第13話:清洲城への全力疾走
「さあ、今度こそ帰るわよ! 信長さんが待ってる!」
私が小高い丘から駆け下りると同時に、再びぽつぽつと落ち始めていた雨が、まるで天の底が抜けたかのような土砂降りに変わった。
遠のいていく今川方の中枢に近い部隊の陣幕。
けれど、私たちの背後には依然として、二万を超えるという途方もない質量の暴力が迫っていることに変わりはない。
大高城周辺の敵陣深くから、私たちの本拠地である清洲城までは、直線でも二十キロ前後。
しかも、鳴海城の周辺や今川方の目がある道を避ければ、実際の道のりはさらに長くなる。
現代の舗装されたアスファルトの道を、ランニングシューズで走るのとはわけが違う。
鬱蒼とした獣道。
雨で田んぼのようにぬかるんだ土の街道。
いつ敵の斥候部隊と鉢合わせるか分からない、極限の緊張感。
えんじ色のジャージを風呂敷に隠し、借り物の小袖と粗末なわらじを履いた現代の女子高生にとって、それは文字通り「死のフルマラソン」の始まりだった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
泥水を跳ね上げながら、私は無我夢中で足を動かした。
肺が熱く焼け付くように痛い。
太ももは鉛のように重く、一歩踏み出すたびに膝がガクガクと笑う。
体育の授業のマラソン大会だって、こんなに本気で走ったことはない。
私の前を走る木下藤吉郎くんも、途中で野菜の入った背負子を路肩へ置き捨て、身軽になっていた。
それでも息は荒い。
泥だらけのわらじは限界に近く、鼻緒の部分が今にも千切れそうになっている。
「史花様、大丈夫かだわ!? ペースが落ちとるぎゃ!」
藤吉郎くんが振り返り、大声で叫んだ。
雨の音でかき消されそうなその声には、明らかな焦りが滲んでいる。
「だ、大丈夫……! まだ、走れ……きゃっ!」
強がって見せた直後、ぬかるんだ木の根に足を滑らせ、私は派手に泥水の中へ転げ込んだ。
「痛っ……」
顔から泥に突っ込み、口の中に鉄の味が広がる。
全身が泥まみれになり、手足の感覚が麻痺し始めていた。
何より最悪なことに、右足のわらじの鼻緒が、ぷつりと切れてしまっていた。
これではもう、まともに走ることはできない。
「史花様!」
藤吉郎くんが慌てて引き返してきて、私を泥の中から抱え起こした。
「怪我はねえか!? ああ、わらじが切れちまってるだわ……!」
私は荒い息を吐きながら、懐にしっかりと抱え込んでいた「まとめノート」を取り出した。
雨水に濡れないよう、風呂敷の端の乾いた部分で何重にも包んだ、織田家の命運を握る極秘データの塊だ。
私はそれを、震える手で藤吉郎くんの胸に押し付けた。
「藤吉郎くん……これ、持っていって」
「えっ……? 何言ってんだわ、史花様」
「私じゃ、もうペースについていけない。このままじゃ二人とも敵の追手に見つかるか、清洲に間に合わなくなる。だから……あなただけでも先に走って。これを、信長さんに渡して!」
それは、未来を知る相談役としての、苦渋の判断だった。
私の命より、この情報が清洲城に届くことの方が、何万倍も価値がある。
藤吉郎くん一人なら、身軽な猿のように森を抜け、一刻も早く信長さんの元へ辿り着けるはずだ。
「……出世、したいんでしょ? これを一人で届ければ、あなたの手柄は絶大よ。便所掃除どころか、本当に出世の道が開けるかもしれないわ。だから、行って!」
私がそう叫ぶと、藤吉郎くんはノートを受け取り、しばらくじっとそれを見つめた。
今までなら、「そりゃあ助かるぎゃ! じゃあオラはこれで!」と、〇・二秒で見捨てて逃げ出していたはずだ。
自分の生存本能と損得勘定にしか興味のない、ポンコツな口先男。
それが、私の知っている今の藤吉郎くんだった。
しかし、彼はゆっくりと首を横に振った。
そして、ノートを私の懐に無理やり押し返すと、腰に巻いていた手ぬぐいを勢いよく引き裂いた。
「何言ってんだわ、史花様。そりゃあオラは、白米が腹いっぱい食いてえし、出世もしてえだわ。今でも便所掃除に戻るのは死ぬほど嫌だぎゃ」
藤吉郎くんは泥だらけの地面に膝をつき、私の切れたわらじの鼻緒を、引き裂いた手ぬぐいで器用に、そして力強く結び直し始めた。
「でもな……オラはさっき、大高城の近くで見たんだわ」
彼の声は、いつものへらへらとした軽いものではなかった。
地の底から響くような、重く、切実な響きを持っていた。
「二万って数が、どれだけおっかねえ化け物か。あいつらが尾張に入ってきたら、ただじゃ済まねえ。侍だけじゃねえ。田畑は荒らされ、百姓は殺され、オラの母ちゃんや妹だってどうなるか分からねえ……!」
雨が、彼の泥だらけの頬を叩く。
それでも、藤吉郎くんは顔を上げた。
「そんな化け物どもに、オラたちの国を、尾張を好き勝手させちゃならねえんだわ!」
わらじをしっかりと結び終えると、藤吉郎くんは立ち上がり、私の両肩をガシッと掴んだ。
その瞳には、かつて厩でサボっていた男の面影はない。
「史花様のこの紙切れには、殿を、織田家を、そして尾張の全部を救うための答えが書いてあるんだろ!? だったら、こんなもん、オラ個人の出世のためだけに使えるわけがねえ!」
彼は雨に打たれながら、吠えるように叫んだ。
「この情報は、殿にお伝えせねばならねえんだわ! オラの手柄なんかどうでもいい。尾張を守るために、殿に勝ってもらうために走るんだぎゃ!」
その顔を見た瞬間、私は全身の鳥肌が立つのを感じた。
(……ああ、そうか)
人は、褒美だけで限界を超えるわけじゃない。
出世したい。
白米を腹いっぱい食べたい。
そんな個人的な欲望だって、もちろん強い力になる。
でも、それだけでは、雨の中で誰かのために踏みとどまることはできない。
自分の行動が、誰を救うのか。
何を守るのか。
それを腹の底から理解した時、人はただの臆病者でも、口先だけの男でもなくなる。
「白米が食べたい」という個人の欲望で動いていたポンコツ足軽が、今川軍という巨大な脅威を目の当たりにし、そして「勝機」という希望に触れた。
その瞬間、彼は尾張国全体を守るという、初めての重い使命を背負ったのだ。
木下藤吉郎という男が、自分の殻を破り、後の天下人へ至る小さな一歩を、今この泥水の中で力強く踏み出した。
「分かったわ……! 一緒に帰りましょう、私たちの清洲城へ!」
私は結び直されたわらじで力強く地面を蹴り、再び走り出した。
「おうさ! オラの背中から離れるなよ、史花様!」
そこからの道のりは、まさに死闘だった。
夜が近づき、視界が急速に奪われていく中、私たちは今川方の拠点である鳴海城の近くを避けるように大回りし、増水した小川や用水路を何度も迂回しながら、ただひたすらに北西を目指した。
息は絶え絶えになり、足には無数の擦り傷ができ、雨で冷え切った体はガタガタと震えている。
それでも、藤吉郎くんは決して立ち止まらなかった。
私が遅れそうになれば手を引き、急斜面では私の背中を押し上げ、ひたすらに「殿の元へ!」と呪文のように唱えながら前へ前へと進んだ。
やがて、雨雲が薄れ、東の空がわずかに白み始める頃。
泥と傷にまみれた私たちの眼前に、黒々とした巨大な影が姿を現した。
「……見えた、清洲城だわ……!」
藤吉郎くんが、かすれた声で叫んだ。
清洲城の城門は固く閉ざされ、門の上には無数の篝火が焚かれていた。
警戒にあたる織田の兵たちが、槍を構えて目を光らせている。
今川軍の襲来に備え、城内は極限のピリピリとした空気に包まれていた。
私たちが門へと近づくと、櫓の上にいた番兵が怒鳴り声を上げた。
「止まれ! 何者だ! ここを清洲城と知っての狼藉か! 怪しい奴らめ、名乗らねば射かけるぞ!」
無数の弓矢が一斉に私たちに向けられる。
しかし、藤吉郎くんは一歩も引かなかった。
彼は泥だらけの顔を上げ、かつて先輩足軽に媚びへつらっていた時とは別人のような、鋭く通る大音声で叫び返した。
「矢を下ろせ、馬鹿野郎!! わしは織田上総介信長様の家臣、木下藤吉郎である!! 殿の特命により、今川の陣容を探り、ただいま戻った! 尾張の命運を分ける極秘の報せを持って参ったのだ! 一刻を争う、今すぐ門を開けい!!」
その凄まじい気迫と、迷いのない言葉の強さに、櫓の上の兵たちが一瞬ひるんだ。
「き、木下藤吉郎だと? あの草履取りの……? だが、殿の特命とは……」
「迷っている暇などねえ! オラたちを殺して織田家が滅んでもいいのか!! 開けろォ!!」
藤吉郎くんの腹の底からの咆哮が、夜明け前の清洲城に響き渡る。
しばらくの沈黙の後、ギギギギ……と、重厚な城門がゆっくりと内側へ開き始めた。
私たちは顔を見合わせ、泥だらけの顔でニヤリと笑い合うと、開かれた門の隙間へ滑り込むように城内へと駆け込んだ。
向かうは、城の中心。
織田信長の待つ広間だ。
息を整える余裕などない。
泥まみれの足跡を板張りの廊下につけながら、私たちは信長さんの元へと全力で駆け抜けた。
「殿! 木下藤吉郎、並びに史花様、ただいま戻りました!!」
勢いよく襖を開け放つと、そこには甲冑の入った櫃の前に座り、目を閉じてじっと何かを考えていた信長さんの姿があった。
信長さんはゆっくりと目を開け、私たちの泥だらけの惨状を見て、かすかに目を見開いた。
「……ずいぶんと、派手に汚れて戻ってきたものじゃな。まるで泥田から這い出た餓鬼のようぞ」
「ふふっ……未来の知恵役は、現場主義ですから」
私はぜぇぜぇと息を切らしながらも、不敵に笑い返し、懐から風呂敷に包まれたまとめノートを取り出した。
濡れないように死守したそのノートを、信長さんの目の前の畳に、バンッ! と音を立てて叩きつける。
「揃ったわよ、信長さん。……二万の大軍を、たった二千で喰い破るための、完璧な『勝機』がね」
夜明け前の薄い光が、開け放たれた襖から差し込み、泥だらけのノートと、信長さんの鋭い瞳を照らし出した。
永禄三年五月十八日、深夜。
日本の歴史が大きく動く、その運命の前夜が、いよいよ始まろうとしていた。




