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歴史テスト前夜に寝落ちしたら、ポンコツ偉人たちのコンサルタントになっていました 〜JK歴女が偉人たちに歴史的決断をさせるまで〜  作者: 牧野ハル


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第29話:善照寺砦、刃を研ぐ

「時が来たな」


織田信長の静かな一言が、善照寺砦の中に落ちた。


その声は大きくなかった。


怒鳴ったわけでもない。


兵を奮い立たせるために、わざと勇ましく響かせた声でもなかった。


それなのに、その場にいた誰もが息を呑んだ。


雨雲の下で湿った風が吹き抜ける。


砦の木柵がきしみ、濡れた旗指物が重たげに揺れた。


泥と血と汗の匂いが混ざった空気の中で、信長さんだけが異様なほど静かだった。


今川義元の中軍が、田楽狭間――あるいは桶狭間と呼ばれる一帯で足を止めた。


そこは丘陵と低地が入り組み、大軍が整然と広がりにくい場所。


先鋒は丸根と鷲津を落としたことで疲弊し、大高城周辺で動きを止めている。


そして義元の周囲には、勝利に酔い、雨を避け、警戒を緩めた本陣がある。


その報せを聞いた瞬間、私には分かった。


この数日間、泥の中を走り、恐怖に震え、何度も崩れかけながら積み上げてきたもの。


そのすべてが、今、一本の道になったのだ。


信長さんはゆっくりと立ち上がった。


濡れた甲冑が、低く鳴る。


その音だけで、砦の中にいた武将たちが一斉に身を固くした。


柴田勝家さん。


林秀貞さん。


ほかの重臣たち。


そして、泥にまみれて座り込んでいた足軽たちまでもが、自然と信長さんへ視線を向けていた。


「勝家」


信長さんが呼ぶ。


「はっ」


勝家さんは、すぐに膝をついた。


その顔には、まだ涙の跡が残っていた。


丸根と鷲津。


佐久間大学たちの死。


その報告を聞いた時、誰よりも激しく泣き、誰よりも信長さんを責めた男だ。


けれど今、その目にあるのは怒りではなかった。


疑いでもない。


覚悟を決めようとしている武士の目だった。


「この砦に集まった兵の数は」


「はっ。清洲より遅れて参った者、熱田より合流した者、周辺の砦より駆けつけた者を合わせ、およそ二千に迫っております」


「使える者は」


「疲れてはおります。泥に足を取られ、雨に体力を削られております。ですが……」


勝家さんは、言葉を切った。


そして、力を込めて言った。


「殿の御下知さえあれば、死地へ参ります」


信長さんの口元が、かすかに上がった。


「上出来じゃ」


その一言に、勝家さんの肩が震えた。


褒められた喜びではない。


ようやく、自分の命を預けるべき場所が見えた者の震えだった。


「林」


「はっ」


林秀貞さんが、青ざめた顔のまま頭を下げた。


「兵糧、矢玉、火縄の具合は」


「兵糧は多く持ちませぬ。ここで長く籠もることは不可能にございます。矢も多くはなく、火縄はこの湿り気では扱いにくいかと」


「つまり、長く戦えば負ける」


「……はっ」


「ならば長く戦わぬ」


信長さんは、即座に言った。


迷いがなかった。


「我らはここで持久戦をするために集まったのではない。今川の大軍と正面から押し合うために来たのでもない」


砦の中が静まり返る。


誰もが、その続きの言葉を待っていた。


信長さんは、外へ目を向けた。


南東の空。


黒雲の向こう。


田楽狭間、桶狭間と呼ばれる一帯。


そこにいる、海道一の弓取り。


今川義元。


「狙うのは、義元の首ただ一つじゃ」


その言葉は、砦の中の空気を一刀で断ち切った。


「今川の四万を相手にするな。雑兵を見るな。旗の多さに目を奪われるな。大軍とは、頭を失えばただの群れじゃ」


信長さんは、腰の刀に手を添えた。


まだ抜かない。


けれど、その手つきだけで、兵たちの背筋が伸びた。


「わしらが斬るのは、今川の手足ではない。胴でもない。首じゃ。義元の首を落とせば、この戦は終わる」


勝家さんが、息を呑んだ。


「殿……」


「分かったか、権六」


信長さんは、静かに勝家さんを見下ろした。


「丸根と鷲津が燃えた意味を」


勝家さんの顔が歪んだ。


痛みをこらえるような表情だった。


「佐久間大学も、織田玄蕃も、飯尾定宗も、ただ死んだのではない。あ奴らは、今川の先鋒を砦に縛りつけた。松平と朝比奈をそこで消耗させた。義元に『織田の前線は崩れた』と思わせた」


信長さんの声は低い。


だが、一言一言が、砦の木組みに染み込むように響いた。


「その結果、義元は進んだ。驕った。足を止めた。大軍を狭い土地に引きずり込んだ」


勝家さんの拳が震えた。


「では……大学殿たちは……」


「そうじゃ」


信長さんは、はっきりと言った。


「奴らは、義元の喉元へわしらの刃を届かせるために死んだ」


勝家さんの目から、また涙がこぼれた。


だが、今度の涙は、ただの悲しみではなかった。


あまりにも苦しい理解。


あまりにも遅い納得。


そして、死んだ者たちの忠義を、ようやく戦の盤面の中で受け止めた者の涙だった。


「……某は」


勝家さんは、泥に額をつけた。


「某は、殿を責めました。薄情者と、主君にあるまじき御方と、心の中で何度も罵りました」


信長さんは何も言わない。


勝家さんは、震える声で続けた。


「されど、殿は……最初から、大学殿たちの死を犬死にせぬために、義元の首だけを見ておられたのですね」


「違う」


信長さんの声が、勝家さんの言葉を断った。


勝家さんが顔を上げる。


信長さんは、真っ直ぐに言った。


「わしは、最初からすべてを見通していたわけではない。怖かった。迷った。砦を助けに走りたいと何度も思った」


私は、思わず信長さんを見た。


その言葉を、彼が家臣たちの前で口にするとは思わなかった。


「だが、見えたのだ。砦を助けに行けば、義元には届かぬ。義元に届かなければ、尾張は滅びる。だから、わしは大学たちを見捨てた」


砦の中で、誰かが小さく息を呑んだ。


信長さんは逃げなかった。


言い訳もしなかった。


「見捨てたのは、わしじゃ。あ奴らの命を使ったのも、わしじゃ。その罪は、わしが背負う」


信長さんの瞳が、暗く深く光った。


「だが、背負ったからには、必ず勝つ。勝たねば、あ奴らの死は本当に犬死にになる」


勝家さんは、泥の中でさらに深く頭を下げた。


「殿……!」


「泣くな、権六」


信長さんは、厳しい声で言った。


「泣くのは、義元の首を獲ってからにせよ」


勝家さんの肩が震えた。


それから、彼はごしごしと腕で涙を拭い、顔を上げた。


その目に、炎が戻っていた。


「はっ。柴田勝家、必ずや義元の首へ道を開きまする」


「道を開くのではない」


信長さんは、わずかに笑った。


「わしら全員で、喉を食い破るのだ」


その言葉に、砦の中の兵たちが震えた。


恐怖ではない。


武者震いだった。


「聞け、皆の者」


信長さんが、砦の兵たちへ向き直った。


「今川は大軍じゃ。数だけ見れば、我らは虫けら同然。だが、虫けらにも毒はある。小さき刃でも、急所に刺されば巨人は倒れる」


雨粒が、屋根を叩き始めた。


ぱらぱらと。


それは、まだ弱い。


だが、確実に近づいていた。


信長さんが読んだ雨。


尾張の空が、いよいよ動こうとしている。


「義元は今、勝ったと思っておる。丸根と鷲津を落とし、織田は崩れたと信じておる。だからこそ油断する。だからこそ足を止める。だからこそ、我らの刃が届く」


信長さんは、一歩前へ出た。


「狙うは義元の首ただ一つ。途中の兵に構うな。首級を欲しがるな。雑兵を追うな。敵の数を数えるな。目に入れるのは、金の輿。今川の旗本。義元の本陣のみ」


兵たちの顔が変わっていく。


さっきまで、彼らは四万という数に怯えていた。


だが今、見るべきものが一つに絞られていく。


四万ではない。


義元。


敵全体ではない。


総大将の首。


信長さんは、恐怖で散らばっていた兵たちの意識を、一本の槍の穂先へと整えているのだ。


私は、その様子を息を詰めて見ていた。


もう、私が何かを言う必要はない。


史花が横から説明する場面ではない。


信長さんは、完全に自分の言葉で兵を動かしている。


あのビビリで、膝を抱えて震えていた若者が。


今は、二千の兵の恐怖を一つの殺意へと変えている。


「史花様……」


隣で、藤吉郎くんが小さく呟いた。


「殿、すげえだわ」


「うん」


私は頷いた。


「かっこいいね」


「……うん。正直、ちょっと怖いくらいだぎゃ」


藤吉郎くんの声は震えていた。


でも、その目は逸らしていなかった。


彼もまた、見届けているのだ。


歴史に名を残す男が、いま目の前で形作られていく瞬間を。


その時、砦の外からまた兵が駆け込んできた。


「遅れていた隊、到着しました!」


続いて別の声。


「佐々勢、合流!」


「千秋勢、まもなく!」


「後続の足軽、善照寺下に集まりつつあります!」


砦の空気が、一気に動き出した。


清洲をばらばらに飛び出した兵たちが、熱田を越え、雨と泥を抜けて、ここ善照寺砦へ集まり始めている。


最初は点だった。


十数騎で飛び出した信長さんの背中を追う、小さな点。


それが、熱田で線になった。


そして今、善照寺で一つの刃になろうとしていた。


「林」


「はっ」


「兵を整えよ。ただし、重い隊列は組むな。動きの鈍い者は後ろへ回せ。足の速い者、槍を持つ者、恐怖で足が止まらぬ者を前に出せ」


「はっ」


「勝家」


「はっ」


「お前は前へ出過ぎるな。お前の武勇は知っておる。だが、今日必要なのは、一人で十人を斬ることではない。全軍を義元の本陣まで崩さず運ぶことじゃ」


勝家さんは、一瞬だけ悔しそうに歯を食いしばった。


けれど、すぐに深く頭を下げた。


「承知」


「藤吉郎」


「ひゃ、ひゃいっ!」


突然呼ばれた藤吉郎くんが、変な声を上げた。


信長さんは、彼を見てわずかに口元を緩めた。


「お前は史花のそばにいろ」


「へ?」


「その足と口は使える。戦場で役に立つかは知らぬが、逃げ足だけは誰よりも速かろう」


「ほ、褒められてるんだか、けなされてるんだか分からねえだわ……」


「両方じゃ」


信長さんが言うと、周囲の兵たちから小さな笑いが漏れた。


張り詰めきっていた空気が、ほんのわずかに緩む。


それすらも、信長さんの計算だったのかもしれない。


「史花」


信長さんが、最後に私を見た。


「はい」


「ここから先は、お前の知る歴史と違うものを見るやもしれぬ」


私は、喉を鳴らした。


「……はい」


「人は死ぬ。血も流れる。お前が教科書で読んだ一行の裏側を、最後まで見ることになる」


「覚悟しています」


そう答えたつもりだった。


でも、声は少し震えていた。


信長さんは、それに気づいたのだろう。


わずかに目を細めた。


「怖いか」


「怖いです」


私は正直に答えた。


「でも、ここまで来たなら、最後まで見届けます」


信長さんは、静かに頷いた。


「ならば見ておれ」


彼は、南の空へ視線を向けた。


「これが、織田信長の戦じゃ」


その言葉に、胸の奥が熱くなった。


私の推し。


歴史の教科書で見て、ゲームで見て、物語で見て、ずっと憧れていた人物。


でも今、目の前にいる彼は、ただの憧れではない。


震えもする。


迷いもする。


泣きそうにもなる。


それでも、自分で決める。


苦渋の決断を背負い、味方の死を飲み込み、勝つために前へ進む。


本物の織田信長だった。


外の雨が、少しずつ強くなっていく。


風が変わった。


砦の旗が、大きくはためく。


兵たちは槍を握り直し、兜の緒を締め、濡れた手で刀の柄を確かめる。


勝家さんは立ち上がり、全軍へ向けて怒鳴った。


「聞いたか、者ども! 狙うは義元の首ただ一つ! 雑兵など見るな! 我らは今より、海道一の弓取りの喉元へ食らいつくぞ!!」


「おおおおおおっ!!」


善照寺砦が揺れた。


その咆哮は、恐怖をごまかすための叫びではなかった。


狙いを知った兵たちの、研ぎ澄まされた声だった。


信長さんは、その声を背中で受け止めながら、ゆっくりと刀の柄に手を置いた。


まだ抜かない。


まだ、その時ではない。


雨が来る。


もっと強く。


視界を白く潰し、足音を消し、今川の油断をさらに深くする雨が。


信長さんは、それを待っている。


獲物に飛びかかる直前の獣のように、静かに、低く、全身の力を溜めている。


私は風呂敷を握りしめた。


藤吉郎くんが隣でごくりと唾を飲む。


南東の空に、雷が走った。


黒い雲の腹が、今にも裂けそうに膨らんでいる。


桶狭間への道は、もう開いている。


あとは、雨が刃を隠すのを待つだけだった。

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