第31話:雨上がり、魔王の強襲
雨音が、変わった。
さっきまで世界のすべてを叩き潰すように降っていた豪雨が、少しずつ、少しずつ弱まっていく。
ざあああああっ、という白い壁のような音が、さらさら、ぱらぱらという細かな音へ変わった。
葉に溜まった水が、ぽたり、ぽたりと地面に落ちる。
泥に沈んでいた草が、雨粒の重みから解放されるように、わずかに揺れた。
私は、濡れた草むらの中で息を殺していた。
膝は泥に沈み、わらじの中は水でぐしゃぐしゃになっている。小袖は全身に張りつき、体の芯まで冷え切っていた。
それでも、寒さを感じる余裕はなかった。
目の前に、今川軍がいる。
ほんの少し先。
木々の隙間の向こう。
雨の幕が薄くなっていくたびに、ぼんやりとした影が形を持ち始めた。
まず見えたのは、陣幕だった。
白地に今川の紋が入った幕が、雨に濡れて重たげに垂れている。
その周囲には、槍を立てかけた足軽たちがいた。
彼らは戦う構えをしていなかった。
兜を脱ぎ、肩の力を抜き、雨宿りのために寄り集まっている。ある者は濡れた具足を拭き、ある者は握り飯をかじり、ある者は瓢箪を回して酒を飲んでいた。
炊事の煙が、雨上がりの湿った空気の中を低く漂っている。
焦げた米の匂い。
濡れた馬の匂い。
泥と汗と酒の匂い。
それらが混ざり合って、今川本陣の「勝った後のゆるみ」を、いやでも感じさせた。
「……本当に、休んでる」
私は、ほとんど声にならない声で呟いた。
隣の藤吉郎くんが、ごくりと唾を飲み込む。
「史花様……あれ、今川の本陣だわ」
その声は震えていた。
恐怖だけではない。
興奮。
信じられないものを見ている驚き。
そして、今にも何かが爆発しそうな予感。
私たちの少し前方で、織田信長が低く身を伏せていた。
雨に濡れた黒漆の具足。
泥に汚れた袖。
それでも、その背中は異様なほど大きく見えた。
彼はまだ刀を抜いていない。
ただ、じっと見ている。
今川の陣幕。
濡れた旗。
休んでいる兵。
そのさらに奥。
ひときわ厳重に囲われた場所。
そこに、金の飾りが施された輿が見えた。
雨上がりの薄い光を受けて、ぼんやりと、しかし確かに輝いている。
あれだ。
今川義元。
海道一の弓取り。
駿河・遠江・三河を押さえ、二万とも四万とも言われる大軍を率いて尾張に攻め込んできた、この戦の中心。
その男が、あの陣幕の奥にいる。
「……見えた」
信長さんが、低く呟いた。
その声に、私は背筋が震えた。
大きな声ではない。
けれど、その一言で、周囲の兵たちの空気が変わった。
泥の中に身を伏せていた二千の織田兵たちが、息を止める。
槍を握る手に力が入る。
刀の柄を押さえる指が白くなる。
誰も声を出さない。
雨上がりの森の中に、兵たちの荒い呼吸だけが静かに重なった。
信長さんは、ゆっくりと立ち上がった。
草むらの中で身を起こす、その動作は驚くほど静かだった。
彼は片手を上げた。
それだけで、後ろに控える武将たちが身構える。
柴田勝家さんが、獣のような目で今川本陣を睨む。
林秀貞さんは青ざめていたが、それでも刀の柄から手を離さない。
藤吉郎くんは、私の腕をぎゅっと掴んだ。
「始まるだわ……」
「うん」
私の声も震えていた。
怖い。
ものすごく怖い。
これから、人が死ぬ。
目の前で。
歴史の教科書にたった数行で書かれている出来事が、怒号と血しぶきと悲鳴を伴って現実になる。
でも、目を逸らせなかった。
ここまで来たのだ。
信長さんが、自分で恐怖を超え、自分で決め、自分で背負って、ここまで来た。
その瞬間を、私は見届けなければならない。
雨雲が、少しだけ割れた。
雲の切れ間から、細い光が差し込む。
その光が、今川本陣の陣幕を照らした。
濡れた槍先が光る。
金の輿が、ぼうっと浮かび上がる。
まるで、そこだけが舞台の中央であるかのように。
信長さんが、刀の柄に手をかけた。
ゆっくりと。
静かに。
そして、一息で引き抜いた。
シャリン、と澄んだ音が鳴った。
雨上がりの空気を裂くような、鋭い音だった。
その瞬間、信長さんの目が変わった。
それまで息を潜め、雨と泥に溶け込んでいた獣が、ついに牙を剥いた。
「聞け」
低い声だった。
けれど、二千の兵の耳に届いた。
「前を見るな」
信長さんは、今川本陣を見据えたまま言った。
「横を見るな」
兵たちが、息を呑む。
「数を見るな。旗を見るな。雑兵を見るな」
信長さんの刀が、金の輿を指した。
「狙うは義元の首、ただ一つ」
その一言で、兵たちの視線が一斉に絞られた。
今川軍全体ではない。
四万という数でもない。
陣幕の奥。
金の輿。
総大将。
今川義元。
「佐久間大学、織田玄蕃、飯尾定宗。丸根と鷲津で死んだ者たちが、わしらをここまで運んだ」
信長さんの声が、少しだけ強くなった。
「奴らの血で開いた道じゃ。犬死ににするな」
勝家さんの顔が歪んだ。
涙とも、怒りともつかない表情だった。
けれど、彼はもう泣かなかった。
槍を握り、前を向いた。
「義元の首を獲れ」
信長さんの声が、さらに低く沈む。
「それ以外の首はいらぬ」
兵たちの喉が鳴った。
「今川の大軍は、頭を落とせば崩れる。義元を討てば、この戦は終わる。よいか、誰一人として横道へ逸れるな。敵の雑兵にかまうな。まっすぐ本陣へ突っ込め」
風が吹いた。
雨上がりの冷たい風だった。
濡れた草が、一斉にざわめく。
その音に紛れるように、今川方の兵たちの笑い声が聞こえた。
「雨が上がったぞ!」
「やれやれ、ひどい降りだったな!」
「義元様もご機嫌であろう!」
彼らは、まだ気づいていない。
すぐそばに、死が伏せていることに。
自分たちが勝ったと思い込んでいるその瞬間が、最も危険な瞬間であることに。
信長さんは、静かに息を吸った。
そして。
「今じゃ」
その声は、刃のようだった。
次の瞬間、彼は刀を天へ掲げ、雷鳴のような大音声で叫んだ。
「かかれぇぇぇぇッ!! 義元の首を挙げよぉぉぉッ!!」
世界が、爆発した。
それまで泥の中に沈んでいた二千の織田兵が、一斉に立ち上がった。
草むらが割れる。
木々の陰から、黒い軍勢が噴き出す。
「おおおおおおおおおおおおッ!!」
怒号が、雨上がりの桶狭間を揺らした。
それは人間の声というより、山そのものが吠えたような音だった。
織田軍が走る。
泥を跳ね上げ、草を踏み潰し、低い丘を駆け下りる。
槍が前へ突き出される。
刀が抜かれる。
足軽たちは、転びそうになりながらも止まらない。
勝家さんが先頭近くで吠えた。
「道を開けぇぇぇッ!! 殿の刃を義元へ届けよぉぉぉッ!!」
その巨体が、今川の外側の兵へぶつかった。
槍が弾かれ、鎧が鳴り、悲鳴が上がる。
一瞬遅れて、今川方の兵たちがこちらを見た。
「な、何だ!?」
「敵だ!」
「織田だ! 織田が来たぞ!」
声が裏返っていた。
彼らは完全に油断していた。
雨宿りのために兜を外していた者。
槍を地面に置いていた者。
飯を手に持ったままの者。
酒を飲んでいた者。
その全員が、突然目の前に現れた織田軍に反応できない。
「織田だと!? どこから湧いた!」
「本陣を守れ!」
「輿を、義元様の輿を!」
今川方の陣が、悲鳴と怒号でぐちゃぐちゃに崩れていく。
陣幕が倒れる。
炊事の火が蹴り散らされる。
濡れた地面に、椀や握り飯や折れた槍が転がる。
馬が暴れ、兵が転び、倒れた兵の上にさらに人がのしかかる。
大軍なのに、動けない。
数は多い。
けれど、その数が邪魔をしている。
狭い土地に押し込められた兵たちは、どこへ逃げればいいのか分からず、味方同士でぶつかり合っていた。
一方、織田軍は違った。
狙いが一つだった。
義元の首。
ただそれだけ。
だから迷わない。
横に逃げる敵を追わない。
倒れた兵に構わない。
金の輿へ向かって、黒い槍の群れが一直線に突き進む。
「史花様、こっちだわ!」
藤吉郎くんが私の手を引いた。
私は必死についていく。
前に出るなと言われていた。
それでも、戦場の端にいても、十分すぎるほど怖かった。
目の前で人が倒れる。
泥が赤く染まる。
誰かの叫びが聞こえる。
「助けてくれ!」
「押すな!」
「義元様を守れ!」
「進め! 進めぇ!」
何が起きているのか、全部は分からない。
けれど、織田軍が今川本陣の外側を食い破っていることだけは分かった。
まるで黒い槍が、白い陣幕を引き裂いていくようだった。
信長さんは、前にいた。
刀を抜き、馬上で本陣を睨み、次々と命令を飛ばしている。
「左へ広がるな! 中へ食い込め!」
「輿を見失うな!」
「旗本を崩せ! 義元の周りを裂け!」
その声が響くたびに、兵たちの動きが修正される。
乱戦なのに、織田軍の中心は崩れない。
恐ろしいほどに、目的だけが保たれている。
これが、信長さんの戦。
大軍と大軍がぶつかる戦ではない。
首を狙う戦。
一点だけを突き破る戦。
「おのれ織田ぁ!」
今川方の侍が、雨に濡れた刀を振り上げて突っ込んできた。
私は悲鳴を上げそうになった。
その瞬間、藤吉郎くんが私を突き飛ばすように横へ引いた。
「伏せるだわ!」
侍の刀が、私のすぐ前の空気を裂いた。
心臓が止まるかと思った。
だが、その侍は次の瞬間、横から飛び込んできた織田の足軽の槍に押し返され、泥の中へ転がった。
「史花様! 生きてるかだわ!?」
「い、生きてる……!」
「じゃあ走るだわ!」
藤吉郎くんの顔は真っ青だった。
それでも、私の手を離さない。
逃げ足だけの男。
口先だけの男。
そう思っていた彼が、今は必死に私を守っている。
戦えなくても、できることをしている。
誰もが、自分の役目を果たしている。
勝家さんは道を開く。
林さんは兵を崩さない。
藤吉郎くんは私を引く。
史花は、見る。
そして信長さんは、義元だけを見ている。
「本陣が崩れるぞ!」
誰かが叫んだ。
今川の陣幕の一部が、大きく傾いた。
金の輿の周囲が慌ただしく動き始める。
旗本たちが集まり、壁を作ろうとしている。
その奥に、派手な装束の武将らしき影がちらりと見えた。
「義元……?」
私の声は、雨上がりの湿った空気に消えた。
その瞬間、信長さんの目が鋭く光った。
彼も見たのだ。
海道一の弓取りの姿を。
「押し込めぇぇぇッ!!」
信長さんが吠えた。
「義元はそこじゃ! 首を逃がすな!!」
織田軍が、さらに勢いを増した。
黒い波が、今川本陣へ雪崩れ込む。
今川の旗が倒れる。
金の輿の周囲で、激しい斬り合いが始まる。
服部小平太。
毛利新介。
その名を、私は歴史の知識として知っている。
次に何が起きるのかも、知っている。
けれど、知識として知っていることと、目の前で見ることはまったく違った。
これはもう、暗記ではない。
これは、現実だ。
泥と血と怒号の中で、歴史が形を変えている。
「史花様……!」
藤吉郎くんが、私の腕を強く掴む。
彼の目も、金の輿の方へ向いていた。
織田軍が、ついに今川義元の本陣中枢へ到達しようとしている。
雨は完全に上がっていた。
雲の切れ間から差し込む光が、泥に濡れた刃を照らす。
その光の中で、信長さんが刀を掲げた。
「進めぇぇぇッ!!」
魔王の咆哮が、桶狭間に轟いた。
そして、織田軍の刃はついに、今川義元のすぐ目前へと届いたのだった。




