第24話:もしも、ここで助けに行ったら?
「信長さん」
私は、震える若き大将の手を握ったまま、できるだけ静かに呼びかけた。
「ここでは、声が多すぎます」
泥にまみれた街道の真ん中。
燃え上がる丸根と鷲津の黒煙。
救援を求める伝令。
怒りに震える柴田勝家さん。
不安にざわつく兵たち。
そのすべてが、信長さんの心を四方八方から引き裂こうとしていた。
「一度だけ、私と話してください」
「……史花」
信長さんの声は掠れていた。
馬上の彼は、まだ遠くの煙を見つめている。
目は開いているのに、現実を見ていないようだった。
たぶん、頭の中では別の景色が見えている。
丸根へ向かう織田軍。
鷲津へ殺到する兵たち。
松平元康の三河勢。
今川方の朝比奈勢。
ぬかるむ道。
崩れる隊列。
背後から押し寄せる今川本隊。
そして、義元の首に届かないまま、泥の中で潰される自軍。
見えすぎているのだ。
だから、動けない。
「小娘、下がれ!」
柴田勝家さんが怒鳴った。
「今は軍議の最中ぞ! 殿に何を吹き込むつもりじゃ!」
その声に、周囲の武将たちの視線が一斉に私へ突き刺さる。
足がすくみそうになった。
怖い。
戦国武将の怒りは、現代の教室で浴びる叱責とはまるで違う。
一歩間違えれば、本当に斬られる。
けれど、ここで引くわけにはいかなかった。
信長さんがこのまま家臣たちの怒号に呑まれれば、織田軍は丸根と鷲津へ流れる。
そうなれば、義元には届かない。
歴史は折れる。
「お、お待ちくだされ柴田様ァ!」
泥の中に飛び込むように、木下藤吉郎くんが勝家さんの前へ滑り込んだ。
額を泥にこすりつけ、見事な土下座を決める。
「史花様は、殿が信を置かれるお方にございます! 今ここで殿のお心を立て直せるのは、この方しかおりませぬ! どうか、ほんの少しだけ! ほんの少しだけ、お時間をくだされぇ!」
「藤吉郎、貴様まで……!」
勝家さんは怒りに震えたが、すぐには動かなかった。
藤吉郎くんの必死さが、わずかにその足を止めたのだ。
私は、その一瞬を逃さなかった。
「信長さん。馬から下りてください」
「……何を」
「ここで怒鳴り合っても、答えは出ません。あなたの頭の中にあるものを、一つずつ外へ出しましょう」
信長さんは、しばらく私を見つめていた。
その瞳は揺れている。
怒りではない。
屈辱でもない。
助けを求めるような、けれど助けを求めることすら恥じているような、複雑な揺れだった。
「……わしは」
信長さんは、かすれた声で呟いた。
「どうすればよいのか、分からぬ」
その一言に、私は胸を締めつけられた。
ついさっきまで、神の前で刀を掲げ、兵たちを熱狂させた男。
歴史に名を残すはずの覇王。
その人が今、馬上で小さく震えながら、道を見失っている。
「助けに行けば、囲まれる」
信長さんは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「助けに行かねば、大学たちが死ぬ」
手綱を握る指が震えた。
「どちらを向いても、死しか見えぬ」
雨が、彼の頬を伝った。
それが雨水なのか、涙なのか、私には分からなかった。
「信長さん」
私は、もう一度だけ強く呼んだ。
「下りてください」
信長さんは、ゆっくりと馬から下りた。
足が地面に着いた瞬間、彼の膝がわずかに揺れる。
それを見て、周囲から小さなどよめきが起きた。
「殿が……」
「やはり、怯えておられるのか」
その囁きに、信長さんの肩がまた強張る。
私は彼の手を引き、街道脇の大きな榎の下へ向かった。
完全に軍議の場から離れることはできない。
けれど、怒号の中心から数歩離れるだけで、少しだけ空気が変わった。
雨粒が葉に当たり、ぱたぱたと音を立てて落ちる。
足元の泥は柔らかく、私のわらじを重く沈ませた。
「まず、息を吐いてください」
「……今、そのような」
「吐いて」
私は強く言った。
信長さんは、悔しそうに唇を噛んだ。
それでも、ゆっくりと息を吐いた。
「もう一度」
「……ふぅ……」
「もう一度」
三度目で、信長さんの呼吸が少しだけ整った。
目の焦点も戻ってくる。
さっきまで遠くの黒煙に囚われていた目が、ようやく私を見た。
「史花」
「はい」
「わしは、怖い」
その告白は、とても小さかった。
だが、確かに聞こえた。
「四万が怖い。包まれて潰される未来が怖い。だが、それよりも……」
信長さんは、奥歯を噛んだ。
「わしを信じて砦にいる者たちを、助けられぬことが怖い」
私は何も言わなかった。
「勝家らの目が痛い。兵たちの声が痛い。あ奴らの言うことは、間違っておらぬ。わしが逆の立場なら、きっと同じことを言う。味方を救えと叫ぶ」
「はい」
「なのに、わしは……」
信長さんの拳が震えた。
「救えば負けると、分かってしまっている」
それが、彼を縛っているものの正体だった。
恐怖。
情。
計算。
罪悪感。
そのすべてが一つに絡まり、彼の足を泥の中へ縫い止めていた。
私は、腰の風呂敷からまとめノートを取り出しかけて、すぐにやめた。
今は紙よりも、この泥の上の方がいい。
私は足元の泥に、落ちていた枝で大きな線を引いた。
「ここが熱田社から南へ向かう道」
信長さんは無言で見下ろす。
私は小石を拾い、泥の上に置いた。
「これが、私たち織田軍」
次に、少し離れた場所に二つの小石を置く。
「こっちが丸根砦。こっちが鷲津砦」
さらに、その周りにいくつもの小石をばらまいた。
「丸根を攻めている松平元康さんの軍勢。鷲津を攻めている朝比奈勢を中心とした今川方の兵」
最後に、後ろの方へ大きめの石を置いた。
「そして、その奥から来る今川義元の本隊」
信長さんの目が、泥の上の小さな盤面に吸い寄せられていく。
さっきまでぐちゃぐちゃに絡まっていた感情が、少しずつ形を持ち始めているのが分かった。
彼の呼吸が、もう一段落ち着く。
震えていた手が、まだ完全ではないが、さっきよりも静かになっている。
「信長さん」
私は、真っ直ぐに問いかけた。
「もしも、ここで助けに行ったら?」
信長さんの眉が、ぴくりと動いた。
「……もしも?」
「はい。勝家さんたちの言う通りに、今すぐ丸根と鷲津へ向かうんです。味方を救うために、正面から堂々と」
私は、織田軍を示す石を、丸根と鷲津の方へ動かした。
「さあ、頭の中で戦場を動かしてみてください」
信長さんは、泥の盤面をじっと見つめた。
その顔から、少しずつ怯えの色が薄れていく。
代わりに、苦しいほどの集中が浮かび始めた。
彼はまだ怯えている。
けれど、恐怖に丸呑みにされてはいない。
怖がりながら、考え始めた。
「……まず、我らは南東へ進路を変える」
信長さんが、低く呟いた。
「丸根と鷲津へ向かうには、大高城の周辺へ近づかねばならぬ。そこは今川方の先鋒が押さえておる」
「はい」
「我らが急行すれば、最初の一撃は入るかもしれん。松平や朝比奈の背後を突き、砦の兵と挟み撃ちにできる可能性はある」
勝家さんたちの顔に、わずかに希望が浮かぶ。
「ならば、やはり救援を……!」
だが、信長さんは首を横に振った。
「しかし、それは最初だけじゃ」
その声は、だんだんと硬くなっていく。
「丸根と鷲津の周辺は狭い。砦の柵、堀、土塁、焼けた木材、倒れた兵。雨で泥も深い。そこへ我ら二千がなだれ込めば、動きはすぐに鈍る」
信長さんは枝を取り、泥の上に入り組んだ線を引いた。
「松平勢も朝比奈勢も、簡単には退かぬ。砦を落とすために必死になっている連中じゃ。そこへ我らが突っ込めば、戦は一気に乱戦になる」
「乱戦……」
私は小さく繰り返した。
信長さんは頷いた。
「乱戦になれば、時間を食う。こちらは少数。敵を押し返すには、一刻、二刻とかかるやもしれぬ」
彼の指が、泥の盤面の奥にある大きな石へ向かった。
今川義元の本隊。
「その間に、義元の本隊が来る」
空気が、少しだけ冷えた。
勝家さんたちも黙る。
信長さんの声は、もう先ほどのように裏返っていなかった。
しかし、その言葉の中身はあまりにも重かった。
「前には松平と朝比奈。横には大高城。後ろからは義元の本隊。雨で道は悪く、兵は疲れ、隊列は乱れる。我らは砦を救いに来たつもりで、逆に敵の腹の中へ入り込むことになる」
彼は、織田軍を示す石を、今川の石で囲んだ。
「包まれる」
誰も息をしなかった。
「包まれれば終わりじゃ。我ら二千は、義元の首を見ることすらできぬ。丸根も鷲津も救えず、織田の主力だけが消える」
「しかし……!」
勝家さんが苦しげに声を上げる。
「それでも、今動けば大学殿たちを救える可能性は……!」
「救えるかもしれぬ」
信長さんは、勝家さんを見た。
その目には、苦しみがあった。
「だが、その可能性に賭ければ、尾張そのものを失う可能性が跳ね上がる」
勝家さんが、言葉を失う。
「大学たちを助けに行くということは、義元の首を諦めるということじゃ。義元の首を諦めれば、この戦に勝つ道はない」
私は、胸が締め付けられるのを感じた。
それは、たぶん信長さんにとっても、言いたくなかった言葉だった。
けれど、彼は自分の口で言った。
自分の頭で、盤面を動かした。
そして、救援に向かった先にある未来を、自分で見た。
「信長さん」
私は、もう一つだけ問いを投げた。
「今、丸根と鷲津を助けに行った場合、私たちの刃は、今川義元の首まで届きますか?」
沈黙。
信長さんは、泥の上の石を見つめた。
織田軍。
燃える砦。
松平元康。
朝比奈勢。
大高城。
そして、その奥にいる今川義元。
どれだけ考えても、道はない。
正面から向かえば、先鋒で止まる。
乱戦で絡め取られる。
本隊に包まれる。
義元の首には届かない。
信長さんの喉が、ごくりと鳴った。
「……届かぬ」
絞り出すような声だった。
けれど、その声はもう、ただ怯えるだけの声ではなかった。
「今、砦を助けに行けば、義元には届かぬ。我らは、義元の顔すら見ぬまま潰される」
勝家さんが、苦しげに目を見開いた。
林さんも、青ざめた顔で泥の盤面を見つめている。
彼らにも、少しずつ見え始めていた。
感情ではなく、盤面として。
救援に向かうことが、必ずしも救いではないことを。
「ならば……」
信長さんの声が震えた。
「ならば、わしは……」
そこから先の言葉は出なかった。
出せるはずがなかった。
丸根と鷲津を助けに行けない。
そう分かった。
だが、それはつまり、今も燃える砦で戦っている佐久間大学たちをどうするのか、という問題に直結する。
見捨てるのか。
死なせるのか。
彼らの犠牲を前提に、義元の首だけを狙うのか。
そのあまりにも苦い結論が、信長さんの胸の前に黒々と立ちはだかっていた。
「史花……」
信長さんが、かすれた声で私を呼んだ。
その目には、また涙に近いものが滲んでいた。
「わしは、分かってしまった」
私は黙って頷いた。
「分かってしまったぞ」
信長さんは、拳を握りしめた。
「助けに行けば、届かぬ。届かねば、尾張は滅びる。ならば、義元の首へ届く道を選ぶしかない」
彼の声は、低く、痛々しかった。
けれど、そこには少しだけ芯が戻っていた。
震えはまだある。
恐怖も消えていない。
でも、信長さんはもう、恐怖の中で丸まっているだけではなかった。
怖がりながら、考えている。
苦しみながら、盤面を見ている。
それは、取り戻しかけている証だった。
「だが、その道は……」
言葉が途切れる。
遠くで、黒煙がさらに濃くなった。
丸根と鷲津が燃えている。
今この瞬間も、誰かが叫び、誰かが槍を振るい、誰かが援軍を信じている。
信長さんは、その方角へ目を向けた。
そして、何も言えなくなった。
私は、彼の手を握ったまま、静かに見守った。
ここから先は、私が答えを押しつける場面ではない。
信長さん自身が、受け止めなければならない。
義元へ届くためには、何を切り捨てなければならないのか。
上に立つ者が、どれほど憎まれても背負わなければならないものは何か。
その答えは、もう彼の目の前にある。
けれど、それを言葉にするには、まだ一つ、心の壁を越えなければならなかった。
勝家さんたちも、兵たちも、黙っていた。
怒号は消えている。
かわりに、重すぎる沈黙が街道を覆っていた。
信長さんは、泥の上の小石を見つめている。
織田軍を示す小さな石。
その先にある、燃える二つの砦。
さらに奥にいる、今川義元。
雨雲の下で、若き大将はようやく理解した。
味方を救う道と、尾張を救う道が、同じではないことを。
そして、その残酷な分かれ道の前に、彼は立たされていた。
次に彼が出す答えが、織田信長という男を本当の意味で変える。
私は、その瞬間を待ちながら、震える彼の手を離さなかった。




