第4話:おじさまたちの不協和音
清洲城の離れに用意された一室で、私は手鏡の代わりに磨かれた青銅の鏡を覗き込んでいた。
鏡の中に映るのは、知的でクールと評されるいつもの私の顔。
しかし、その中身は今、歴史オタクとしての興奮と、戦国時代という生々しい現実に挟まれて激しく千々に乱れていた。
ジャージの懐から、命の次に大切な『諸説あり進軍ルート考察図』が描かれたまとめノートを取り出す。
ページをめくり、永禄三年、旧暦五月の不穏な空気感を頭の中で整理する。
「今川義元が二万を超える大軍を率いて駿河を出発したのが五月十二日。そして今日は……おそらく五月十七日か、十八日あたり」
歴史の教科書では、桶狭間の戦いはたった数行で片付けられる。
だが、その数行の裏には、生きるか死ぬかの極限状態に置かれた人間たちの、凄まじい泥仕合が存在していた。
「おい、コンサルタント。軍議の場へ参れ」
部屋の戸が乱暴に開け放たれ、不機嫌そうな柴田勝家が顔をのぞかせた。
信長の命令により、私は「未来が見える怪しい巫女」として、織田家の緊急軍議を襖の隙間から見学させてもらえることになったのだ。
もちろん、勝家を筆頭とする家臣団からは「今川の密偵をなぜ軍議に近づけるのか」と猛反発を受けたらしいが、そこは信長が「わしの命じゃ」と意地を通したらしい。
あのビビリのどこにそんな頑固さがあるのか不思議だが、私としては本物の戦国時代の軍議を見られる大チャンスだ。
活発なオタク心が恐怖を上回り、私は弾む足取りで勝家の後ろを歩いた。
案内された大広間の前には、何重にも重厚な襖が立て回されていた。
私はその一番端の、薄暗い控えの間の襖の隙間に目を据える。
広間の中央には、尾張一帯の城や街道、川筋を描いた粗い絵図が広げられていた。
その周囲を、居並ぶ織田家の宿老たちが取り囲んでいる。
上座に座るのは、我が最推しであり、現在のプロデュース対象である織田信長。
今日の彼は、いつもの派手で奇抜なうつけ服ではなく、一応は大将らしい着物を身にまとっている。
しかし、襖の隙間からでもはっきりと分かった。
彼の膝が、小刻みにガタガタと震えている。
表情こそ平静を装って気難しく引き締めているが、あれは単に恐怖で顔が強張っているだけだ。
短刀を振り回して大泣きしていた姿を知っている身としては、見ていてハラハラする。
「――ですから、殿。ここは清洲城に籠城する一手しかございませぬ!」
沈黙を破って声を張り上げたのは、織田家の宿老である林秀貞だった。
白髪の混じった髭を蓄え、いかにも神経質そうな顔立ちをした老人だ。
私は心の中でノートの記憶を引っ張り出す。
林秀貞。
信長の父親の代からの重臣で、昔は信長の弟の信行を熱烈に支持して信長に謀反まで起こしたおじさまだ。
今は許されて宿老に収まっているけど、信長に対するリスペクトはゼロに近いはず。
「今川の軍勢は二万を超え、我が方の十倍。正面から迎え撃つなど正気の沙汰ではありませぬ。幸い、この清洲城は堅牢。城に立てこもり、国中の兵を集め直す時間を稼ぐか、さもなくば今川殿にしかるべき使者を送り、和睦の道を模索すべきかと存ずる!」
林秀貞が朗々と自説を述べると、周囲の年配の武将たちが「左様」「林殿の申す通りじゃ」と一斉に首を縦に振った。
そこへ、私の案内役を終えて広間に戻った柴田勝家が、ドサリと畳を鳴らして座った。
「和睦など綺麗事をぬかすな、林殿!」
勝家の怒号が響く。
彼は絵図を拳で激しく叩きつけた。
「今川義元がわざわざ二万もの大軍を動かしたのは、尾張を飲み込み、さらに西へ勢力を伸ばすためぞ! 今さら頭を下げたところで、織田の領地をすべて差し出せと言われるのが関の山。武士ならば、城を枕に討ち死にする覚悟で籠城し、敵の兵糧が尽きるまで一歩も引かずに耐え抜くべきだ!」
勝家の意見は林秀貞よりも過激だったが、着地点は同じ「籠城」だった。
戦国時代の常識からすれば、十倍の兵力差がある相手に野戦を挑むなど自殺行為だ。
籠城して敵が疲弊するのを待つのが、唯一の正攻法といえる。
おじさまたちの主張は、当時の戦術としては極めてまっとうなのだ。
しかし、肝心の総大将・織田信長は、何も答えない。
ただじっと、視線を落として黙り込んでいる。
「殿、我らの言葉が聞こえておりまするか!」
林秀貞が苛立ちを隠そうともせず、声を尖らせた。
「先ほどから、籠城の準備を進めるべきと皆が申しております。総大将たる貴方様のご決断を伺いたい!」
信長はピクリと眉を動かしたが、口は一文字に結ばれたままだ。
私は襖の裏で頭を抱えた。
違うのよ、おじさまたち!
信長さんは作戦を考えて黙っているんじゃないの!
怖すぎて、ここで何か喋ったら声が裏返っちゃうから、必死に沈黙を守っているだけなのよ!
「降伏しても殺される、籠城しても飢え死にする」と本音を漏らしていた信長だ。
彼は、勝家たちの言う籠城の危険性も、林秀貞の言う和睦の不可能性も、本能的に理解している。
だからこそ、どちらの選択肢も選べずにフリーズしているのだ。
だが、そんな信長の内心を知る由もない家臣たちの間には、侮蔑と失望の空気が広がっていく。
「……ふん。やはり、大事を前にして何も考えられぬか」
林秀貞が、わざと聞こえるような音を立ててため息をついた。
「噂に聞く今川の大軍に恐れをなし、腰が抜けたか。形ばかり家督を継いだところで、中身は昔と変わらぬ『うつけ者』のままというわけだ」
「何だと、林殿!」
勝家が色めき立つが、それは信長を庇うためではなく、軍議がまとまらないことへの苛立ちからだった。
広間の中は、おじさまたちの意見の衝突と、信長への陰口で、完全に不協和音を奏でていた。
「これ以上、何も語らぬ大将と語る言葉は持たぬ」
林秀貞が冷ややかに言い放ち、バサリと衣服を鳴らして立ち上がった。
「皆の者、各々の持ち城へ戻り、最低限の防備を固めよ。殿の御指図を待っていては、戦う前に首が飛ぶぞ」
その言葉を合図に、宿老たちは次々と信長に一瞥をくれただけで、一礼もせずに部屋を退出していった。
柴田勝家だけが最後に残り、ギリと奥歯を噛み締めながら信長を睨みつけた。
「殿。明日、もう一度伺います。その時までに、大将としての責務をお果たしくだされ」
勝家もまた、重い足取りで去っていった。
広大な広間に、ぽつんと一人、織田信長だけが取り残された。
襖の隙間から見える彼の背中は、酷く小さく、そして震えていた。
家臣たちに完全に舐められ、見限られ、孤立無援となった若き当主。
軍議は、何一つ決まらないまま、最悪の形で決裂したのだ。
私は静かに襖を開け、誰もいなくなった広間へと足を踏み入れた。
信長は、私が近づいても顔を上げようとはしなかった。
ただ、膝の上で握りしめられた彼の拳が、血がにじむほどに白く強張っているのを見て、私の胸の奥がチクリと痛んだ。
ここから、歴史の教科書にあるあの輝かしい『桶狭間の戦い』へ、どうやって繋げていけばいいのだろう。
おじさまたちの鳴らす不協和音の中で、私とポンコツな推しの、本当の戦いが始まろうとしていた。




