第6話 停戦を結んだ者
会談の前に、守備隊長から報告があった。
「昨日、濁流の向こうに残された捕虜たちですが……後退した敵軍に、再び集められています。敵陣で確認された生存者は、二十名余り」
マルティナは頷いた。
生きている。
まだ、取り返せる。
「会談では、まず捕虜の解放を求めます。ほかの条件は、その後です」
雨の上がった朝の光の下、砦の門が開いた。
砦と敵陣のちょうど中間、泥濘の平原の一点へ、マルティナは馬を進めた。
伴うのは、ハーゲン、護衛四名、書記一名だった。
指定された場所で馬を降り、護衛へ手綱を預けた。
左腕を布で吊るほどではなかったが、左肩は鎧の下で鈍く痛み続けていた。
右手の痺れも、まだ抜けていなかった。
敵陣からも、同じほどの人数が進み出てきた。
先頭の男は、大柄だった。
毛皮の外套は泥に汚れ、頬には古い傷があった。
男の視線が、マルティナの古い鎧を上から下までなぞった。
両陣営の弓兵は、遠く離れた位置で矢をつがえたまま待機していた。
どちらの陣営も、まだ弦を引き絞ってはいない。
机も天幕もなかった。
折れた矢の散らばる泥の上で、二人は立ったまま向かい合った。
男が、口を開いた。
「俺はバジット。この軍を率いる族長だ……お前が領主ではないのか?」
「マルティナ・リーメルと申します。領主ではありません。夫のピーターが子爵です」
バジットの眉が、わずかに動いた。
「戦場にいない男が領主で、ここに立つお前がその妻か。帝国とは妙な国だ」
マルティナは、皮肉には応えなかった。
「捕虜の話から始めます」
マルティナは真っ直ぐに相手を見据えて続けた。
「あなた方の陣には、二十名余りの領民が捕らえられています。全員の解放を求めます」
「いきなり要求を突きつけるか」
バジットは腕を組んだ。
「ならば、こちらの条件も――」
「その前に、私から言っておくことがあります」
マルティナは、バジットの言葉を遮った。
「あなたは昨日、縛った領民を軍の先頭に立たせました。抵抗できない民を盾にするなど、将の誇りを捨てた恥ずべき行為です」
護衛たちの間に、緊張が走った。
バジットは、動じなかった。
「そうだ」
短く、認めた。
「俺は帝国の民より一族の命を選んだ。必要なら、また同じことをする」
謝罪はなかった。
言い訳もなかった。
ただの事実として、男はそれを口にした。
この男にも、飢えから守らねばならない一族がいる。
それは理解できた。
だが、事情を理解することと、その行いを認めることは別だった。
「あなたの事情は理解します。しかし、あなたがしたことを許すつもりはありません」
「許しを求めた覚えはない」
バジットは短く返し、本題へ入った。
「要求は三つだ。一族を国境の向こうまで帰すための食料。安全な退路。負傷者を運ぶ手段」
「こちらの要求は四つです。生存捕虜全員の解放。現在保持している略奪品と家畜の全返還。期限内の撤退。今後、武装してリーメル領へ越境しないこと」
バジットの目が、細くなった。
「すべて返還だと……?」
「すべてです」
「これだけ泥をかぶって、手ぶらで帰れというのか! それならここで戦い抜く」
低い声だった。
交渉のための脅しではあった。
だが、口先だけの言葉でもなかった。
手ぶらで帰れば一族は冬を越せない。
それは、この男にとって戦って死ぬことと大差がない。
マルティナは、引かなかった。
「帝都へ急使は出しています。最初の見積もりでは、援軍の到着まで七日から十日。すでに一日が過ぎました」
「…………」
「あなた方がここに残れば、砦と援軍に挟まれます。それに、砦にはまだ矢が残っています。残された捕虜だけでは、昨日と同じ戦いにはなりませんよ」
バジットは、しばらく黙っていた。
それから、吐き捨てるように言った。
「援軍のことなら、こちらの斥候も掴んでいる。だから俺は、ここに立っている」
虚勢の探り合いは、そこで終わった。
マルティナには、退く敵を追って滅ぼす力はない。
バジットには、砦を落とす力も、援軍到着まで領内に留まる余裕もない。
これは勝者が敗者へ命じる場ではなかった。
双方が、これ以上の損失を避けるために、互いの譲歩を限界まで引き出す場だった。
「捕虜は返す」
バジットが言った。
「労働力としても、もう連れて帰る余裕がない。だが略奪品の全返還は呑めん。あれがなければ、返した捕虜の代わりに俺の一族が死ぬだけだ」
「略奪品は返していただきます」
マルティナは繰り返した。
「あれは、襲われた村々から奪われたものです。一つとして、あなた方の正当な持ち物ではありません」
「ならば、交渉は決裂だな」
決裂すれば、また兵も捕虜も死ぬ。
だが、奪ったものを持ち帰らせれば、略奪が利益になる。
どちらも、認めるわけにはいかなかった。
「では、代わりの道を示します」
マルティナは、書記に目配せした。
書記が、用意していた覚書を広げた。
「撤退中の追撃はしません。国境まで、三日分の糧食を提供します。負傷者を運ぶ荷車も、一定数貸与します」
「三日分の糧食で、冬は越せん」
「ええ。ですから……」
マルティナは、一拍おいて続けた。
「撤退完了から五日後、国境で一度限りの交易を認めます。あなた方は毛皮や羊毛を持参なさい。こちらは穀物と塩を用意します。双方とも参加人数を制限し、武器を携行できるのは護衛だけとします。今回限りの交易は、私の責任で認めます」
書記の羽ペンが、覚書の上を走った。
この条件が受け入れられれば、ひとまず彼らを国境の向こうへ帰すことはできる。
だが、一度の交易だけでは、飢えの根を断つことはできない。
今回をしのいでも、道が閉ざされたままなら、いずれ同じことが繰り返される。
マルティナは、黙ったままのバジットを見据え、さらに続けた。
「その後も交易を続けられるよう、国境に交易場を設けることを皇帝陛下へ上申します。略奪ではなく、交易で冬を越せるのなら、あなた方が武器を持って国境を越える理由は消えます」
バジットはしばらく黙って、マルティナを見た。
会談の初めにあった嘲るような色が、その目から消えていた。
やがて、低い笑いが漏れた。
「敵に食料を渡しながら、次の略奪を防ぐ道まで作るか」
笑いは、すぐに消えた。
「だが、一つ聞く。この約定には、誰が責任を持つ? お前の夫が戻れば、覆されるのではないか?」
もっともな問いだった。
爵位を持たない自分に、どこまでの権限があるのか。
その判断は、いずれ帝国へ委ねなければならない。
「印は、リーメル家が約定を履行する証です。署名するのは、約定を結んだ私です」
マルティナは答えた。
「この約定には、私が責任を負います。夫にも覆させません」
バジットは、マルティナの目を見たまま、頷いた。
「ならば、同じ条件を三通の書状にする。俺の印も押そう。一通は俺が持つ。一通はお前が持て。残る一通は、お前の報告とともに皇帝へ送れ。どちらが約束を破ったか、後で言い逃れられぬようにな」
◇
両陣営の書記が、泥の上に板を渡し、同じ内容の停戦書を三通作成した。
生存捕虜全員の解放。
現在保持している略奪品と家畜の返還。
期限内の撤退と、リーメル領への武装越境の禁止。
追撃の禁止。
三日分の糧食と荷車の貸与。
撤退完了から五日後の、一度限りの国境交易と、その細則。
バジットが、三通に自らの印を押した。
マルティナは、痺れの残る右手で三通に自分の名を署した。
思うように動かない指で、一画ずつ書いた。
その傍らに、リーメル家の印を押した。
署名は、自分が約定の責任を負う証。
家印は、リーメル家が約定を履行する証だった。
双方の書記が署名し、護衛たちがその場の証人となった。
「妙な女だ」
書状を巻きながら、バジットが言った。
「俺はお前の領地を焼き、民を殺した。恨んで当然の相手に、冬を越す道まで示すとはな」
「恨んでいます」
マルティナは、静かに答えた。
「死んだ者たちの名を、私は忘れません。あなたを許す日は来ません。ですが、私の仕事は恨みを晴らすことではなく、領民を守ることです。それで次の村が焼かれずに済むのなら、穀物など安いものです」
バジットは、それ以上何も言わなかった。
書状を懐へ収め、背を向けた。
数歩進んだところで、バジットは足を止めた。
「軍旗の下の女」
背を向けたまま、低い声で続けた。
「お前の夫とやらが、この約定を破ったら、俺は容赦なくまた来る……破らせるな」
「破らせません」
その返答を聞いて、バジットは初めて肩越しにマルティナを振り返った。
しばらくその顔を見た後、わずかに顎を引く。
それだけを返事として、今度こそ自陣へ歩き去った。
停戦書の締結後、生き残った捕虜が砦へ引き渡された。
返還された家畜と物資の確認には時間を要したが、異民族の軍は約定どおり撤退を始めた。
その日の夕刻、砦の指揮を守備隊長に、敵軍の撤退監視をハーゲンに任せ、マルティナは城へ戻った。
◇
城の中庭は、夕日に染まっていた。
先に移送された解放捕虜たちが、避難民たちに迎えられていた。
迎える人々の中に、テオとリネの姿があった。
二人が一人の女へ駆け寄っていく。
泥に汚れ、頬の痩せたハンナが、膝をついて二人を強く抱き締めた。
声にならない声が、三人の間から漏れていた。
そのそばで、エリックが泣きながら笑っていた。
一緒に待とう。
あの日、エリックが幼い兄妹に告げた約束は、守られた。
「お母様!」
マルティナに気づいたエリシャが駆けてきた。
エリックも続いた。
二人とも、顔には疲れが滲み、目の下には濃い影があった。
それでも、まっすぐに立っていた。
「ご報告します」
エリシャが、背筋を伸ばした。
「避難民の名簿は、全村の分が揃いました。食料の配分は家令と侍女長の指示で回っています。負傷者には、湯と布を……その、私も運びました。血の付いた布も、運べるようになりました」
エリックも、たどたどしく続けた。
「僕は……怖かったけど、テオとリネと一緒にいました。二人の手を、ずっと握っていました」
マルティナは、二人を順に見た。
まず、疲れを隠すように背筋を伸ばしている娘へ顔を向けた。
「エリシャ。皆を支えてくれたのですね。よく務めました」
それから、姉の隣で緊張した面持ちをしている息子へ視線を移した。
「エリック。怖かったのでしょう。それでも、二人の手を離さなかったのですね。立派でした」
エリシャの唇が、震えた。
それでも、泣かなかった。
リーメル家の娘として、堪えていた。
マルティナは、右手の籠手に左手を伸ばした。
だが、肩に痛みが走り、留め具を外せなかった。
それを見たエリシャが歩み寄り、震える指で、母の右手の籠手の留め具を一つずつ外していった。
革紐が解かれ、籠手が外れた。
素手が、夕暮れの冷たい空気に触れた。
「もう大丈夫です。ここからは、お母様に任せなさい」
「……お母様」
エリシャの声が震えた。
「本当に、もう大丈夫なのですか……?」
「ええ」
その返事を聞いた途端、エリシャはとうとう泣き声を漏らし、母へ抱きついた。
「お母様、帰ってきてくれた……」
エリシャがそう呟いた。
「お母様……」
エリックも声を詰まらせ、反対側からマルティナへ抱きついた。
籠手を外した右手で、マルティナは二人の頬へそっと触れた。
指にはまだ痺れが残り、触れている感覚さえ薄かった。
それでも、二人の温かさだけは分かった。
マルティナは、そのまま二人を抱き寄せた。
生きている。
二人とも、生きている。
二人の髪へ顔を埋めた時、堪えていた涙がようやくこぼれた。
◇
停戦から三週間が過ぎた頃。
死者は葬られ、負傷者の多くは床を離れ始めていた。
停戦から七日後には、帝国軍の先遣隊が到着していた。
敵軍の撤退が確認されたため、本隊は国境手前で進軍を止め、先遣隊だけが周辺の警戒に残った。
停戦成立の概報は、停戦当日のうちに早馬で帝都の軍務府へ送っていた。
詳細な戦況報告書と停戦書の写しも、翌日に発送していた。いずれにも、皇帝への奏上を求める正式な上申書を添えていた。
その日の午後、街道を見張る物見から、早馬の報告が届いた。
領主ピーター・リーメルの一行が、まもなく帰還するという。
ピーターは、戦勝を伝える概報だけを受け取り、詳細な戦況も停戦の内容も知らぬまま帝都を発っていた。
ほどなく、一行が城門をくぐった。
帝都へ連れ出されていた精鋭の騎士たちと良馬が、ピーターの後ろに列をなしていた。
磨かれた鎧。
北方砦の泥を踏んだことのない馬たち。
どれも、砦が最も必要としていた時には、そこにいなかったものだった。
マルティナは、城の広間で夫を迎えた。
人払いをし、残したのは家令一人だけだった。
ピーターは、上機嫌だった。
「よくやった。俺の名代として、見事に領地を守ったそうだな」
第一声が、それだった。
褒めているつもりなのだろう。
だが、その言葉はマルティナの働きも、死んだ者たちの犠牲も、すべて領主である自分の功績の内へ収めようとしていた。
「お聞きします」
マルティナの声は、低かった。
「侵攻の危険は、帝都にいるあなたに幾度も知らせました。国境の斥候の報告も、砦の窮状も、すべて書き送りました。あなたは、なぜ戻らなかったのですか?」
「戻れば、帝都で築きかけた関係を失うところだった。お前なら持ちこたえられると考えた。現に、守り抜いたではないか」
「精鋭の騎士と良馬を、なぜ帝都へ連れ出したのですか? あの兵と馬があれば、農民や猟師を前線に立たせずに済みました。死んだ者の中には、鍬しか握ったことのない男たちがいます」
「待て。まるで俺が殺したような言い方だな」
ピーターの顔から、上機嫌が消えた。
「言っておくが、俺には俺の考えがあった。辺境で兵を抱えているだけでは、リーメル家は先細りになる。帝都に伝手を作ることこそ、領主である俺の仕事だ!」
「その伝手は、燃えた村を建て直してくれるのですか?」
「揚げ足を取るな!」
ピーターは、机を叩いた。
「そうやって……いつもそうだ。お前も、家臣どもも……婿である俺を軽く扱い、領主として認めなかったのはお前たちだろう! 何を相談しても、家臣は俺ではなくお前の顔を見る。俺はこの家でずっと余所者だった!」
叫びには、芝居ではない響きがあった。
長い年月、この人はそれを抱えてきたのだ。
家臣たちが自分を飛び越えてマルティナへ相談すること。
リーメル家に代々仕える古参たちから、余所から来た婿と見られ続けること。
その傷は、本物だった。
マルティナは、目を伏せなかった。
「あなたが軽んじられていると感じていたことに、私は向き合いませんでした。それは私の落ち度です」
ピーターが、虚を突かれた顔をした。
「私は仕事のしやすさを優先して、あなたの居場所を作る努力を怠りました。夫婦の問題については、私にも責任があります」
「な、ならば――」
「ですが」
マルティナは、言葉を継いだ。
「私があなたの苦しみに向き合わなかったことと、あなたが領地の危機に向き合わなかったことは、別の問題です」
「……っ」
「あなたの寂しさは、夫婦で解くべきものでした。ですが、領地の兵と金は、あなたの寂しさを埋めるための道具ではありません。首飾り一つ分の金があれば、北方砦の外壁は塞げました。連れ出された騎士がいれば、前線に立たずに済んだ農民兵がいました。それは、感情の問題ではなく、領主の職務の問題です」
「領主でもないお前が俺を裁くつもりか! この領地の正式な領主は俺だ!」
その怒鳴り声が広間に反響し終わるより早く。
扉の外から衛兵の緊迫した声が響いた。
「帝都より、皇帝直属の監察官がお見えです!」
広間の扉が開いた。
入ってきたのは、旅装の上に皇帝の紋章を帯びた壮年の男と、その随員たちだった。
男は広間の中央まで進むと、携えた命令書を掲げた。
皇帝の印璽を認めた家令が、すぐに片膝をつく。
マルティナもそれに倣った。
一拍遅れて、ピーターも膝をついた。
「皇帝陛下の命により、先般の異民族侵攻、リーメル領軍の運用、ならびに停戦の経緯について調査を行う」
命令書を読み上げる声が、静まり返った広間へ響いた。
「立たれよ」
監察官の言葉を受け、三人は立ち上がった。
ピーターの顔からは、血の気が引いていた。
領軍の運用。
その言葉が何を意味するか、彼にも分かったのだ。
精鋭騎士と良馬の持ち出し。
侵攻の報を受けても帰還しなかったこと。
領主として果たすべきだった職務のすべて。
だが、調べられるのは彼だけではない。
正式な爵位を持たず軍を指揮したことも。
リーメル家の印を押したことも。
異民族と約定を結び、糧食を与え、緊急交易を許可したことも。
すべて、マルティナ自身の判断だった。
領地を救うためだった。
だが、その言葉を盾にするつもりはない。
決断したのが私なら、責任を負うのも私だ。
マルティナは、監察官へ深く一礼した。




