第23話:荒れる軍議、揺れるビビリ
「殿!!」
柴田勝家の叫びが、湿った街道に響き渡った。
熱田社を出た織田軍は、善照寺砦の方角へ向かって進んでいた。
だが、その足は止まっている。
いや、止めざるを得なかった。
丸根砦と鷲津砦が、今川軍の猛攻を受けている。
その急報が、織田軍の真ん中に火のついた松明のように投げ込まれたからだ。
遠くの空には、黒い煙が二筋、雨雲の下を這うように立ち上っている。
一つは丸根。
もう一つは鷲津。
味方の砦が燃えている。
その事実だけで、織田軍の空気は一気に崩れかけていた。
「お聞きの通りにございます!」
勝家さんは、馬上の信長さんに向かって泥の中へ膝をついた。
雨で濡れた甲冑から、水滴がぽたぽたと落ちる。
彼の顔は怒りと焦りで真っ赤になっていた。
「丸根には松平元康の軍勢が押し寄せ、鷲津には今川方の朝比奈勢が迫っております! 佐久間大学殿も、織田玄蕃殿も、飯尾殿も、殿の後詰を信じて戦っているのです!」
勝家さんは、拳を泥の中に叩きつけた。
「今ならまだ間に合うやもしれませぬ! どうか、某に兵をお預けくだされ! ただちに砦へ向かい、今川の先鋒を蹴散らしてご覧に入れまする!」
「柴田殿の申す通りにございます」
林秀貞さんも、青ざめた顔で声を上げた。
「丸根と鷲津は、我らが大高城を押さえるための要。そこを失えば、大高の敵は自由に動きます。ここで見捨てれば、兵たちの心も離れましょう」
周囲の武将たちも次々に声を上げる。
「救援を!」
「殿、御下知を!」
「味方を見捨ててはなりませぬ!」
その声は、どれも間違っていなかった。
むしろ、武士としては当然の叫びだった。
仲間が燃える砦の中で戦っている。
援軍を信じて、槍を握っている。
それを知っていながら助けに行かないなど、普通なら薄情にもほどがある。
兵たちの間にも、ざわめきが広がっていた。
「丸根の佐久間様は、まだ戦っておられるんだろう?」
「なら、助けに行くべきじゃないのか」
「熱田の神様が味方してくれたんだ。今なら救えるかもしれねえ」
熱田社でつながったはずの心が、また揺れ始めている。
恐怖だけではない。
怒り。
焦り。
仲間を見捨てたくないという、人間として当たり前の感情。
それらが混ざり合い、織田軍全体を激しく揺さぶっていた。
私は、雨に濡れた髪を頬に張り付かせたまま、信長さんを見上げた。
馬上の信長さんは、何も言わない。
ただ遠くの煙を見つめている。
だが、その横顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
顔色が、真っ白だった。
唇から血の気が引き、手綱を握る指は白く強張っている。
それだけではない。
手が震えていた。
ほんの少しではない。
馬の首に伝わるほど、細かく、何度も。
「信長さん……?」
小さく呼んでも、彼は反応しなかった。
目だけが、遠くの黒煙に釘付けになっている。
あの人の中では、もう別の景色が始まっているのだ。
丸根へ向かう織田軍。
鷲津へ殺到する兵たち。
燃える柵。
倒れる味方。
そこで松平元康や朝比奈勢とぶつかり、泥の中で隊列を崩す二千の兵。
さらに、その後ろから押し寄せる今川義元の本隊。
逃げ場をなくし、四方から包まれ、槍に串刺しにされていく味方。
そして、自分自身も馬から引きずり落とされる。
首を取られ、槍先に掲げられる。
そこまで、見えてしまっているのだと思った。
信長さんは、怖がっている。
でも、それはただの臆病ではない。
最悪の未来が、人よりはるかに鮮明に見えすぎてしまう恐怖だった。
「殿!」
勝家さんが、さらに身を乗り出した。
「何故、黙っておられるのです! まさか、本当に丸根と鷲津を見捨てるおつもりではありますまいな!」
その言葉が、周囲の空気をさらに尖らせた。
見捨てる。
誰もが避けていた言葉を、勝家さんが口にしてしまった。
兵たちの視線が、一斉に信長さんへ向かう。
信長さんの肩が、びくりと跳ねた。
「……見捨てる、だと」
掠れた声だった。
まるで、自分の喉ではない場所から絞り出したような声だった。
「殿?」
勝家さんが眉をひそめる。
信長さんは、まだ煙を見ていた。
「佐久間大学も、織田玄蕃も、飯尾も……わしを信じて砦におる」
その声は、かすかに揺れていた。
「わしが動けば、助けられるかもしれぬ。今すぐ兵を向ければ、少なくとも見捨てたとは言われぬ」
「ならば!」
勝家さんが叫ぶ。
「ならば、今すぐ後詰を!」
「だが……」
信長さんの声が、そこで詰まった。
喉が動いていない。
唇だけが小さく震えていた。
「だが、砦へ向かえば……」
彼はそこで言葉を切った。
その先を言えば、すべてを話すことになる。
丸根と鷲津を助けに行けば、義元には届かない。
だから、今は救援に向かえない。
そう言った瞬間、家臣たちは納得するどころか、さらに激しく反発するだろう。
「味方を見捨てて、義元だけを狙うなど卑怯だ」
「兵を分ければよい」
「まず砦を救ってから考えればよい」
そう言うに決まっている。
けれど、兵を分けた時点で終わる。
だから信長さんは言えない。
言えないまま、全員の視線と怒りを浴び続けるしかない。
「殿、何を迷っておられる!」
林さんが声を荒らげた。
「今この時に迷う大将に、どうして兵がついていけましょう! 御下知を! 救援か、待機か、はっきりお示しくだされ!」
「待機などあり得ぬ!」
勝家さんが立ち上がる。
「丸根と鷲津が燃えておるのですぞ! 目の前で味方が殺されようとしているのですぞ! ここで動かぬなら、我らは何のために武士であるのか!」
その声に、周囲の武将たちが「そうだ」と唸る。
「救援を!」
「砦へ!」
「味方を救え!」
もはや臨時の軍議は、軍議ではなくなっていた。
泥の街道で、怒号だけが渦巻いている。
誰もが信長さんに決断を迫っていた。
信長さんは、答えない。
いや、答えられない。
「……四万」
ぽつりと、信長さんが呟いた。
その声は、雨音に紛れそうなほど小さかった。
「二万とも、四万とも噂される今川の大軍……。あれが、背後から来る」
「殿?」
勝家さんが怪訝そうに顔を上げる。
信長さんの呼吸が、少し荒くなっていた。
「丸根へ行けば、松平とぶつかる。鷲津へ行けば、朝比奈とぶつかる。砦の周りは狭い。雨で足場も悪い。乱戦になれば、すぐには抜けられぬ」
信長さんの目が、どこか遠くを見ていた。
彼の頭の中で、戦場の絵が動いているのだ。
燃える砦。
救援に向かう織田軍。
迎え撃つ今川の先鋒。
泥に足を取られる兵。
横から伸びてくる敵。
後方から迫る義元の本隊。
織田軍が包まれ、潰される未来。
それがあまりにも鮮明に見えているから、信長さんの顔色は青を通り越して土気色になっていく。
「囲まれる……」
信長さんが、喉の奥から絞り出すように言った。
「砦を助けに行けば、わしらは囲まれる。義元の首には届かぬ。届く前に、潰される……」
そこで、信長さんの声がひっくり返った。
「肉の塊にされる。槍で突かれ、馬に踏まれ、泥の中で、わしも、お前たちも、皆……皆、潰される……!」
兵たちがざわめいた。
勝家さんの顔が、怒りから困惑へ、そして失望へと変わっていく。
「殿……」
「いやじゃ……」
信長さんの口から、あまりにも小さな声が漏れた。
誰にも聞かせるつもりのない、本音だった。
でも、近くにいた私には聞こえてしまった。
「いやじゃ。そんな死に方は……嫌じゃ……」
馬上の信長さんの背中が、ぐっと丸くなった。
さっきまで熱田社で刀を掲げ、神をも利用するような覇気を見せていた人と同じには見えない。
彼は今、完全に恐怖に掴まれていた。
頭が良すぎるから。
想像力がありすぎるから。
勝ち筋が細すぎることを、誰よりも理解しているから。
ほんの少しでも手を間違えれば、全員死ぬ。
その現実に、体が先に悲鳴を上げているのだ。
「まさか、恐れておられるのですか」
勝家さんの声が低くなった。
信長さんの肩が、びくりと跳ねた。
「佐久間殿らが炎の中で戦っているというのに、殿は敵に囲まれるのが怖くて、動けぬと仰るのですか」
「違……」
信長さんは言いかけた。
けれど、言葉が続かない。
違う。
ただ怖がっているだけではない。
そう言いたいのに、喉が動かない。
恐怖もある。
罪悪感もある。
計算もある。
正しさもある。
全部が胸の中で絡まり合って、言葉にならない。
信長さんの手が、さらに震えた。
手綱がかすかに鳴る。
馬が不安げに首を振った。
それを見て、兵たちのざわめきが強まる。
「殿が……怯えている」
「やはり、うつけなのか」
「熱田の吉兆は何だったんだ……」
「神様が味方しても、大将がこれでは……」
空気が悪い方へ傾いていく。
このままではまずい。
信長さんがここで折れれば、織田軍は本当に崩れる。
勝家さんが独断で兵を動かせば、作戦は終わる。
林さんたちが信長さんを見限れば、軍は内側から壊れる。
丸根と鷲津の炎より先に、織田軍の心が燃え落ちてしまう。
「殿!」
勝家さんが、ついに泥の中から立ち上がった。
「この勝家、殿のご下知を待てませぬ! 殿が動かぬなら、某が独断で丸根へ向かいまする!」
周囲がどよめいた。
「柴田殿!」
林さんが止めようとする。
だが、勝家さんは止まらない。
「後で軍律違反として腹を切れと仰るなら、喜んで切りましょう! しかし、味方を見殺しにしたまま、この場で震えていることだけは、この勝家にはできませぬ!」
その言葉が、信長さんの胸を鋭く刺したのが分かった。
信長さんの顔が、苦痛に歪む。
「……震えてなど」
小さな声だった。
「震えてなど、おらぬ……」
けれど、その手は震えていた。
誰の目にも分かるほどに。
「史花様……」
藤吉郎くんが、私の袖を引いた。
その声も震えている。
「殿、また折れかけてるだわ……。いや、折れかけてるっていうか……もう半分折れてるぎゃ……」
「うん」
私は唇を噛んだ。
これは、敵の数に怯えているだけじゃない。
味方を助けたい気持ちと、助けに行けば全体が死ぬという計算。
その二つが、信長さんの中でぶつかっている。
だから、彼は動けない。
ビビリだからではない。
優柔不断だからでもない。
見えてしまっているのだ。
どちらを選んでも血が流れる未来が。
でも、周囲からはそう見えない。
ただ怯えているように見える。
ただ逃げ腰の大将に見える。
このままでは、信長さん自身の中にある正しい判断まで、恐怖に飲まれて消えてしまう。
私は一歩、前へ出た。
「史花様?」
藤吉郎くんが驚いたように私を見た。
私は答えなかった。
泥の中を進む。
雨粒が頬に当たる。
周囲の武将たちの視線が、一斉に私へ集まった。
「何だ、あの娘は」
「殿のそばにいた妙な女……」
「このような時に、何を……」
ざわめきが広がる。
勝家さんが、私に気づいて目を吊り上げた。
「おい、小娘! 今は軍議の最中ぞ! 下がっておれ!」
その怒声に、足がすくみそうになる。
でも、下がれなかった。
今、信長さんに必要なのは、怒号ではない。
責める言葉でもない。
彼自身が、もう一度、自分の頭で整理する時間だ。
私は馬上の信長さんを見上げた。
彼は青ざめた顔で、まだ煙を見つめている。
焦点が合っていない。
完全に、恐怖と罪悪感の中に沈みかけている。
「信長さん」
私が呼ぶと、彼の目がわずかにこちらへ動いた。
「少し、こちらへ」
「……史花」
掠れた声だった。
「わしは……わしは、どうすればよい。助ければ死ぬ。助けねば、あ奴らが死ぬ。どちらを選んでも、誰かが死ぬ……」
胸が痛くなった。
ビビリで、情けなくて、今にも泣き出しそうな声。
だけど、だからこそ人間だった。
歴史の教科書に載っている冷たい名前ではなく、今、目の前で迷っている一人の若者だった。
勝家さんが怒鳴る。
「無礼者! 殿に何をする気じゃ!」
私は振り返らなかった。
ただ、信長さんの馬のそばへ歩み寄り、その手綱を握る手にそっと触れた。
氷のように冷たい。
それでも、私はその手を包み込むように握った。
「信長さん。ここでは、声が多すぎます」
私は静かに言った。
「一度だけ、私と話してください」
信長さんは、私を見た。
その瞳の奥で、かすかに理性の光が揺れた。
「……わしは」
「分かっています」
私は小さく頷いた。
「だからこそ、今、整理しましょう」
勝家さんが一歩踏み出す。
「小娘、下がれと言っておる!」
その瞬間、藤吉郎くんが飛び出してきた。
「お、お待ちくだされ柴田様ァ!」
彼は泥の中へ勢いよく滑り込み、勝家さんの足元で見事な土下座を決めた。
「史花様は、殿が信を置かれるお方! 今ここで殿のお心を立て直せるのは、この方しかおりませぬ! どうか、ほんの少しだけ! ほんの少しだけ、お時間をくだされぇ!」
「藤吉郎……!」
勝家さんは怒りに震えたが、すぐには動かなかった。
その隙に、私は信長さんの手を引いた。
「信長さん」
私は、できるだけ穏やかに、けれど強く言った。
「ここで答えを出す前に、一つだけ考えましょう」
信長さんの喉が、ごくりと鳴った。
私は彼の目を見つめた。
次に必要なのは、正解を押しつけることではない。
彼自身に、もう一度、盤面を見てもらうことだ。
もしも、ここで助けに行ったら。
その問いが、信長さんをもう一度立ち上がらせる鍵になる。
燃え上がる丸根と鷲津の煙の下で、荒れ狂う軍議は、今にも織田軍を引き裂こうとしていた。
そして私は、震える若き大将の手を握ったまま、その崩壊寸前の中心に立っていた。




