第22話:丸根・鷲津、炎上す
熱田社を出た織田軍は、南へ向かって動き始めた。
ぽつぽつと落ちていた雨は、まだ本降りにはなっていない。
けれど、空は低く、黒く、重かった。
湿った風が木々の枝をざわざわと揺らし、遠くの空では、かすかに雷鳴のような音が響いている。
信長さんが読んだ大雨は、まだ空の奥に潜んでいる。
その牙を剥く瞬間を待っているようだった。
熱田社の吉兆によって、織田軍の士気は一度、確かに持ち直した。
「神は我らと共にある」
その思いが、兵たちの足を前へ押していた。
だが、現実は変わらない。
今川の大軍は尾張へ迫っている。
丸根砦と鷲津砦は、敵の最前線と向き合っている。
そして、私たちが南へ進めば進むほど、その戦場の匂いが近づいてくる。
「史花様……」
隣を走る木下藤吉郎くんが、息を切らしながら私に小声で言った。
「なんか、空気が嫌な感じだわ」
「うん」
私は前方を見つめたまま頷いた。
雨の匂いだけではない。
焦げたような匂い。
湿った風の中に、かすかに煙の臭いが混じっている。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
丸根砦。
鷲津砦。
それは、大高城を押さえるために織田方が築いた、最前線の砦だった。
大高城には、今川方の兵が入っている。
その大高城を自由に動かさないため、織田方は周囲に砦を築き、睨みを利かせていた。
丸根と鷲津は、その中でも特に危険な場所にあった。
敵に一番近い。
最初に狙われる。
つまり、桶狭間の戦いの前に、まず血を流すことになる場所だった。
歴史の教科書では、ほんの数文字で終わる。
丸根砦、鷲津砦、陥落。
佐久間大学、討死。
でも、その文字の向こう側には、生きている人間がいる。
恐怖をこらえて槍を握り、味方の援軍を信じて夜を明かす兵たちがいる。
私は、そのことをもう知ってしまっていた。
「煙……」
誰かが呟いた。
織田軍の先頭付近で、ざわめきが広がる。
私も顔を上げた。
雨雲に覆われた南東の空。
低い丘の向こうに、黒い煙が一本、ゆらゆらと立ち上っていた。
そして、もう一本。
別の方角からも、煙が上がっている。
「二つ……」
藤吉郎くんの声が震えた。
「まさか、あれ……」
その時だった。
「注進! 注進申し上げます!!」
前方の街道から、泥まみれの武士が転がるように駆け込んできた。
兜はなく、髪は雨と汗と泥で顔に張りついている。
鎧の袖は裂け、肩口には矢がかすめたような血の跡があった。
彼は馬から落ちるように地面へ膝をつき、両手をついて叫んだ。
「丸根砦、鷲津砦、両砦に今川勢が猛攻を開始いたしました!!」
空気が凍った。
先ほどまで熱田の吉兆に沸いていた兵たちの顔から、一瞬で血の気が引く。
柴田勝家さんが、すぐさま前へ出た。
「詳しく申せ! 敵はどこの軍勢じゃ!」
伝令は肩で息をしながら、必死に声を絞り出す。
「丸根砦には、三河の松平元康勢が押し寄せております! 夜明けと共に動き出し、雨混じりの暗がりを突いて、砦の柵へ火をかけ、槍衾を押し立てて攻め寄せてまいりました!」
「松平元康……!」
その名前を聞いた瞬間、私の胸が強く締め付けられた。
あの人だ。
大高城近くの森で、胃を押さえながら泣いていた若い武将。
戦などしたくない。
三河に帰って大根を育てたい。
そう言って、雨の中で子供のように泣いていた、松平元康。
その人が今、織田方の砦に火をかけている。
今川の命令を受け、三河の家臣たちの期待を背負い、自分の本音を押し殺して、丸根砦を攻めている。
「……元康さん」
思わず漏れた私の声は、雨混じりの風に消えた。
戦国時代では、優しいだけでは生きられない。
泣いていても、胃が痛くても、命じられれば人を殺す。
それが、この時代の現実なのだ。
伝令は続けた。
「丸根砦の守将、佐久間大学様は、わずかな兵で必死に防戦中! 柵を破られてもなお、大身の槍を振るい、敵を何人も突き伏せておられます! されど、敵の勢いは凄まじく、砦内には火が回り始めております!」
勝家さんの顔が歪んだ。
「大学殿……!」
伝令は、さらに別の煙の方角を指した。
「鷲津砦にも、朝比奈勢を中心とする今川方の軍勢が押し寄せております! 織田玄蕃様、飯尾定宗様らが決死の防戦を続けておりますが、敵は多勢! 火矢が雨のように降り注ぎ、すでに物見櫓の一つが焼け落ちました!」
周囲の武将たちが、どよめいた。
「鷲津もか……!」
「二つの砦を同時に攻めてきたのか!」
「大高城を開くつもりだ。今川は本気で尾張を食い破る気だぞ!」
ざわめきは、あっという間に恐怖へ変わっていく。
熱田社で高まった士気が、現実の火と血の匂いを前に、再び揺らぎ始めていた。
伝令は、地面に額を擦りつけるようにして叫んだ。
「お願いにございます! 後詰を! 一刻も早く、丸根と鷲津へ後詰をお出しくだされ! 佐久間大学様は、最後まで殿の援軍を信じて戦うと仰せでした! 織田玄蕃様も、飯尾様も、まだ戦っておられます! 今なら、まだ……!」
その声は、途中で震えて崩れた。
「今なら、まだ間に合いまする……!」
誰もが言葉を失った。
濡れた土の上に、伝令の涙が落ちる。
それは雨に紛れて、すぐに分からなくなった。
「殿!!」
柴田勝家さんが、ついに爆発したように叫んだ。
彼は馬上の信長さんへ向かって、泥の中に膝をついた。
「お聞きの通りにございます! 丸根も鷲津も、今この瞬間に燃えております! 佐久間大学殿も、織田玄蕃殿も、飯尾殿も、殿の後詰を信じて命を張っているのです!」
勝家さんの声は、怒りと悲しみで震えていた。
「どうか、某に兵をお預けくだされ! すぐに救援へ向かいまする! 今ならまだ、砦を救えるやもしれませぬ!」
林秀貞さんも、青ざめた顔で頷いた。
「柴田殿の申す通りにございます。丸根と鷲津が落ちれば、大高城への道が開け、今川の先鋒は勢いづきます。ここで見捨てれば、我が方の士気は地に落ちましょう」
他の武将たちも、次々と声を上げた。
「救援を!」
「砦を見捨ててはなりませぬ!」
「味方を救えぬ大将に、兵はついてきませぬぞ!」
熱田社でまとまりかけた織田軍の心が、再び激しく揺れていた。
無理もない。
目の前で味方の砦が燃えている。
知った顔の武将たちが、援軍を信じて戦っている。
それを助けに行きたいと思うのは、当然だった。
私だって、胸の奥では叫びたかった。
助けに行って。
まだ生きているなら、助けてあげて。
でも、私の頭は、別の答えを知っていた。
ここで兵を割けば、終わる。
丸根と鷲津の周辺で今川の先鋒に絡め取られ、その間に義元の本隊が迫れば、織田軍は義元の首に届く前に潰される。
この二千は、砦を救うための兵ではない。
義元の首を取りに行くための、たった一つの刃なのだ。
その刃を、途中で折るわけにはいかない。
けれど。
そんな理屈で、燃えている砦を見捨てられるのか。
私は信長さんを見上げた。
馬上の信長さんは、黒い煙の方角をじっと見つめていた。
表情は動かない。
けれど、手綱を握る指が、白くなるほど強く締められている。
「殿!」
勝家さんが、さらに声を張り上げた。
「ご決断を! 今すぐ救援のご下知を!」
信長さんは答えなかった。
ただ、煙を見つめている。
その横顔は、石のように固まっていた。
いや、違う。
固まっているのではない。
耐えているのだ。
佐久間大学たちの顔が、きっと彼の脳裏に浮かんでいる。
織田玄蕃や飯尾定宗らの命が、彼の胸に突き刺さっている。
助けたい。
助けに行けば、家臣たちは救われるかもしれない。
少なくとも、勝家たちは納得する。
でも、行けば、全体が死ぬ。
信長さんの中で、情と計算が激しくぶつかり合っているのが分かった。
「……殿?」
林さんが、不安そうに声をかける。
信長さんの肩が、ほんのわずかに震えた。
その震えを見て、私の背筋が冷たくなる。
まずい。
まただ。
敵の数に怯えた時とは違う。
今度は、味方を見捨てるかもしれないという苦しさが、信長さんの心を締め上げている。
藤吉郎くんが、私の袖をぎゅっと掴んだ。
「史花様……殿、また……」
「うん」
私は小さく頷いた。
信長さんの唇が、かすかに動いた。
だが、声は出ない。
勝家さんたちの視線が、いよいよ鋭くなる。
総大将がここで黙れば、家臣たちはさらに不安になる。
だが、何かを命じれば、作戦の全てが崩れるかもしれない。
その板挟みの中で、信長さんは動けなくなりつつあった。
遠くで、また黒い煙が濃くなる。
雨雲の下、丸根と鷲津が燃えている。
歴史の一行が、今まさに、血と炎をまとって現実になろうとしていた。
「殿!!」
勝家さんの叫びが、湿った空気を裂いた。
「どうなされるのですか!!」
織田軍の全員が、信長さんの答えを待っていた。
援軍か。
待機か。
救うのか。
見捨てるのか。
その決断が、織田家の命運を左右する。
信長さんは、まだ答えない。
ただ、白くなるほど手綱を握りしめ、燃える砦の煙を見つめていた。
その横顔は、誰よりも苦しげだった。
私は、息を呑んだ。
次に必要なのは、作戦ではない。
心だ。
この人が、自分の中の恐怖と情に呑まれず、もう一度立ち上がれるかどうか。
それが、織田家の未来を決める。
熱田社の吉兆でつながった兵たちの心は、今、丸根と鷲津の炎によって再び試されようとしていた。




