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歴史テスト前夜に寝落ちしたら、ポンコツ偉人たちのコンサルタントになっていました 〜JK歴女が偉人たちに歴史的決断をさせるまで〜  作者: 牧野ハル


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第21話:熱田社の吉兆

清洲城を飛び出した私たちを待ち受けていたのは、重く湿った夜明け前の空気だった。


空は墨を流したように暗く、厚い雲が尾張の上に低く垂れ込めている。


雨はまだ本降りではない。


けれど、ぽつり、ぽつりと落ちてくる冷たい雫が、これから空が荒れることをはっきりと告げていた。


「はぁっ……はぁっ……!」


私は風呂敷を固く握りしめ、荒い息を吐きながら、ただひたすら前を走る兵たちの背中を追った。


隣を走る木下藤吉郎くんも、ゼーゼーと息を荒げながら、泥を蹴り上げている。


清洲城から、尾張の南部に位置する熱田社までは、およそ三里。


現代の舗装された道ならともかく、戦国時代の土の道をわらじで走るのは、想像以上にきつい。


しかも、信長さんは「遅れる者は置いていく」と言い放ち、わずかな供回りだけで先に飛び出してしまった。


その背中に引きずられるようにして、清洲城の兵たちは、隊列も陣形もほとんど整わないまま、ばらばらに南へ向かって走り続けている。


「見えた……! 熱田の森だわ!」


藤吉郎くんが、雨雲の下に黒々と広がる木々を指差した。


熱田社。


三種の神器の一つである草薙剣を祀る、尾張でも特別な社だ。


武士にとって、神仏の加護はただの気休めではない。


戦場に向かう者の心を支え、恐怖に押し潰されそうな兵たちを前へ進ませる、大きな力になる。


その熱田社が今、織田軍の集結地になろうとしていた。


私たちが鬱蒼とした木立に囲まれた境内へ飛び込むと、そこにはすでに、息も絶え絶えになって到着した織田の将兵たちが集まり始めていた。


誰もが泥まみれで、肩で激しく息をしている。


後から到着した柴田勝家さんや林秀貞さんたちも、兜に水滴を光らせながら、兵たちをまとめようと声を張り上げていた。


しかし、境内の空気は決して明るくなかった。


清洲城での敦盛の舞。


突然の出陣。


信長さんの異様な勢い。


それらに押されて、兵たちはここまで走ってきた。


けれど、いざ足を止めると、冷たい現実が戻ってくる。


「……なあ、俺たち、本当にこのまま今川に向かうのか?」


「丸根と鷲津はどうなるんだ。あそこが破られたら、大高の敵が一気に動くぞ」


「殿は何も仰らねえ。俺たちは、どこへ連れて行かれるんだ……?」


雨の気配を含んだ風の中で、そんな囁きが聞こえてくる。


無理もない。


彼らはただの人間だ。


どれほど信長さんの舞に魂を揺さぶられても、疲れと寒さと不安が体に戻れば、恐怖も一緒に戻ってくる。


四万とも噂される今川の大軍。


最前線の砦。


まだ知らされない作戦。


そして、自分たちがどこで死ぬのかさえ分からない不安。


このままでは、戦場に着く前に心が折れる兵が出てもおかしくなかった。


私は息を整えながら、境内の奥へ視線を向けた。


巨大な社殿の前。


そこに、織田信長が立っていた。


濡れた黒漆の具足を身につけ、腰に太刀を差したその姿は、木立の暗がりの中で異様なほど静かだった。


背後で揺れる兵たちの恐怖も動揺も、すべて見えているはずだ。


それでも信長さんは、少しも慌てていなかった。


「……皆の者、静まれ」


低く重い声が、境内に響いた。


雨音にも、ざわめきにも負けない声だった。


兵たちが一斉に口を閉じる。


信長さんはゆっくりと社殿の前へ進み、深く頭を下げた。


それは、清洲城で見せた荒々しい信長さんとは少し違っていた。


静かで、鋭く、研ぎ澄まされている。


「熱田の大神よ」


信長さんの声が、木々の間を抜けていく。


「この尾張の地に生きる者たちを、どうか見届け給え」


境内は静まり返っていた。


「今川義元は、大軍をもってこの国へ踏み込んできた。丸根、鷲津の砦では、我らの者たちが命を張って敵を食い止めておる」


勝家さんの顔が、苦しげに歪む。


林さんも、唇を噛んだ。


信長さんは続けた。


「わしは今日、ここに集う者たちと共に、尾張を守るために進む。恐れるなとは言わぬ。死を忘れろとも言わぬ。だが、もしこの戦に義があるならば、我らの進む道に、吉兆を示し給え」


神へ命令するような傲慢さではない。


けれど、ただすがるだけの祈りでもなかった。


信長さんは、神前に立ちながらも、どこか神と取引しているように見えた。


この場にいる兵たちの心を、もう一度前へ向かせるために。


彼は祈りすら、戦の一部にしていた。


静寂。


木々を揺らす風の音だけが聞こえる。


私は息を詰めた。


信長さんの背中が、ぴんと張り詰めている。


まるで、何かが起きる瞬間を待っているようだった。


その時だった。


――カランッ。


社殿の奥から、高く澄んだ音が響いた。


金属が石に触れたような、硬く、清らかな音。


一度だけではない。


――カラン、カラカラッ。


続けて小さな音が鳴り、境内に澄んだ余韻が広がった。


「……っ!」


兵たちが一斉に息を呑んだ。


誰も動かない。


誰も声を出さない。


けれど次の瞬間、最前列にいた年老いた足軽が、泥の上に膝をついた。


「熱田の神様が……お答えくだすった……」


その声は震えていた。


「吉兆じゃ……! 吉兆が鳴ったぞ!」


その一言が、乾いた藁に火をつけた。


「聞いたか! 今の音を!」


「神様が、殿にお答えくださったんだ!」


「熱田の大神は、我らと共にあるぞ!」


境内に、爆発的な熱が広がっていく。


先ほどまで「勝てるわけがない」と囁いていた兵たちの目に、別の光が宿り始めた。


恐怖が消えたわけではない。


死が近くにあることも変わらない。


けれど、自分たちは見捨てられていない。


神の前で、信長という大将に率いられて進むのだ。


そう思えた瞬間、兵たちの足元に力が戻ったのだ。


「殿ォォォッ!」


柴田勝家さんが、歓喜とも悔しさともつかない涙を浮かべながら吠えた。


「熱田の大神は、我ら織田軍に勝てと仰せでございます! もはや恐れるものはありませぬ!」


「おおおおおおおおっ!」


二千に満たない兵たちが、武器を天に突き上げ、地鳴りのような雄叫びを上げた。


その熱狂の中で、私は社殿の奥の暗がりをじっと見つめていた。


本当に神が鳴らしたのか。


それとも、誰かが奥で何かを打ち鳴らしたのか。


分からない。


分からないけれど、信長さんの横顔を見た瞬間、私は小さく息を呑んだ。


彼は驚いていなかった。


ほんの少しだけ、口元に笑みを浮かべていた。


まるで、こうなることを知っていたかのように。


……まさか。


私は心の中で呟く。


信長さんは、清洲を出る時点で、ここまで考えていたのだろうか。


熱田社に着いた兵たちが、疲れと恐怖で再び揺らぐこと。


そこで、ただ「勝てる」と言葉で励ましても足りないこと。


彼らには、言葉以上の何かが必要になること。


神が味方したと思えるような、強烈な合図が必要になること。


もしそうだとしたら。


信長さんは、天候だけでなく、人の心の動きまでも戦の道具として読んでいたことになる。


「史花様……」


隣で藤吉郎くんが、目を潤ませながら両手を合わせていた。


「神様が、本当に音を鳴らしただわ……! 殿は、やっぱり神様に選ばれたお人だぎゃ!」


「……そうね」


私は、彼に調子を合わせて頷いた。


「すごい音だったわね」


藤吉郎くんは完全に信じ切っている。


兵たちも同じだ。


今、この場で本当に大事なのは、音の正体ではない。


兵たちが、もう一度前を向いたこと。


その一点だった。


私は、信長さんの背中を見つめた。


ビビリで、震えて、泣き言を漏らしていた青年。


その青年が今、神前の一つの音で、二千に満たない兵の心をまとめ上げた。


怖がる自分だけでなく、怖がる兵たちの心まで動かし始めている。


「……ふっ」


社殿の前に立っていた信長さんが、ゆっくりと振り向いた。


その顔には、静かな自信が浮かんでいた。


彼は広間ではなく、境内の隅にいる私と、ほんの一瞬だけ視線を交わした。


その瞳が、いたずらっぽく光ったような気がした。


どうじゃ、史花。


見事な吉兆であろう。


そう言われた気がして、私は思わず小さく笑ってしまった。


「全軍、聞けィ!」


信長さんが、境内に響き渡る声で叫んだ。


「熱田の大神は、我らの道を開いた! 恐れるな! 尾張の土を踏みにじる今川を、この地から叩き出すぞ!」


「おおおおおおおおっ!」


兵たちの雄叫びが、熱田の森を揺るがした。


信長さんは、腰の太刀の柄に手を添え、南の空を睨む。


「まずは、南へ進む」


その声は短かった。


しかし、迷いは一切ない。


「善照寺砦へ向かう。遅れるな」


「ははっ!」


織田軍が、一斉に動き出した。


熱田社の鳥居をくぐり、泥の街道へ。


ぽつぽつと落ちていた雨は、少しずつ粒を増している。


だが、まだ本物の嵐ではない。


信長さんが読んだ大雨は、まだ空の奥に溜め込まれている。


その牙を剥く時を、待っている。


私と藤吉郎くんも、兵たちの後を追って走り出した。


熱田社の吉兆によって、折れかけていた兵たちの心は、もう一度つながった。


けれど、戦はまだ始まっていない。


丸根と鷲津。


最前線の砦では、今まさに、運命の火蓋が切られようとしている。


その報せが、私たちのもとへ届くまで、あと少しだった。

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