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歴史テスト前夜に寝落ちしたら、ポンコツ偉人たちのコンサルタントになっていました 〜JK歴女が偉人たちに歴史的決断をさせるまで〜  作者: 牧野ハル


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第14話:ジグソーパズルの最後のピース

永禄三年五月十八日、深夜から十九日未明にかけて。


雨を含んだ風が、清洲城の屋根を低く叩いていた。


城内には、どこか落ち着かない空気が漂っている。


今川の大軍が尾張へ迫っている。


その噂は、もはや噂ではなく、肌に触れる現実になりつつあった。


廊下を行き交う武士たちの足音は荒い。


小姓たちは顔を青ざめさせ、何度も同じ場所を行ったり来たりしている。


誰もが何かを待っていた。


命令。


決断。


あるいは、滅亡の知らせを。


だが、その喧騒とは対照的に、城の奥深くにある織田信長の居室は、水を打ったような静寂に包まれていた。


開け放たれた襖から差し込む、夜明け前の青白い光。


部屋の中央には、黒漆塗りの立派な甲冑が納められた櫃が置かれている。


その前に胡座をかいて座る信長さんの目は、私たちが畳に叩きつけた泥だらけの「まとめノート」へと注がれていた。


「……息を整えよ、史花。それに藤吉郎もだ」


信長さんは、泥水と汗にまみれて肩で息をする私たちを見て、静かにそう言った。


「ずいぶんと死線を潜り抜けてきたような顔をしておるな」


その声には、前日までのオロオロとした怯えはなかった。


いや、恐怖が消えたわけではないのだと思う。


けれど今の信長さんは、恐怖に呑まれていない。


私たちが持ち帰ったものが、織田家の命運を左右する極秘情報であることを、本能的に悟っている。


その顔は、まだ若く、まだ不安定で、それでも確かに総大将のものだった。


「ふぅ……ふぅ……ええ、まあ」


私は借り物の小袖の袖で顔の泥を乱暴に拭い、なんとか姿勢を正した。


「未来の知恵役は、足で稼いだ情報が命ですからね」


隣に控える藤吉郎くんも、息を切らしながら背筋を伸ばしている。


さっきまで泥道を転がるように走っていたとは思えないほど、彼の目は真っ直ぐに信長さんを見据えていた。


「信長さん。結論から言います」


私は濡れた風呂敷をほどき、まとめノートを開いた。


「家臣のおじさまたちが恐れている『二万の今川軍』という数字は、ただの絶望じゃない。見方を変えれば、敵の弱点そのものでもあるわ」


信長さんの眉が、ぴくりと動いた。


「……弱点じゃと?」


低い声だった。


「戯れ言を申すな。実際に二万もの兵が尾張に踏み込んでおるのだぞ。大高城への道はすでに敵に押さえられ、丸根や鷲津の砦も風前の灯火。どこからどう見ても、織田は詰んでおる」


「全体を見ればそう見えるかもしれないわ」


私は頷いた。


「でも、近くで見れば違う。大きすぎる軍には、大きすぎる軍なりの歪みがあるの」


私は藤吉郎くんへ目配せした。


「藤吉郎くん。まず、三河衆の様子を信長さんに」


「は、はい!」


藤吉郎くんは一瞬だけ声を裏返らせたが、すぐに膝を進めた。


「殿! オラ……いや、それがし、史花様と共に大高城の近くまで潜入し、今川の先鋒である三河衆の様子をこの目で、しかと見てまいりました!」


その口調から、いつもの「だわ」「ぎゃ」が消えかけている。


必死に武士らしい言葉遣いをしようとしているのだ。


信長さんは、いつもへらへらと草履を差し出していた男の変貌に、少しだけ驚いたように目を細めた。


「三河衆の様子はどうであった、藤吉郎」


「ボロボロでございました!」


藤吉郎くんは、拳を握りしめて続けた。


「丸根や鷲津の脇を抜ける過酷な兵糧入れを終えたばかりで、将兵は泥にまみれ、馬も人も疲れ切っておりました。すぐ次の戦へ移れるような有様ではございませぬ」


信長さんの表情が、わずかに険しくなる。


「そして何より、三河を束ねる若き当主……松平元康殿が、腹を抱えて泣いておりました」


「竹千代が、泣いておったじゃと……?」


信長さんが、信じられないというように呟いた。


「幼き頃、織田の人質として尾張にいた、あの頑固で無口な竹千代が、戦場で涙を流しておったというのか」


「はい。史花様が言葉を引き出したところによれば、元康殿は今川の理不尽な命令と、三河家臣団の重すぎる期待に挟まれ、限界を迎えておりました」


藤吉郎くんは一度、私の方をちらりと見た。


それから、少し声を落として続ける。


「『もう戦などしたくない、三河で大根を育てたい』とまで零す始末。少なくとも、最前線の三河衆は、大きく疲弊しております!」


信長さんは、黙り込んだ。


その目が、どこか遠くを見る。


幼い頃に尾張で過ごした竹千代。


のちの松平元康。


今は今川方の先鋒として、織田の前に立ちはだかる若き三河の当主。


その彼が、胃を壊し、涙をこぼし、戦を嫌がっている。


その事実は、信長さんの中で何かを動かしたようだった。


「これが一つ目の事実」


私はノートの余白に、「三河衆、疲弊」と大きく書いた。


「最前線はもう限界に近い。じゃあ、その後ろにいる今川方の中枢に近い部隊はどうだったと思う?」


私は泥で汚れたページをめくり、大高城から沓掛城方面へ続く街道のスケッチを信長さんの前に突き出した。


「元康さんたちは泥水をすすっているみたいな状態だった。なのに、その後ろの部隊は……腰を下ろして、のんびり握り飯を食べていたわ」


「……握り飯、じゃと?」


信長さんが、間の抜けた声を出した。


「ええ」


私は大きく頷いた。


「私と藤吉郎くんで、街道に長く伸びた今川方の列を見た。雨が降ったり止んだりする中で、陣幕を張って休んでいた部隊があったの。握り飯を食べて、水を飲んで、中には酒らしき瓢箪を回している者までいた」


「酒……」


「先鋒がうまくやってくれているから、自分たちはこのまま進めば勝てる。そう信じ込んでいるように見えたわ」


信長さんは、ノートに描かれた拙いスケッチと、私の顔を交互に見た。


彼の瞳の奥で、カチリ、カチリと何かが噛み合っていくようだった。


「……大軍ゆえの、驕りか」


信長さんが、地を這うような低い声で呟いた。


「その通り」


私は、ノートの余白に長い線を引いた。


「二万という数が狭い街道を進めば、どうしたって列は間延びする。先頭と後ろでは、見ている景色も、疲れ方も、危機感も違う」


私は丘の上から見た光景を思い出しながら、線の片側に「前線」、中央に「中枢」、後ろに「後続」と書き込んだ。


「前の三河衆は命がけで泥まみれ。でも、中ほどの部隊には、その苦しさが届いていない。圧倒的な数に守られているという安心感が、緊張感を奪っているのよ」


藤吉郎くんが、隣で小さく頷いた。


「殿、本当にそうでした。前で働かされてる者と、後ろで飯を食ってる者では、まるで別の軍みたいだっただわ……いや、ございました」


信長さんは、藤吉郎くんの言葉にもじっと耳を傾けていた。


「信長さん」


私はノートの上に、二つの図を書いた。


一つは、小さな丸。


もう一つは、細長く伸びた大きな楕円。


「家臣のおじさまたちは、『二千対二万』の正面衝突を想定して絶望している。でも、敵は今、こういう一つの塊じゃない」


私は小さな丸を指差したあと、細長い楕円を叩いた。


「実際には、こう。長く伸びきった列なの。しかも場所によって、疲労も油断も違う」


そして、楕円の中心部分だけを、ペン先でぐりぐりと黒く塗りつぶした。


「もし、この間延びした行軍の列の中で、今川軍の中枢だけをピンポイントで強襲できたらどうなる?」


信長さんの目が、細くなる。


「前の部隊は、すぐには引き返せない。後ろの部隊は、何が起きたかすぐには把握できない。ぶつかり合うその瞬間、その場所だけを切り取れば、相手にするのは二万全軍じゃない」


私は、黒く塗りつぶした一点を指で叩いた。


「中枢を守る一部の兵だけになる。こちらの二千でも、十分に喰い破れる局地戦に持ち込めるわ」


言い終えた瞬間、部屋に沈黙が落ちた。


外から聞こえる風の音だけが、やけに大きく耳に届く。


信長さんは、私の描いた図をじっと見つめていた。


先ほどまでの戸惑いや疑いが、彼の表情から消えていく。


代わりに浮かび上がってきたのは、恐怖でも興奮でもない。


思考。


氷のように研ぎ澄まされた、戦場を盤面として見つめる者の顔だった。


林秀貞たちが怯えた「二万の大軍」という絶望。


柴田勝家が主張した「籠城」という名の緩やかな死。


最前線で胃を壊す松平元康の疲弊。


そして、間延びした街道で握り飯を食う今川方中枢周辺の油断。


バラバラだった情報のピースが、信長さんの頭の中で組み上がっていく。


ジグソーパズルの最後のピースが、音もなく近づいていた。


「……く、くくくっ」


信長さんの喉の奥から、押し殺したような笑い声が漏れた。


「はは……はーっはっはっは!」


次第にその笑いは大きくなり、部屋の空気を震わせるほどの豪快な笑いへと変わった。


「傑作じゃ! あの海道一の弓取りと恐れられる今川義元の軍勢が、二万の兵をぞろぞろと引き連れて、街道沿いで呑気に飯を食っておるとはな!」


信長さんは笑いながら、膝をバシッと叩いた。


「しかも、最前線の兵をボロボロになるまで使い潰しておきながら、中枢は悠々と進むつもりか。なるほど。なるほどな。大軍とは、かくも鈍くなるものか」


その笑い声に、私はぞくりとした。


ただの安心ではない。


勝てるかもしれないという希望に浮かれた笑いでもない。


獲物の傷口を見つけた獣の笑いだった。


「史花。それに藤吉郎」


信長さんの視線が、私たちへ向く。


「大儀であった。お前たちが命がけで持ち帰ったその情報、千金、いや、尾張一国の価値があるぞ」


私は思わず息を呑んだ。


藤吉郎くんは、ぽかんとした顔をしたあと、慌てて平伏した。


「は、ははっ!」


「藤吉郎」


信長さんは、面白そうに目を細める。


「お前、さきほど言葉遣いが変わっておったな。あの草履取りの猿が、いっぱしの武士のような顔つきになりおって。史花の言葉に、何か思うところがあったか?」


藤吉郎くんは一瞬びくりとした。


けれど、すぐに泥だらけの顔を引き締め、深く頭を下げた。


「……はっ。オラ……それがしは、ただの出世欲で史花様に同行いたしました」


その声は震えていた。


けれど、逃げてはいなかった。


「しかし、今川の二万の兵を見た時、あれが尾張に入り込めば、田畑も民もすべて蹂躙されると悟りました。殿、それがしは織田のために、尾張を守るために、この情報を命に代えても持ち帰らねばならぬと思ったのでございます」


「ほう……尾張を守るため、か」


信長さんは、どこか嬉しそうに口角を上げた。


「史花。お前は敵の隙を見つけただけでなく、わしの草履取りまで武士に仕立て上げたというわけか。恐ろしい小娘よ」


「私はきっかけを作っただけです」


私は小さく笑った。


「走ると決めたのは、藤吉郎くん自身ですよ」


藤吉郎くんが、照れくさそうに鼻の下をこすった。


「さあ、信長さん」


私は再びノートを指差した。


「敵の弱点は見えた。籠城なんていう後ろ向きな選択肢は、もうほとんど意味がない。あとは、あなたが総大将として、この情報をどう使うかよ」


信長さんはゆっくりと立ち上がった。


昨日までの「うつけ」と呼ばれ、家臣に怯えていた青年とは違う。


しかし、まだ完全な魔王でもない。


その中間。


恐怖と知性。


臆病さと大胆さ。


人間らしさと、底知れない野心。


それらが一つの体の中で激しくぶつかり合いながら、何か新しい形へ変わろうとしている。


信長さんは、部屋の壁に掛けられた尾張の絵図面へ歩み寄った。


そして、じっと見つめる。


大高城。


沓掛城。


丸根。


鷲津。


鳴海。


そして、尾張南東部に広がる丘陵と低地。


彼の指が、ゆっくりと絵図の上を滑った。


「義元の軍勢は、長く伸びておる」


低い声だった。


「先鋒は疲弊し、中ほどは油断し、後続は事態を掴めぬ。ならば……」


信長さんの指が、ある一帯の周辺で止まった。


「狙うべきは、敵の総数ではない」


私は息を止めた。


「……敵の心臓じゃ」


その一言に、全身の血が熱くなった。


まだ、作戦名は出ていない。


まだ、彼ははっきりと「奇襲」とは口にしていない。


けれど、信長さんの頭の中で、最後の絵が組み上がり始めている。


二千が二万を倒す方法ではない。


二千の刃で、二万の中に隠れた一点を貫く方法。


それが、今まさに生まれようとしていた。


信長さんは、絵図を見つめたまま、低く笑った。


「面白い」


その横顔には、もう泣き出しそうなビビリの影はなかった。


あるのは、恐怖を抱えたまま、それでも勝ち筋を見つけてしまった男の、危ういほど鋭い光。


「史花、藤吉郎。少し休め。お前たちの足で拾ったこの情報……無駄にはせぬ」


私は深く頷いた。


「はい」


信長さんは、尾張の絵図から目を離さなかった。


夜明け前の青白い光の中で、彼の瞳だけが、獲物を見つけた獣のようにぎらりと輝いている。


ジグソーパズルの最後のピースは、もう彼の指先に触れていた。


あとは、信長さん自身が、それを嵌め込むだけだった。

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