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歴史テスト前夜に寝落ちしたら、ポンコツ偉人たちのコンサルタントになっていました 〜JK歴女が偉人たちに歴史的決断をさせるまで〜  作者: 牧野ハル


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第12話:大軍の贅沢、小軍の隙

松平元康が休んでいた木立を抜け、私たちは清洲城へと続く裏道を急いでいた。


雨は上がりかけていた。


葉の先から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと土の上に小さな跡を作っている。湿った草の匂いと、遠くから漂ってくる兵糧の煙の匂いが混ざり合い、空気はやけに重かった。


「史花様、急ぐだわ。あんなおっかねえ三河の侍に見つかっただけでも寿命が縮んだぎゃ。今度こそ清洲へ帰るだわ」


藤吉郎くんは、背負子を揺らしながら何度も後ろを振り返っていた。


さっきまで「白米と出世のためなら何でもする」と言っていたくせに、今は完全に腰が引けている。


けれど、私も笑えなかった。


松平元康。


後の徳川家康。


その人から聞いた情報は、あまりにも大きかった。


今川軍の先鋒である三河衆は、大高城への兵糧入れで疲弊している。


最前線の兵は、すでに泥と疲労に沈みかけている。


そして、総大将の今川義元は、後方で余裕を保っているらしい。


この情報だけでも、信長さんに伝える価値は十分にあった。


でも、まだ足りない。


織田軍が二万を超える今川軍に勝つには、もっとはっきりした「隙」が必要だった。


その時だった。


小高い丘に差しかかったところで、藤吉郎くんが突然足を止めた。


そして、私の腕をつかむと、慌てて草むらの中へ引きずり込んだ。


「しっ! 史花様、伏せるだわ!」


「きゃっ! な、何よ突然……!」


泥だらけの草むらに身を潜めながら、藤吉郎くんが指差す方を見る。


次の瞬間、私は思わず息を呑んだ。


丘の下を通る街道を、果てしなく続く人の波が埋め尽くしていた。


「……ただの部隊じゃない」


私は、声を潜めて呟いた。


「今川の中枢に近い部隊かもしれない」


大高城周辺で見た先鋒部隊とは、明らかに雰囲気が違っていた。


旗指物は鮮やかで、護衛の兵も多い。荷駄の数も桁違いだ。馬のいななき、車の軋む音、甲冑の触れ合う音が、湿った空気の中に重たく響いている。


行軍する兵の列は、まるで巨大な龍の胴体のようだった。


先頭がどこにあるのかも、最後尾がどこにあるのかも分からない。丘の向こうへ消えたかと思えば、さらに後ろから別の列が続いてくる。


これが、大軍。


これが、二万を超える兵の重み。


けれど、その巨大な龍のような列は、奇妙なことに途中で足を止めていた。


「おいおい、なんだありゃ……」


藤吉郎くんが目を丸くする。


見れば、街道の脇や少し開けた野原に、簡易の陣幕が張られている。


武将や足軽たちは鎧の紐を緩め、車座になっていた。


手にしているのは、槍でも弓でもない。


握り飯。


干物。


水の入った竹筒。


中には、酒らしき瓢箪を回している者までいる。


「おい、もっとこっちへ回せ! 義元公の御出陣じゃ。尾張のうつけなど、我らの足音だけで逃げ出すわ!」


「まったくだ。先鋒の三河衆がうまく立ち回っておる。大高もじきに安泰よ。我らはこうして飯を食いながら進むだけで、戦は終わるぞ!」


風に乗って、そんな呑気な笑い声まで聞こえてきた。


戦場へ向かう軍勢。


それも敵地へ踏み込んでいるはずの軍勢。


なのに、そこには妙な余裕があった。


もちろん全員が油断しているわけではない。見張りの兵は立っているし、護衛らしき武士たちの目つきは鋭い。


けれど、少なくともこの一角には、命を削って戦う最前線の緊張感がなかった。


勝ち戦を疑っていない者たちの空気。


圧倒的な数に守られている者たちの贅沢。


それが、はっきりと見えた。


最前線で泥にまみれ、胃を抱えて泣いていた松平元康さんたちの姿とは、あまりにも対照的だった。


「あいつら、戦場に遊びに来とるのかだわ……」


藤吉郎くんが、呆れたように呟く。


「遊びじゃないわ。でも、心のどこかではもう勝ったつもりでいる」


私は懐からまとめノートを取り出し、急いで街道の様子をスケッチし始めた。


「これが、大軍の贅沢よ」


「大軍の、贅沢?」


「人数が多い軍は強い。でも、多すぎると動きが鈍くなるの。全員が同じ速度で進めるわけじゃないし、荷物も多い。先頭が前へ進んでも、後ろはまだ動けない。逆に後ろが休んでいる間に、前線だけが疲れ切っていることもある」


私はノートの上に、今川軍の隊列を長い線で描いた。


一本の太い塊ではない。


長く、長く伸びた線。


「そう。見た目は二万の巨大な壁。でも実際は、長く伸びた列なの。前線、中ほど、後ろ。場所によって疲れ方も、緊張感も、情報の速さも違う」


私は丘の下を指差した。


「たとえば、荷駄をたくさん連れた行列と同じよ。荷物が少ない二、三人なら、すぐ向きを変えて走れる。でも、馬も荷車も人足も何百、何千と続いていたら、先頭が止まっても後ろにはすぐ伝わらない。前が進んでも、後ろはまだ動けない。大軍っていうのは、強いけど、そのぶん鈍いの」


「なるほどだわ……」


藤吉郎くんが、珍しく真剣な顔で頷いた。


「つまり、今川の大軍も、全部が一つの塊じゃねえってことか」


のん気に飯を食う将兵たち。


そのさらに奥。


ひときわ豪華な陣幕が見えた。


周囲には、他よりも明らかに警戒の厚い一団がいる。


そのそばに、格式の違う塗輿が置かれていた。


雨に濡れた黒塗りの表面が、わずかな光を受けて鈍く光っている。


戦国武将といえば馬に乗るイメージが強い。


でも、今川家は足利将軍家にも連なる名門であり、義元は公家風の格式を重んじた人物として語られることが多い。


今川義元には、戦場でも輿に乗っていたという有名な逸話もある。


もちろん、遠目に義元本人の顔が見えたわけではない。


あの輿に義元が乗っていると断定することはできない。


けれど、護衛の厚さ。


陣幕の豪華さ。


周囲の兵たちの緊張の仕方。


それらが、あの一帯が軍の中枢に近い場所であることを物語っていた。


「……見つけたわ」


私はノートにペンを走らせながら、小さく笑った。


「全部と戦う必要なんて、ない」


藤吉郎くんが、ハッとして私を見る。


「え?」


「あんなに列が伸びきっているなら、前衛と中枢は完全に距離が開いている。もし、あの中枢だけをピンポイントで叩けたら……前の部隊はすぐには戻れない。後ろの部隊も、何が起きたかすぐには分からない」


「そ、それって……」


藤吉郎くんの目が見開かれる。


「二万の大軍相手でも、全部と戦わなくていいってことかぎゃ?」


「その通りよ、藤吉郎くん。素晴らしい理解力」


私は思わず、彼の肩を軽く叩いた。


「正面から二万にぶつかれば、一瞬で押し潰される。でも、長く伸びた行軍の列の中で、たった一点だけを切り取れば、相手にするのは二万全軍じゃない。中枢を守る一部の兵だけになる」


私はノートの上に描いた長い線の中央へ、ぐりぐりと丸をつけた。


そこが、心臓。


そこが、狙うべき一点。


「しかも、その周りの兵たちは勝利を疑っていない。気が緩んでいる。前線の疲れも、本隊の油断も、今川軍という巨大な組織の中でつながっていない」


私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


これだ。


信長さんに伝えるべきもの。


ただの「今川軍は多い」という恐怖ではない。


ただの「奇跡が起これば勝てる」という希望でもない。


大軍だからこそ生まれる隙。


二千の小軍が二万の大軍を喰い破るための、現実的な一点。


「これこそが、最大の勝機だわ」


私が呟くと、藤吉郎くんはぶるりと体を震わせた。


「す、すげえだわ……。天下の今川様の二万の軍勢が、ただのデカくて鈍い的に見えてきたぎゃ……」


彼の声には、まだ恐怖があった。


けれど、それ以上に興奮があった。


ただ逃げ足が速く、口がうまいだけだった若者の目に、初めて「戦の理屈」を理解した光が宿っていた。


「でも、ここに長居はできないわ」


私はノートを閉じ、風呂敷の中に素早くしまい込んだ。


「この情報を信長さんに届けなきゃ意味がない」


「そ、そうだわ! 見つかったら串刺しだぎゃ!」


藤吉郎くんは、急に現実へ戻ったように顔を青くした。


私たちは草むらを這うようにして丘を下り、今川の隊列から距離を取る。


遠くでは、まだ呑気な笑い声が聞こえていた。


その声が、妙に不気味だった。


彼らはまだ知らない。


自分たちの余裕が、油断が、間延びした隊列が、やがて義元の首へ刃を届かせる道になることを。


「さあ、今度こそ帰るわよ! 信長さんが待ってる!」


私は風呂敷を固く結び直し、清洲城の方角へ足を向けた。


藤吉郎くんも大きく頷き、泥を跳ね上げて走り出す。


雲の切れ間から、初夏の陽光が差し込んでいた。


雨に濡れた尾張の青い大地が、まぶしく光っている。


歴史の教科書に「桶狭間の戦い」として刻まれる大逆転劇。


その幕が上がるまで、あと少しだった。

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