第33話:またね、私の大好きな織田信長
桶狭間に、勝利の声が響いていた。
「義元を討ち取ったぞ!」
「織田の勝ちじゃ!」
「殿が、今川を破られたぞぉぉぉッ!」
泥と血にまみれた兵たちが、声を枯らして叫んでいる。
ある者は槍を天に突き上げ、ある者はその場に膝をつき、ある者は仲間の肩を抱いて泣いていた。
つい先ほどまで死の恐怖に震えていた二千の兵たちが、今は全身で生きていることを叫んでいる。
雨上がりの空から、光が差していた。
黒い雲の切れ間から落ちる細い陽光が、泥に沈んだ陣幕を、折れた旗を、倒れた馬を、そして勝利に泣き叫ぶ織田の兵たちを照らしている。
それは、あまりにも美しくて、あまりにも残酷な光景だった。
勝った。
織田信長は、勝った。
今川義元は討たれた。
歴史は、私の知っている流れへ戻った。
いや、戻ったというより、信長さん自身の手で、未来へ続く道を切り開いたのだ。
私は泥の中に立ち尽くしたまま、目の前の光景を見つめていた。
胸の奥が熱い。
けれど、同時に痛い。
ここに来るまで、たくさんの人が死んだ。
丸根で。
鷲津で。
この桶狭間で。
歴史の教科書では、たった数行で終わる出来事。
でも、その数行の裏には、名前があり、顔があり、信じたもののために命を燃やした人たちがいた。
「史花様……」
隣で、木下藤吉郎くんが鼻をすすった。
彼の顔は、泥と雨と涙でぐちゃぐちゃだった。
「勝ったんだわ……本当に、勝ったんだぎゃ……」
「うん」
私は小さく頷いた。
「勝ったね」
藤吉郎くんは、しばらく信長さんの方を見ていた。
その目には、もう最初に会った時のような軽さはなかった。
便所掃除を嫌がり、草履で失敗し、出世と白米につられて動いていた口先だけの若者。
でも今の彼は、戦場で何かを見た。
信長という男の恐ろしさ。
戦というものの残酷さ。
そして、自分もいつか何者かになれるかもしれないという、底の見えない野心の芽。
「藤吉郎くん」
「なんだわ?」
「あなた、きっと出世するよ」
藤吉郎くんは目を丸くした。
「ほ、本当かだわ?」
「うん。たぶん、誰よりも高いところまで行く」
「へへ……史花様が言うと、なんか本当になりそうだぎゃ」
彼は照れたように笑った。
でもすぐに、少しだけ寂しそうな顔をした。
「……でも、史花様は?」
「え?」
「史花様は、これからも殿のそばにいるんだわ? 殿には、史花様みたいな人が必要だぎゃ」
その言葉に、私はすぐに答えられなかった。
なぜなら、その時。
自分の指先が、淡く光っていることに気づいたからだ。
「……あれ?」
最初は、雨上がりの光が反射しているだけだと思った。
けれど違った。
私の手が、薄く透け始めていた。
泥で汚れた指の向こうに、地面の草がうっすら見える。
心臓が、どくんと鳴った。
「史花様……?」
藤吉郎くんの声が震えた。
「そ、その手……どうなってるだわ……?」
私は、自分の両手を見つめた。
光は指先から腕へ、腕から肩へ、少しずつ広がっていく。
痛みはない。
苦しさもない。
ただ、体がこの時代から少しずつほどけていくような、不思議な感覚だった。
(……そっか)
私は、ぼんやりと理解した。
役目が、終わったのだ。
桶狭間の戦いは、正史へたどり着いた。
信長さんは、自分で決めた。
自分で恐怖を超え、自分で苦渋の決断を背負い、自分で義元の首へ届く道を作った。
だから私は、もうここにいる必要がない。
「史花様!?」
藤吉郎くんが慌てて私の腕を掴もうとした。
けれど、その手は私の腕をすり抜けた。
「う、嘘だわ……! 史花様!」
彼の叫びに、近くにいた兵たちが振り返る。
そして、その異変はすぐに信長さんにも届いた。
「史花?」
信長さんがこちらを見た。
雨に濡れた黒い甲冑。
腰には、義元から得た宗三左文字。
泥と血にまみれた戦場の中心に立つその姿は、もう完全に歴史の中の織田信長だった。
けれど、私を見た瞬間だけ、その顔から魔王の仮面が消えた。
驚き。
焦り。
そして、ほんの少しの寂しさ。
「史花!」
信長さんが、こちらへ駆け寄ってくる。
兵たちが道を開ける。
私は、なぜだか笑ってしまった。
こんな時なのに。
泣きそうなのに。
それでも、笑ってしまった。
だって、信長さんが私の方へ走ってきてくれている。
あの織田信長が。
私の大好きな推しが。
「何じゃ、それは」
信長さんは私の目の前で足を止め、透けていく私の体を見つめた。
「史花。何が起きておる」
「たぶん……帰る時間みたいです」
「帰る?」
信長さんの眉が歪む。
「未来へ、か」
「はい」
そう答えた途端、胸がぎゅっと締め付けられた。
帰りたいと思っていた。
何度も思った。
現代のベッドで眠りたい。
スマホを触りたい。
温かいお風呂に入りたい。
安全な教室で、歴史のテストを受けたい。
でも、いざ帰るとなると、こんなにも寂しい。
この泥だらけで、怖くて、血の匂いがして、何度も泣きそうになった戦国時代が。
信長さんが。
藤吉郎くんが。
もう、私の日常には戻らないのだと思うと、胸が痛かった。
信長さんは、手を伸ばした。
けれど、その手は私の肩を掴めなかった。
私の体を、光がすり抜けていく。
信長さんの顔が、はっきりと歪んだ。
「待て」
その声は、命令だった。
いつものように、誰もが従うはずの、総大将の声。
「まだ礼を言っておらぬ」
「いいですよ」
「よくない」
信長さんは、悔しそうに歯を食いしばった。
「そなたのおかげで、わしは……」
私は首を振った。
「違います」
信長さんが目を見開く。
私は、できるだけ明るく笑った。
「違います、信長さん。私のおかげじゃないです」
「何を言う。そなたがいなければ、わしは……」
「私がしたのは、質問しただけです。少しだけ、考えるきっかけを渡しただけ」
光が、胸元まで上がってくる。
声が震えそうになる。
でも、最後まで笑っていたかった。
「決めたのは、信長さんです」
信長さんは黙った。
「丸根と鷲津を助けに行かないって決めたのも、義元の首だけを狙うって決めたのも、雨を利用するって考えたのも、兵たちを信じて突撃したのも、全部、信長さん自身です」
私は、息を吸った。
「あなたが、自分で未来を選んだんです」
信長さんの漆黒の瞳が、揺れた。
その奥に、あのビビリで、膝を抱えて震えていた青年の面影が、ほんの少しだけ見えた。
でも、もう彼はそこに戻らない。
「だから……」
私は笑った。
涙がこぼれた。
「カッコよかったよ、私の推し」
信長さんは、その言葉の意味を完全には分からなかったかもしれない。
でも、何かは伝わったのだと思う。
彼は、ほんのわずかに目を伏せた。
そして、次に顔を上げた時。
そこには、私がずっと憧れていた、最高にかっこいい織田信長がいた。
「史花」
信長さんは、まっすぐに私を見た。
「わしは、天下を取る」
その声は、静かだった。
けれど、桶狭間の戦場にいた誰よりも強かった。
「今日、義元を討った。だが、これは始まりに過ぎぬ。わしはこの尾張から、もっと先へ行く。誰も見たことのない場所まで行く」
風が吹いた。
雨上がりの光が、信長さんの甲冑を照らす。
「だから、未来へ帰るのなら、見ておれ」
信長さんは、不敵に笑った。
「そなたの知る歴史の中で、わしがどこまで暴れるかをな」
その言葉に、私は涙をこぼしながら笑った。
「はい」
なんて、かっこいいんだろう。
本当に。
本当に、この人は織田信長なのだ。
「藤吉郎」
信長さんが、視線を横へ向けた。
「は、はいだわ!」
藤吉郎くんは、泣きながら土下座しかけた。
「史花を見送れ」
「う……うぅ……史花様ぁ……!」
「それと」
「はい?」
「泣くな。猿面がさらにひどくなる」
「ひ、ひどいだわぁ!」
藤吉郎くんは泣きながら叫んだ。
でも、その声に少しだけ笑いが混じっていた。
私は藤吉郎くんを見た。
「藤吉郎くん」
「なんだわ……?」
「いっぱい失敗してもいいから、前に進んでね」
藤吉郎くんの涙が、また大粒になった。
「史花様……」
「あなたは、きっとすごい人になるから」
「本当かだわ?」
「うん。本当」
藤吉郎くんは、ぐしゃぐしゃの顔で何度も頷いた。
「オラ、頑張るだわ。白米も食うし、出世もするし……殿の役にも立つだわ!」
「うん」
「史花様に笑われねえように、頑張るぎゃ!」
私は笑った。
光が、もう首元まで来ていた。
体が軽い。
足元の泥の感覚が、薄れていく。
桶狭間の風景が、少しずつ遠ざかる。
兵たちの歓声。
勝家さんの泣き声。
藤吉郎くんの嗚咽。
そして、信長さんのまっすぐな視線。
全部、忘れたくなかった。
「信長さん」
私は、最後にもう一度だけ名前を呼んだ。
「なんじゃ」
「またね」
信長さんは、ほんの少しだけ目を細めた。
「また、か」
「はい。歴史の中で、何度でも会えます」
私は胸に手を当てた。
「教科書でも、史跡でも、本でも、物語でも。あなたはずっと残るから」
信長さんは、静かに笑った。
「ならば、恥じぬように生きねばならんな」
「もう十分かっこいいです」
「ふん。まだまだじゃ」
その返事が、あまりにも信長さんらしくて。
私は、最後まで笑っていられた。
視界が白く染まる。
桶狭間の空が、光に溶けていく。
信長さんの姿が遠ざかる。
でも、その声だけが、最後まではっきりと聞こえた。
「さらばじゃ、史花」
私は笑って、手を振った。
「またね、私の大好きな織田信長」
次の瞬間。
世界が、真っ白になった。
――――
――チュン、チュン。
鳥の声が聞こえた。
私は、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた机。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
机の上に広げっぱなしの歴史まとめノート。
シャープペンシル。
頬には、ノートの端が押しつけられていた跡がついている。
「……あれ?」
私は、しばらく動けなかった。
夢だったのだろうか。
そんなはずはない。
あの雨の冷たさ。
泥の重さ。
信長さんの手の冷たさ。
藤吉郎くんの涙。
桶狭間に響いた勝利の声。
全部、あまりにもリアルだった。
私は慌ててノートを開いた。
そこには、昨日自分で書いた『桶狭間の戦い』のまとめがあった。
けれど、見覚えのない小さな泥の染みがついていた。
そして、その横に、私の字ではない、荒々しい筆跡のような線が一本だけ残っていた。
何の文字でもない。
ただ、刀で引いたような、まっすぐな線。
私はそれを見た瞬間、涙がこぼれた。
「……夢じゃ、なかったんだ」
その日の歴史テスト。
桶狭間の戦いの問題が出た。
今川義元が大軍を率いて尾張へ侵攻したこと。
織田信長が少数の兵で出陣したこと。
丸根・鷲津砦が落ちたこと。
今川義元が桶狭間周辺で討ち取られたこと。
服部小平太。
毛利新介。
宗三左文字。
私は、迷うことなく答えを書いた。
手は少し震えていた。
でも、間違えるはずがなかった。
だって私は、その場にいたのだから。
数日後、答案用紙が返ってきた。
点数は、満点だった。
クラスメイトが「すごいじゃん!」と笑った。
先生も「文月さん、よく勉強したね」と褒めてくれた。
私は曖昧に笑った。
勉強した。
確かに、勉強はした。
でも、それだけじゃない。
私は知っている。
歴史は、暗記するだけのものではない。
そこには、人がいる。
怖がりながらも前に進む人がいる。
失敗しながらも変わっていく人がいる。
誰かを見捨てる苦しみを背負って、それでも未来のために決断する人がいる。
教科書の一行の裏には、泣きたくなるほどの命がある。
私は答案用紙をそっと閉じた。
放課後。
教室の窓から見える空は、青かった。
あの日の桶狭間とは違う、穏やかな空。
私は鞄の中から、あの歴史まとめノートを取り出した。
表紙には、少しだけ泥の跡が残っている。
指でそっとなぞると、胸の奥が温かくなった。
「信長さん」
小さく呟く。
「カッコよかったよ」
返事はない。
でも、なぜか聞こえた気がした。
――当然じゃ。
そんな、少し偉そうで、不敵な声が。
私は笑った。
そして、ノートの最後のページに、ゆっくりと書き込んだ。
『桶狭間の戦い。
織田信長は、歴史を変えた。』
シャープペンシルの先が、紙の上で止まる。
私は、その下にもう一行だけ書いた。
『またね、私の大好きな織田信長。』
窓の外で、風が吹いた。
まるで、遠い尾張の空から届いたような、少しだけ懐かしい風だった。
私はノートを閉じ、胸に抱えた。
歴史はもう、ただのテスト範囲ではない。
私が出会った、大切な物語だ。
そして、その物語の中で。
臆病で、情けなくて、でも誰よりもかっこよかった一人の若き武将は、今も私の中で、鮮やかに生き続けている。




