管理職だった。
……またしても、ポンコツ偉人だ。
信長さんは極度のビビリで、藤吉郎くんは口先だけの逃げ足男。
そして、この松平元康はプレッシャーに弱すぎるネガティブ胃腸弱男。
戦国時代の英雄たちって、みんなこんなに人間臭くて欠点だらけだったの!?
私は背負子を背負ったままガタガタ震えている藤吉郎くんをその場に残し、そっと木立から歩み出た。
「あの……」
「ひっ!? な、何奴じゃ!」
元康はビクッと肩を跳ねさせ、慌てて腰の刀に手をかけようとしたが、胃の痛みのせいかうまく力が入らないようだった。
「怪しい者じゃありません。ただの、通りすがりの百姓です」
私は借り物の小袖の裾を少し持ち上げ、彼を見下ろして、できるだけ優しく声をかけた。
「大変ですね、お怪我はないですか?」
私のその一言を聞いた瞬間、元康の目が大きく見開かれた。
今まで、彼にそんな言葉をかける人間はいなかったのだろう。
今川の上役からは「さっさと働け」と怒鳴られ、三河の家臣からは「殿、立派に死ぬる覚悟を!」と発破をかけられる毎日。
「大変ですね」という、現代なら当たり前の労いの言葉が、極限状態の彼の心に、雨水のようにすーっと染み込んでいったのが分かった。
「……あ、いや、怪我はない。怪我はないが……腹が、痛くてな」
元康は刀から手を放し、少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「すまぬな、見苦しいところを見せた。わしは松平元康。三河の……いや、今はただの今川の先手役に過ぎぬ」
「過酷なお仕事をされた後なんですね。胃が痛む時は、無理をせず温かくして休むのが一番ですよ」
私がそう言って、藤吉郎くんから奪い取っておいた風呂敷包みの中から、干し菜を少しだけ差し出すと、元康はポカンとした顔でそれを受け取った。
「そなた……見ず知らずのわしに、これほど優しくしてくれるのか。家臣どもは誰もわしの胃痛など気にも留めぬというのに……うぅっ」
元康の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
「わしは……わしはもう、戦などしたくないのじゃ! なぜ皆、殺し合わねばならぬ!」




