表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史テスト前夜に寝落ちしたら、ポンコツ偉人たちのコンサルタントになっていました 〜JK歴女が偉人たちに歴史的決断をさせるまで〜  作者: 牧野ハル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/33

第32話:正史の完成、義元の首

「義元はそこじゃ! 首を逃がすな!!」


信長さんの咆哮が、桶狭間の空気を切り裂いた。


雨上がりの湿った大地に、織田軍の怒号が響き渡る。


今川の本陣は、すでに完全な混乱の中にあった。


つい先ほどまで、そこには勝者の余裕があった。


丸根と鷲津を落としたという報せ。


織田は崩れたという安心。


雨をしのぎ、兵を休ませ、酒を回し、勝利の余韻に浸る今川の将兵たち。


しかし、その油断は、一瞬で地獄へと変わった。


「織田だ! 織田勢が本陣に!」


「どこから来た! 物見は何をしておった!」


「義元様をお守りしろ!」


悲鳴と怒号が入り乱れる。


倒れた陣幕が泥に沈み、濡れた旗指物が折れ、火の消えかけた炊事場が踏み荒らされていく。


兵たちは右へ左へ逃げようとした。


けれど、逃げる場所がない。


丘陵と低地が入り組んだこの一帯は、大軍が整然と広がるには狭すぎた。しかも、先ほどまでの豪雨で足元は泥に変わっている。


数の多さが、今川軍自身の動きを塞いでいた。


前へ進もうとする者。


後ろへ下がろうとする者。


義元を守ろうと本陣へ押し寄せる者。


逃げ惑う雑兵。


それらが互いにぶつかり、押し合い、倒れ、踏みつけ合っている。


大軍は、もはや大軍ではなかった。


巨大な体を持ちながら、頭を殴られて混乱する獣だった。


その獣の喉元へ、織田軍の刃が食い込んでいく。


「進め! 止まるな!」


柴田勝家さんの怒号が響く。


「雑兵に構うな! 輿を見ろ! 義元の旗を見ろ!」


勝家さんは泥を跳ね上げながら槍を振るい、前に立ちはだかる今川兵を押し退けていく。


その姿は、まさに鬼だった。


怒りも、悲しみも、佐久間大学さんたちを救えなかった後悔も、すべて槍の一撃に込めているようだった。


「大学殿の無念、ここで晴らすぞぉぉぉッ!!」


その叫びに、織田兵たちがさらに勢いを増す。


「おおおおおおおッ!!」


黒い波が、今川本陣の中心へと押し寄せる。


私は藤吉郎くんに腕を引かれながら、戦場の端を必死に進んでいた。


怖い。


怖くて、足が震える。


目の前で人が倒れる。


槍が突き出される。


刀が振り下ろされる。


泥に赤いものが混ざる。


誰かが叫ぶ。


誰かが倒れる。


その一つ一つが、私の知っている「歴史」という言葉からは、あまりにも遠かった。


教科書には、こう書かれていた。


桶狭間の戦い。


織田信長が、今川義元を破る。


今川義元、討死。


たったそれだけ。


でも、違う。


その一文の中には、こんなにも多くの音があった。


雨上がりの泥を踏む音。


甲冑がぶつかる音。


刀が骨に当たる鈍い音。


恐怖で裏返る声。


怒りで枯れる声。


そして、死にもの狂いで前へ進む人間たちの息遣い。


私はそのすべてを、目を逸らせずに見ていた。


「史花様、危ねえ!」


藤吉郎くんが私を引き倒す。


すぐ横を、今川兵が転がるように走り抜けた。


その顔は恐怖で歪んでいた。


彼もまた、死にたくないだけの一人の人間だった。


けれど、その後ろから織田兵が飛びかかり、二人は泥の中へもつれ込む。


私は喉の奥から悲鳴が漏れそうになり、必死に口を押さえた。


「見るんだわ、史花様」


藤吉郎くんが、震える声で言った。


「ここまで来たんだ。見届けるんだぎゃ」


その顔も青ざめていた。


だけど、藤吉郎くんは逃げていない。


私の腕を掴んだまま、必死に戦場の中心を見ている。


私は頷いた。


「うん……見る」


その時、今川本陣の奥で、大きな叫びが上がった。


「義元様をお逃がしせよ!」


「輿を下げろ!」


「敵は少数だ! 押し返せ!」


旗本たちが、必死に壁を作っていた。


その内側に、ひときわ目立つ人物がいた。


輿の近く。


濡れてなお上等と分かる装束。


白く塗られた顔。


武家の名門らしい気品と、突然の襲撃への怒り。


今川義元。


その姿を見た瞬間、私の心臓が強く跳ねた。


本当に、いた。


歴史の中の人物が。


「義元……!」


誰かが叫んだ。


それが誰の声だったのか、私には分からなかった。


けれど、その名が戦場に響いた瞬間、織田軍の勢いがさらに変わった。


全員が、そこへ向かう。


獲物の位置を知った狼の群れのように。


信長さんは少し離れた場所から、それを見ていた。


自ら義元へ斬りかかるのではない。


彼は刀を掲げ、全軍の流れを操っていた。


「そこじゃ! 右を裂け!」


「旗本を押し込め!」


「義元の退き道を塞げ!」


命令が飛ぶたびに、織田兵の波が形を変える。


無秩序に見える乱戦の中で、信長さんだけが、全体の流れを見ていた。


義元へ向かう道を作る。


義元の逃げ道を狭める。


義元の周りの旗本を削る。


そのすべてが、一つの目的へ向かっている。


首。


今川義元の首。


「殿……」


勝家さんが、泥と血にまみれながら振り返った。


その目には、もう迷いはなかった。


信長さんは短く頷く。


「行け」


それだけだった。


だが、その一言で、前線の織田兵たちがさらに飛び込んだ。


その中から、一人の武者が躍り出た。


「服部小平太! 参る!!」


服部小平太。


その名を聞いた瞬間、私の背筋に電流が走った。


知っている。


私は、その名前を知っている。


桶狭間で今川義元に斬りかかったと伝わる織田方の武士。


歴史の知識として知っていた名が、今、目の前で泥を跳ね上げながら義元へ向かっている。


服部小平太は、槍を構えて突き込んだ。


狙いは義元。


「おのれぇッ!」


今川方の旗本が間に割って入る。


槍と刀がぶつかり、火花のような音がした。


小平太は弾かれながらも、体勢を崩さない。


さらに一歩踏み込む。


「義元、覚悟!」


その槍が、ついに義元へ届いた。


けれど、今川義元もただの飾りではなかった。


名門の当主。


海道一の弓取り。


突然の奇襲を受け、周囲を崩されながらも、その目にはまだ怒りがあった。


義元は刀を抜き、迫る小平太を迎え撃った。


「下郎が!」


鋭い一撃。


小平太の体が大きく揺れる。


「ぐっ……!」


槍が逸れた。


義元の刀が、小平太に傷を負わせたのが見えた。


周囲から悲鳴が上がる。


「小平太!」


だが、その一瞬が、決定的な隙になった。


義元が小平太に意識を向けた。


周囲の旗本が、織田兵に押されてわずかに崩れた。


その空白に、もう一人の武者が飛び込んだ。


「毛利新介ぇぇぇッ!!」


泥を蹴り、血煙の中を突き抜けるように、その男が義元へ迫る。


毛利新介。


その名も、私は知っている。


今川義元を討ち取ったと伝えられる男。


「まさか……」


私の声が震えた。


本当に、この瞬間が来る。


歴史の一文が、目の前で完成しようとしている。


義元は振り向いた。


しかし、遅い。


毛利新介は、倒れかけた小平太の横を抜け、義元へ組みつくように飛び込んだ。


二人の体が泥の中でもつれた。


周囲の兵たちが叫ぶ。


「義元様!」


「新介、押さえろ!」


「討て! 討てぇぇぇッ!」


泥が跳ねた。


刀が光った。


一瞬、何が起きたのか分からなかった。


ただ、義元の白い顔が、驚愕に歪んだのが見えた。


その直後。


毛利新介の叫びが、桶狭間に轟いた。


「今川義元、討ち取ったりぃぃぃッ!!」


世界が、止まった。


本当に、一瞬だけ、すべての音が消えた気がした。


雨上がりの空。


泥の大地。


倒れた陣幕。


折れた旗。


血に濡れた武者たち。


その中心で、毛利新介が今川義元の首を掲げていた。


次の瞬間。


「おおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


織田軍の雄叫びが、桶狭間の山を震わせた。


「義元を討ったぞ!」


「海道一の弓取りを討ち取ったぞ!」


「織田が勝った!」


「殿が勝ったぞぉぉぉッ!!」


今川軍は完全に崩れた。


総大将が討たれた。


その事実は、大軍の背骨を一瞬でへし折った。


「義元様が……?」


「嘘だ!」


「退け! 退けぇ!」


「本隊へ知らせろ!」


しかし、誰も正しい命令を出せない。


誰が指揮を取るのか分からない。


前へ進む者も、逃げる者も、叫ぶ者も、皆がばらばらだった。


大軍は、頭を失った。


信長さんの言った通りだった。


頭を失った大軍は、ただの群れになる。


「追いすぎるな!」


信長さんの声が飛ぶ。


「義元の首を確かめよ! 本陣を押さえろ! 深追いはするな!」


勝利の熱狂に呑まれかけた兵たちを、信長さんの声が引き戻す。


かっこよかった。


あまりにも、かっこよかった。


義元を直接斬ったのは、信長さんではない。


けれど、義元の首へ刃を届かせたのは、間違いなくこの人だった。


丸根と鷲津の犠牲。


元康さんたち先鋒の疲弊。


今川本隊の油断。


尾張の空。


黒い雨。


雨上がりの一瞬。


そのすべてを一本の線に繋げ、毛利新介の刃が届くところまで戦場を動かした。


それが、織田信長だった。


「……今川義元、討死」


私は、ぽつりと呟いた。


何度も見た言葉だった。


テスト勉強で覚えた言葉。


まとめノートに書いた言葉。


教科書の中の、ただの歴史用語だった言葉。


でも今、その一文は、目の前で血と泥と叫びをまとって現実になった。


足が震える。


涙が出そうになる。


怖いのか、嬉しいのか、分からない。


ただ、胸の奥がいっぱいだった。


「史花様……」


藤吉郎くんが、震える声で言った。


彼の目から、大粒の涙がこぼれていた。


「勝った……勝っただわ……! 殿が、義元を……本当に……!」


「うん」


私は頷いた。


「信長さんが、勝った」


遠くで、信長さんが馬を進めた。


兵たちが道を開ける。


泥と血にまみれた戦場の中心へ、信長さんがゆっくりと近づいていく。


毛利新介が、義元の首を掲げたまま膝をついた。


服部小平太も、傷を負いながら地面に手をついている。


「殿……!」


毛利新介の声は震えていた。


「今川義元、討ち取りましてございます!」


信長さんは、しばらくその首を見つめていた。


その顔には、勝利に酔う笑みはなかった。


ただ、深く、静かな目をしていた。


丸根と鷲津で死んだ者たち。


今日ここまで走った者たち。


今目の前で血を流して倒れている者たち。


そのすべてを、彼は一瞬で背負い直しているように見えた。


「……大儀」


信長さんは、短く言った。


「服部小平太、毛利新介。ようやった」


二人が、泥の中に深く頭を下げる。


信長さんは、義元の首から目を離し、周囲を見渡した。


「皆の者、聞け」


戦場のざわめきが、少しずつ静まる。


織田兵たちが、信長さんを見る。


勝家さんも、林さんも、藤吉郎くんも、私も。


全員が、その言葉を待った。


信長さんは、刀を掲げた。


「今川義元は討ち取った」


その声は、桶狭間の湿った空へまっすぐに伸びていく。


「我らの勝ちじゃ」


一瞬の沈黙。


そして。


「おおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


勝利の叫びが、山を割るように響いた。


兵たちは泣き、笑い、泥の中で抱き合った。


勝家さんは天を仰ぎ、歯を食いしばりながら涙を流していた。


「大学殿……玄蕃殿……見ておられるか……! 殿は、義元を討たれたぞ……!」


その声に、私の胸が締め付けられた。


丸根と鷲津の死は、消えない。


佐久間大学さんたちは戻ってこない。


けれど、その死は、ここへ繋がった。


義元の首へ繋がった。


尾張を救う勝利へ繋がったのだ。


その時、数人の兵が、今川本陣の奥から立派な太刀や道具を運んできた。


「殿、義元の所持品と思われまする!」


その中に、一振りの刀があった。


ただならぬ気配をまとった、美しい刀。


泥と血に汚れた戦場の中で、それだけが静かに光を宿しているように見えた。


「これは……」


林さんが息を呑む。


「名物、宗三左文字かと」


宗三左文字。


その名を聞いて、私はまた息を止めた。


信長さんは、兵からその刀を受け取った。


しばらく、じっと見つめる。


今川義元が持っていた刀。


戦国の覇権を象徴するような一振り。


それが今、信長さんの手にある。


「義元」


信長さんは、低く呟いた。


「お前の道は、ここで終わった」


そして、宗三左文字を静かに腰へ寄せた。


「この刀も、この勝利も、わしが貰う」


その言葉に、織田兵たちが再び声を上げた。


私は、その光景を呆然と見つめていた。


正史が、完成した。


今川義元は桶狭間で討たれた。


織田信長は、歴史の表舞台へ躍り出た。


そして、私の知っている未来へと繋がる道が、今、確かに開いた。


「……やったね」


私は、小さく呟いた。


誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。


信長さんへか。


藤吉郎くんへか。


丸根と鷲津で死んだ人たちへか。


それとも、歴史そのものへか。


雨上がりの桶狭間に、勝利の歓声が響き続ける。


雲の切れ間から差し込む光が、信長さんの濡れた甲冑を照らしていた。


その姿は、もう「うつけ」でも、「ビビリ」でもなかった。


苦しみ、迷い、震え、それでも自分で決めて、勝利を掴んだ男。


私の大好きな、最高にかっこいい織田信長が、そこにいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ