第25話:非情という名の教科書
「……届かぬ」
信長さんの声は、雨雲の下でかすかに震えていた。
「今、砦を助けに行けば、義元には届かぬ。我らは、義元の顔すら見ぬまま潰される」
泥の上に並べた小石。
織田軍。
丸根砦。
鷲津砦。
松平元康の三河勢。
朝比奈勢を中心とする今川方の兵。
そして、その奥に控える今川義元の本隊。
小さな石の並びは、ただの子供の遊びのようにも見える。
けれど、そこに映し出されているのは、織田家の命運そのものだった。
勝家さんも、林さんも、周囲の武将たちも黙っていた。
ほんの少し前まで怒号が渦巻いていた街道に、重たい沈黙が落ちている。
誰もが分かり始めていた。
丸根と鷲津を救いに行くことが、必ずしも織田家を救うことにはならない。
むしろ、その道は、織田軍そのものを今川の腹の中へ投げ込む道かもしれない。
けれど。
分かったからといって、心が納得するわけではなかった。
遠くで、黒い煙が濃くなる。
丸根と鷲津が燃えている。
あの煙の下には、佐久間大学さんがいる。
織田玄蕃さんがいる。
飯尾定宗さんがいる。
名前も知らない兵たちが、火と矢と槍の中で、今も必死に戦っている。
彼らは、援軍が来ると信じているはずだった。
殿は必ず来てくれる。
織田家は自分たちを見捨てない。
そう信じて、燃える柵の向こうで槍を握っている。
その信頼を、裏切るのか。
信長さんの顔は、血の気を失っていた。
「史花」
彼は、かすれた声で私を呼んだ。
「わしは……分かってしまった」
「はい」
「助けに行けば、義元には届かぬ。義元に届かなければ、尾張は滅びる。ならば、義元へ届く道を選ぶしかない」
信長さんは、泥の上の石を見つめたまま、拳を握りしめた。
「だが、その道は……」
そこで言葉が途切れる。
その先を口にすることが、あまりにも重すぎるのだ。
私は、信長さんの隣に膝をついた。
泥が小袖の裾に染み込む。
雨粒が頬に当たり、冷たく滑り落ちていく。
「信長さん」
私は静かに言った。
「言葉にしてください」
信長さんが、ゆっくりと私を見る。
その瞳には、怒りにも似た痛みがあった。
「言葉にせよ、だと」
「はい」
「お前は、わしに何を言わせたい」
私は息を呑んだ。
怖かった。
この問いの先には、人の命がある。
けれど、曖昧なままでは前へ進めない。
信長さんが本当に大将になるためには、自分が何を選ぶのかを、自分の言葉で背負わなければならない。
「丸根と鷲津を、どうするのか」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「佐久間大学さんたちを、どうするのか。信長さん自身の言葉で、言ってください」
勝家さんが、息を呑んだ。
「小娘……!」
その声には怒りがあった。
だが、私は振り向かなかった。
信長さんも、勝家さんを見なかった。
ただ、泥の盤面を見つめていた。
遠くで雷が鳴る。
まだ遠い。
けれど、確実に近づいている。
「……わしは」
信長さんの唇が、かすかに震えた。
「わしは、丸根と鷲津へは行かぬ」
その一言が、雨混じりの空気に落ちた。
誰も動かなかった。
信長さんは、さらに続ける。
「佐久間大学も、織田玄蕃も、飯尾も……助けには行かぬ」
勝家さんの顔が歪んだ。
「殿……!」
「黙れ、権六」
信長さんの声は低かった。
けれど、そこにはまだ苦しみがあった。
完全に割り切った声ではない。
傷口を自分の手で押さえつけながら、無理やり立っている声だった。
「わしが今、助けに向かえば、あ奴らも、我らも、尾張も、すべて死ぬ」
信長さんは、泥の上の織田軍を示す石を指差した。
「この二千は、丸根を救うための兵ではない。鷲津を救うための兵でもない」
彼の指が、奥に置かれた大きな石へ移る。
今川義元。
「義元の首を獲るための兵じゃ」
空気が凍った。
誰かが、呻くような声を漏らした。
「では……本当に、大学殿たちを……」
林さんの声は、震えていた。
信長さんは、しばらく答えなかった。
答えたくなかったのだと思う。
でも、彼は逃げなかった。
「……使う」
その言葉は、あまりにも重かった。
「丸根と鷲津で戦う者たちの命を、わしは使う」
勝家さんの目が大きく見開かれる。
信長さんは、歯を食いしばりながら言った。
「奴らが今川の先鋒を引きつける。松平も朝比奈も、砦を落とすために力を使い果たす。今川の本隊は、先鋒が勝ったと思い、油断する」
彼の声は少しずつ低く、深くなっていく。
「その隙に、わしらは義元の喉元へ届く。届かせる。そうするしかない」
勝家さんが、震える拳を握りしめた。
「殿……それは……」
「非情か」
信長さんが、先に言った。
勝家さんは黙る。
信長さんは、笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、自分自身を斬るような顔で、黒煙の上がる方角を見つめた。
「そうじゃ。非情じゃ。人でなしの決断じゃ」
雨が、少し強くなった。
ぽつぽつと地面を叩く音が、耳に残る。
「だが、ここで情に流れれば、尾張は終わる」
信長さんは続けた。
「味方を助けに行く大将は、優しい大将に見えるだろう。兵も喜ぶ。家臣も納得する。死ぬ時も、皆でよう戦ったと美談になるやもしれぬ」
彼は、泥の盤面を踏みしめた。
「だが、美談では国は残らぬ」
その一言に、私は息を呑んだ。
「皆で立派に死んで、今川に尾張をくれてやるのか。民を踏みにじらせ、村を焼かせ、女子供を泣かせ、それでも『我らは仲間を見捨てなかった』と胸を張るのか」
誰も答えられなかった。
信長さんの声は、もう震えていなかった。
しかし、それは痛みが消えたからではない。
痛みごと、自分の腹の底へ沈め始めたのだ。
「そんなものは、大将の責任ではない」
信長さんは言った。
「上に立つ者の務めは、皆に好かれることではない。目の前の一人を救って、全てを失うことでもない」
彼は、黒煙を睨みつけた。
「たとえ恨まれようと、罵られようと、残すべきものを残す。そのために、誰かの命を使わねばならぬ時がある」
私は、何も言えなかった。
歴史の教科書には、こんなことは書いていない。
「桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を破った」
たったそれだけ。
その一行の中に、丸根と鷲津で死んでいく人たちの叫びは書かれていない。
見捨てる側の痛みも書かれていない。
大将が何を飲み込み、何を捨て、何を背負って前に進んだのか。
そんなものは、試験には出ない。
でも今、私はその場にいる。
非情という名の教科書を、目の前で開かれている。
「佐久間大学」
信長さんが、ぽつりと名を呼んだ。
「織田玄蕃。飯尾定宗」
その声は、祈りに似ていた。
「すまぬ、とは言わぬ」
私は顔を上げた。
信長さんは、煙の向こうを見るように目を細めていた。
「すまぬと言えば、わしは少し楽になる。だが、それでは奴らの死を、わしの罪悪感を薄めるために使うことになる」
彼の拳が震えた。
それでも声は揺れなかった。
「だから、わしは言わぬ」
信長さんは、はっきりと言った。
「お前たちの命を、わしが使う。最後の一滴まで使い切る。その代わり、必ず義元の首を獲る。お前たちの死を、犬死ににはせぬ」
勝家さんが、泥の中で拳を握りしめたまま、うつむいた。
その肩が震えている。
怒りなのか。
悔しさなのか。
それとも、信長さんの言葉に何かを感じ取ったのか。
私には分からなかった。
でも、先ほどまでのような怒号は上がらなかった。
誰も、すぐには反論できなかった。
信長さんは、ゆっくりと私の方を向いた。
「史花」
「はい」
「わしは、鬼になるのだな」
その問いは、ひどく静かだった。
私は、すぐには答えられなかった。
鬼。
魔王。
覇王。
歴史は、後からいくらでも名前をつける。
でも、今ここにいるのは、まだ二十代の青年だ。
怖くて、苦しくて、それでも大将として選ばなければならない人間だ。
私は首を横に振った。
「鬼になるんじゃありません」
信長さんが、眉を動かす。
「逃げずに背負うんです」
「背負う……」
「丸根と鷲津の命を。勝家さんたちからの怒りを。兵たちの不信を。全部、自分の背中に乗せて、それでも義元の首まで進むんです」
私は、泥の盤面に置かれた大きな石を指差した。
「それができる人だけが、大将なんだと思います」
信長さんは、黙って私を見ていた。
そして、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑ったのではない。
泣きそうになったのを、無理やり押し殺したような顔だった。
「厳しいことを言う小娘じゃ」
「知っています」
「未来の女子は、皆そのように容赦がないのか」
「たぶん、私だけです」
そう答えると、信長さんは一瞬だけ、短く息を漏らした。
笑いに似た音だった。
それだけで、少しだけ彼の中に空気が戻った気がした。
だが、次の瞬間には、彼の顔つきが変わっていた。
迷いが消えていく。
恐怖も、罪悪感も、消えたわけではない。
けれど、それらに支配されることをやめた顔だった。
信長さんは、馬へ戻るために一歩踏み出した。
勝家さんが、顔を上げる。
林さんも、兵たちも、一斉に信長さんを見る。
「殿……」
勝家さんの声は、まだ硬かった。
信長さんは彼を見下ろした。
そして、静かに言った。
「戻るぞ」
「戻る……?」
「皆の前へじゃ」
信長さんは、黒煙の上がる方角を一度だけ見た。
その目に、もう揺れはない。
「わしの口で、命じねばならぬ」
私は、その背中を見つめた。
今から彼は、家臣たちに告げるのだ。
丸根と鷲津へ援軍は出さない、と。
味方を助けに行かない、と。
その瞬間、信長さんはきっと、また罵られる。
薄情者。
うつけ。
味方を見殺しにする臆病者。
そう言われるかもしれない。
それでも、彼はもう逃げない。
非情という名の教科書を読み終えた若き大将は、その内容を自分の血で写し取る覚悟を決めたのだ。
私は、泥に濡れた小袖の裾を握りしめながら、信長さんの後を追った。
遠くで、丸根と鷲津の煙がさらに濃くなっていく。
その炎の向こうに、今川義元の首へと続く、たった一本の細い道が見えていた。




