第30話:黒い雨と、サイレント・マーチ
雨が、来た。
最初は、ぽつり、ぽつりと兜や木柵を叩くだけだった。
けれど、その音はすぐに数を増やし、善照寺砦の屋根を、地面を、兵たちの肩を、容赦なく打ちつけ始めた。
空は、黒かった。
ただ曇っているのではない。
空そのものが、墨を流し込まれたように重く沈み、低く垂れ込めた雲が尾張の大地を押し潰そうとしているようだった。
遠くで雷が鳴る。
ごろごろ、という低い響きが、腹の奥まで震わせる。
次の瞬間。
ざああああああああああああああっ!!
空の底が抜けた。
視界が、一瞬で白く染まった。
「うわっ……!」
私は思わず腕で顔を庇った。
雨粒が痛い。
ただの雨ではなかった。
大粒の水が、まるで無数の小石のように頬や腕を打ちつけてくる。風に煽られた雨は横殴りになり、甲冑の隙間へ容赦なく入り込み、兵たちの身体から体温を奪っていった。
さらに時折、ぱらぱら、ぱしん、と硬い音が混じった。
「雹だ……!」
誰かが叫んだ。
白い小さな粒が、泥の上で跳ねている。
空から氷が降っているのだ。
五月だというのに。
初夏だというのに。
尾張の空は、まるで戦のためだけに狂ったような顔を見せていた。
「史花様! こ、これ、殿が言ってた通りだわ!」
隣で藤吉郎くんが、頭に被った手ぬぐいを押さえながら叫んだ。
声を張らなければ、すぐ近くにいるのに聞こえない。
雨音がすべてを飲み込んでいる。
人の声も。
馬のいななきも。
甲冑のこすれる音も。
槍の柄がぶつかる音も。
全部、黒い雨の轟音の中に溶けていく。
私は、息を呑んだ。
これだ。
信長さんが待っていたもの。
「天が味方した」なんて、そんな簡単な話じゃない。
この雨は、勝手に舞い降りた奇跡ではない。
信長さんが読んだ。
尾張の風を。
伊勢湾から流れ込む湿った空気を。
低く垂れ込める雲を。
この土地で育った者だけが知っている、空の癖を。
そして、ただ予想しただけではない。
この雨を、戦の中に組み込んだ。
雨音は、織田軍の足音を消す。
白く煙る視界は、今川の物見の目を奪う。
ぬかるんだ道は、大軍の足並みを乱す。
けれど、身軽な少数の軍なら、泥を噛んででも進める。
大軍には枷となり、小軍には隠れ蓑となる。
同じ雨でも、受け取る側によって意味が変わる。
信長さんは、それを分かっていた。
「全軍、声を殺せ」
善照寺砦の中央に立つ信長さんが、静かに命じた。
不思議だった。
雨音はあれほど激しいのに、その声だけは兵たちの耳へまっすぐ届いた。
「これより、田楽狭間へ向かう。だが、吠えるな。走るな。勝手に敵を探すな。わしの背を見て進め」
兵たちは、ただ頷いた。
先ほどまでの雄叫びはない。
熱田社で狂信に染まり、善照寺で狙いを一つに絞られた二千の兵たちは、今、別の何かに変わろうとしていた。
叫ぶ軍ではない。
音を殺す軍。
怒りを外へ吐き出すのではなく、内側に押し込める軍。
刀を抜くその瞬間まで、殺意を鞘の中に閉じ込めておく軍。
「槍の穂を下げよ。光らせるな」
信長さんが続ける。
「具足の緒を締め直せ。金具の鳴る者は布を巻け。馬の口を押さえよ。余計な荷は捨てろ。遅れる者を待つ暇はない」
命令は短い。
けれど、無駄がない。
「敵を見るな。旗を見るな。音を立てるな。ただ前へ進め」
勝家さんが、すぐに配下へ命を飛ばす。
「聞いたか! 槍を下げろ! 鎧の金具を押さえよ! 口を閉じろ! 咳をする者は袖を噛め!」
林さんも、顔を青ざめさせながら兵の列を整える。
「列を詰めすぎるな! 泥で転べば後ろが巻き込まれる! 間を空けよ、だが離れすぎるな!」
善照寺砦の中が、静かな忙しさに包まれた。
誰も叫ばない。
誰も大きく動かない。
それでも、兵たちは確実に戦う形へ整っていく。
私はその様子を見ながら、風呂敷の結び目をぎゅっと握り直した。
中には、もう何度も泥と雨から守ってきたまとめノートが入っている。
正直に言えば、膝が震えていた。
ここまで来ても、まだ怖い。
いや、ここまで来たからこそ怖い。
これから私たちは、歴史の教科書で「桶狭間の戦い」と呼ばれる、あの場所へ向かう。
でも、教科書の中には、雨の痛さも、泥の重さも、兵たちの息遣いも書かれていなかった。
人が死ぬ匂いも。
誰かの恐怖が隣の肩から伝わってくる感覚も。
何も、書かれていなかった。
「史花」
ふいに、信長さんが私を呼んだ。
私ははっと顔を上げた。
「はい」
「お前は後ろにいろ。前へ出るな」
「でも……」
「見ると言ったな」
信長さんは、雨に濡れた顔で私を見た。
その表情は静かだった。
怖いほどに。
「ならば、生きて見ろ。死ねば何も見えぬ」
その言葉に、私は何も返せなかった。
「藤吉郎」
「は、はいだわ!」
「史花から離れるな。転びそうになったら引け。敵が来たら逃げろ。戦おうなどと思うな」
「そ、それは得意だぎゃ!」
「知っておる」
信長さんが、少しだけ笑った。
ほんの一瞬だった。
けれど、その笑みに、胸の奥が熱くなった。
恐怖が消えたわけじゃない。
死が遠ざかったわけでもない。
でも、この人はもう、自分の恐怖に飲まれていない。
怖さを抱えたまま、前に進むことを選んでいる。
だから、兵たちもついていく。
私も、ついていきたいと思ってしまう。
「出るぞ」
信長さんが、南東の方角へ顔を向けた。
その瞬間、善照寺砦の空気が変わった。
二千の兵が、一斉に息を潜める。
ざああああああああっ、と雨が降り続ける。
その白い幕の中へ、信長さんが最初の一歩を踏み出した。
誰も声を上げなかった。
勝鬨もない。
太鼓もない。
陣貝も鳴らない。
ただ、泥を踏む音だけが、雨に溶けて消えていく。
サイレント・マーチ。
声なき行軍。
織田軍二千は、黒い雨をまとい、桶狭間へ向けて静かに進み始めた。
道はひどかった。
善照寺砦を出てからの道は、すでに雨で小さな川のようになっていた。
泥は足首まで沈み、わらじが何度も取られそうになる。
少しでも気を抜けば滑る。
転べば、後ろの兵に踏まれる。
私は必死に藤吉郎くんの背を追った。
藤吉郎くんは、さすがに逃げ足だけは本物だった。
泥の中でも身軽に足場を見つけ、倒木を避け、ぬかるみの浅い場所を選んで進む。
「史花様、ここ踏むだわ! そこは深いぎゃ!」
「ありがとう……!」
「声、小さく!」
「あ、ごめん!」
慌てて口を押さえる。
雨音があるとはいえ、敵がどこに潜んでいるか分からない。
今川軍の物見が、近くにいない保証などないのだ。
前方では、信長さんが迷いなく進んでいた。
彼はときどき立ち止まり、周囲の地形を見た。
丘の稜線。
木々の密度。
小さな谷筋。
ぬかるんだ道の流れ。
そして、風。
風を読むように顔を上げ、また進路を決める。
それは、地図だけを頼りにする動きではなかった。
この土地を知る者の動きだった。
「右へ寄れ」
信長さんが低く命じる。
先頭の兵たちが、すぐに方向を変える。
「そこは下るな。泥が深い。尾根筋を使え」
また、命令が飛ぶ。
「馬を抑えよ。音を立てるな。枝を折るな」
誰も逆らわない。
不思議なほど、軍が一つになっていた。
先ほどまで恐怖で崩れかけていた二千の兵が、今は一本の黒い流れのように、雨の中を進んでいる。
大軍のような派手さはない。
旗も、声も、太鼓もない。
でも、その静けさこそが怖かった。
まるで、獲物の背後へ忍び寄る獣の群れだ。
やがて、道はさらに細くなった。
木々が迫り、視界はほとんどない。
雨の白い膜の向こうに、誰がいるのか分からない。
時折、遠くから今川方と思われる声が聞こえた。
「雨宿りだ!」
「荷を濡らすな!」
「本隊はどこまで進んだ!」
そんな断片的な声が、風と雨にちぎられて届く。
近い。
今川軍は、もう近い。
私の心臓が、どくどくと音を立て始めた。
「史花様……」
藤吉郎くんが、雨に濡れた顔で振り返る。
「今の、聞こえただわ?」
「うん」
「敵だわ。もう、すぐそこだぎゃ」
藤吉郎くんの顔は青ざめていた。
でも、逃げ出さない。
震えながらも、私の前を歩いている。
出会った時、馬の世話をサボって土下座していた男とは、もう違って見えた。
もちろん、今でも怖がりだ。
たぶん、誰よりも逃げたいと思っている。
でも、逃げていない。
自分の足で、歴史の渦の中を歩いている。
「藤吉郎くん」
「なんだわ?」
「怖い?」
「怖いに決まっとるだわ!」
即答だった。
でも、その後で藤吉郎くんは、小さく笑った。
「でも、今逃げたら、一生後悔する気がするぎゃ」
私は、その横顔を見て少しだけ笑った。
「出世のため?」
「それも、ちょっとはあるだわ」
藤吉郎くんは、照れくさそうに鼻をこすった。
「でも今は……殿が義元の首を獲るところ、見てみてえ」
その言葉に、私は胸が震えた。
そうだ。
私も同じだ。
怖い。
逃げたい。
でも、見たい。
この先にあるものを。
歴史が動く、その瞬間を。
「止まれ」
前方で、信長さんの声がした。
全軍が、ぴたりと止まった。
雨が降り続く。
誰も動かない。
息すら小さくなる。
信長さんは、木々の間から見える低地の方へ目を凝らしていた。
そこから、かすかに煙が見えた。
炊事の煙だ。
雨に濡れて、薄く、低く、白く流れている。
その向こうに、ぼんやりと旗が揺れている。
今川の旗。
二つ引両。
私の喉が、からからに乾いた。
「近い」
勝家さんが、低く呟いた。
信長さんは頷いた。
「義元の本陣は、この先じゃ」
兵たちの間に、緊張が走る。
声はない。
だが、全員が理解した。
ついに、来たのだ。
今川義元の喉元へ。
雨音がさらに強まった。
いや、強くなったように感じたのかもしれない。
世界のすべてが、雨と鼓動だけになっていた。
信長さんは、まだ刀を抜かなかった。
じっと待っている。
その背中を見て、私は気づいた。
まだ早いのだ。
この雨の中で突っ込めば、こちらも視界を失う。
敵を見つけきれない。
必要なのは、あと少し。
雨が敵の警戒を完全に削り、陣を乱し、兵たちを油断させるまで。
そして、視界が開けるその一瞬。
雨上がりの、ほんの短い隙。
そこに、信長さんは全てを叩き込むつもりなのだ。
「伏せよ」
信長さんが命じた。
兵たちは、泥の中に身を低くした。
私も藤吉郎くんに引かれ、濡れた草の中にしゃがみ込む。
冷たい泥が膝に染みた。
だが、そんなことを気にする余裕はなかった。
前方から、今川兵たちの声が聞こえる。
「まったく、ひどい雨だ!」
「輿を濡らすな!」
「義元様は奥へ!」
「火を絶やすな、酒を回せ!」
彼らは、気づいていない。
この雨の中、すぐ近くまで、織田軍二千が忍び寄っていることに。
自分たちが勝ったと思い込んでいることに。
その慢心のすぐ横で、刃が研がれていることに。
私は、震える手で口元を押さえた。
歴史の教科書には、こんな沈黙は書かれていない。
こんな雨音も。
こんな近さも。
敵の声が聞こえるほどの距離で、息を殺す恐怖も。
何も書かれていない。
でも、今ここにある。
「史花様」
藤吉郎くんが、ほとんど息だけで言った。
「生きて帰れると思うかだわ?」
私は、すぐには答えられなかった。
分からない。
歴史では、織田軍は勝つ。
でも、私が生きて帰れる保証はない。
藤吉郎くんが、このまま無事でいられる保証もない。
目の前の兵たちのうち、何人が次の一刻を生き延びるのかも分からない。
だけど。
「帰るよ」
私は小さく言った。
「信長さんが勝つところを見て、ちゃんと帰る」
藤吉郎くんは、少しだけ笑った。
「なら、オラも帰るだわ」
その時だった。
空の音が、変わった。
さっきまで世界を叩き潰すように降っていた雨が、ほんのわずかに弱まった。
ざあああああ、という轟音の中に、隙間が生まれる。
風向きが変わる。
白く閉ざされていた視界の先に、ぼんやりと光が差した。
信長さんが、ゆっくりと顔を上げた。
その横顔が、雨の向こうで鋭く光る。
待っていた獣が、ついに獲物の喉笛を見つけた顔だった。
全軍が、息を止める。
信長さんの右手が、刀の柄にかかった。
まだ抜かない。
けれど、もう時間の問題だった。
雨音が、さらに一段、静かになる。
雲の切れ間から、かすかな光が落ち始めた。
そして、その先に。
今川義元の本陣が、見えようとしていた。




