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歴史テスト前夜に寝落ちしたら、ポンコツ偉人たちのコンサルタントになっていました 〜JK歴女が偉人たちに歴史的決断をさせるまで〜  作者: 牧野ハル


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第5話:うつけの涙と、未来の問いかけ

誰もいなくなった大広間は、驚くほど広大で、そして冷え切っていた。


夕闇が忍び寄りつつある室内に、外から差し込む斜陽が長い影を落としている。


宿老たちが去った後の畳の上には、彼らが放っていった熱い怒気と、それ以上に冷酷な諦念の残滓が漂っているようだった。


私は襖を静かに閉め、一歩、また一歩と信長の方へ歩み寄った。


清洲城へ連行され、離れに部屋を与えられた際、私のスニーカーローファーは当然のように玄関先で脱がされていた。


今の私は、学校指定の白い三本線の入った靴下姿だ。


丁寧に編み込まれた青畳の上を歩く私の足音は、先ほどのおじさまたちの騒々しい足音とは対照的に、カサリとも鳴らないほどに微かなものだった。


日本の伝統的な空間において、畳を素足や靴下で踏み締める感覚は、不思議と心を落ち着かせる。


しかし、私の目の前に座る若き当主の心は、到底落ち着きとは程遠い場所にいた。


信長は、まだ絵図の前に座り込んでいた。


その背中は、先ほど家臣たちを前に見せていた尊大な態度からは想像もつかないほど、小さく丸まっている。


肩がかすかに上下に揺れていた。


近づくにつれて、彼が低く、押し殺したような声で嗚咽を漏らしているのが聞こえてきた。


「……くそ、皆してわしを辱めおって。わしを……わしをコケにしおって……」


畳の上に、ぽつりと大粒の涙が落ちて、濃いシミを作った。


歴史の教科書が描く、後に天下へ名を轟かせる勇猛果敢な織田信長。


その男が今、孤独と恐怖、そして屈辱にまみれて泣いている。


その姿は、あまりにも生々しく、一人の人間としての脆さに満ちていた。


私の胸の奥が、締め付けられるように痛む。


歴史オタクとしての推しを愛でる気持ちではなく、一人の人間として、彼があまりにも不憫に思えたのだ。


私は彼の少し斜め後ろに腰を下ろし、正座をしてジャージの膝に手を置いた。


「信長さん」


静かに声をかけると、信長はビクッと身体を強張らせ、慌てて袖で顔を拭った。


そして、真っ赤になった目を剥き出しにして、私を睨みつけてきた。


「……何じゃ、コンサルタント。わしの無様な姿を見て笑いに来たか。未来の歴史書とやらには、わしが家臣に舐められ、泣き喚いていたことも書いてあるのか!」


「いいえ」


私は首を振った。


「歴史書には、結果しか書かれないわ。あなたがどれだけ苦しんで、どれだけ戦ったか、そのプロセスは省略されちゃうの。だから、私は笑ったりしない。むしろ、当然の反応だと思う」


「当然だと!?」


信長は声を荒げた。


立ち上がり、私の前ににじり寄ってくる。


衣服の擦れる音が静かな部屋に響く。


「林も、柴田も、誰も彼もがわしをうつけと侮る! 今川の二万の大軍を前にして、誰もわしの言葉を聞こうとせぬ! あ奴らは織田を、尾張を守る気があるのか! わしが当主であるのが、それほど気に入らぬか!」


彼の激昂の裏にあるのは、家臣たちへの怒りだけではない。


それ以上に、誰からも信頼されていないという深い絶望と、母親や弟にまつわる過去のコンプレックスだ。


自分は本当に、この国を背負う器ではないのではないか。


そんな恐怖が彼を支配している。


私は、彼の怒りを受け止めながらも、現代の教室で学んだコミュニケーションの技術を頭の中に呼び起こした。


ここで「籠城は危険です。外へ出て、義元本陣を叩くしかありません」と正解を言ってしまうのは簡単だ。


未来の知識を使えば、桶狭間当日の天候も、今川義元が向かうはずの場所も教えられる。


でも、それでは意味がないのだ。


私の役割は、歴史のカンニングペーパーを渡すことじゃない。


彼自身が、自らの頭で考え、自らの足で立ち上がり、歴史を動かす織田信長へと成長するための手助けをすることなのだ。


私は呼吸を整え、アーモンドアイの目を真っ直ぐに信長に向けた。


「信長さん。一つ、質問してもいい?」


「……何じゃ」


「さっきの軍議でね、林さんや柴田さん、他のおじさまたちがあんなに怒ってたの、なんでだと思います?」


信長は虚を突かれたように、言葉を詰まらせた。


「なぜだと? わしが憎いからに決まっておろう。わしを引きずり下ろし、別の者を……」


「本当にそれだけかしら」


私は静かに言葉を重ねる。


「彼らの言葉を、ただの悪口じゃなくて、感情の裏側まで想像してみて。十倍以上の大軍が攻めてくるって分かった時、家臣の人たちはどんな気持ちだったと思う?」


信長は、私の問いかけに対して怪訝そうな表情を浮かべたが、じっと畳を見つめ、考え込み始めた。


「……今川の軍勢は二万。対する我が方は二千。まともに戦えば、国ごとすり潰される。家臣どもとて、人の子じゃ。死ぬのは怖かろう。己の家族も、領地も、すべてを失う恐怖に怯えておるはずじゃ」


「そう。恐怖よ。それは、信長さん、あなたと同じなの」


私は深く頷いた。


「家臣の人たちも、あなたと同じように、ものすごく怖いのよ。織田家が滅びるかもしれない、自分たちが死ぬかもしれないって、パニックになりそうなのを必死で堪えてる。だから、林さんは少しでも生存確率の高い和睦を望んだし、柴田さんは武士として誇り高く死ねる籠城を主張した。アプローチは違っても、彼らは彼らなりに、必死で織田家を守ろうとしているんじゃないかしら」


信長は、ハッとしたように目を見開いた。


「あ奴らも……怯えておるというのか。わしと同じように……」


「ええ。でもね、彼らにとって一番の恐怖は、今川の大軍そのものじゃないわ」


私は一歩、信長に近づき、その震える拳をそっと見つめた。


「一番怖いのはね、そんな極限状態の時に、自分たちのトップである総大将が、何を考えているかさっぱり分からないことよ。あなたが黙って震えているのを見て、彼らはこの大将は俺たちの命を預かる覚悟がないんじゃないかって不安になってる。だから、不信感が怒りに変わって、あんな不協和音になっちゃったのよ」


信長の身体が、大きく震えた。


彼は、家臣たちが自分を拒絶しているのだと思い込んでいた。


しかし、実際は違った。


家臣たちは、拠り所となる大将の覚悟を求めて、飢えた獣のように狂っていたのだ。


「わしが……覚悟を示さねば、誰もついてこぬか」


信長は、絞り出すような声で呟いた。


「答えを出すのは、あなた自身よ、信長さん」


私は立ち上がり、ジャージの埃を払った。


「籠城するか、迎撃するか。家臣の意見に流されるんじゃなくて、あなたが本当に織田家を守るために、どうするべきか。まずはそれを、自分の目で確かめに行かない?」


「確かめに……どこへ行くというのだ」


信長が涙の乾いた目で、私を見上げる。


私は、懐のまとめノートに描かれた清洲城の構造を思い浮かべながら、悪戯っぽく微笑んだ。


「籠城というのは、気合いで城にこもることじゃないわ。何日分の米があるか。水は足りるか。兵の数に対して、どれだけ持ちこたえられるか。それを知らずに籠城を選ぶのは、目を閉じて崖に向かって歩くのと同じよ」


私はさらに一歩近づき、問いかけた。


「信長さん、清洲城の米蔵って、最後に自分の目で見たのいつですか?」


この問いかけが、彼を正史へと押し戻す、最初の楔となるはずだった。


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