表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

第6話 停戦を結んだ者

会談の前に、守備隊長から報告があった。


「昨日、濁流の向こうに残された捕虜たちですが……後退した敵軍に、再び集められています。敵陣で確認された生存者は、二十名余り」


マルティナは頷いた。


生きている。

まだ、取り返せる。


「会談では、まず捕虜の解放を求めます。ほかの条件は、その後です」


雨の上がった朝の光の下、砦の門が開いた。


砦と敵陣のちょうど中間、泥濘の平原の一点へ、マルティナは馬を進めた。

伴うのは、ハーゲン、護衛四名、書記一名だった。

指定された場所で馬を降り、護衛へ手綱を預けた。


左腕を布で吊るほどではなかったが、左肩は鎧の下で鈍く痛み続けていた。

右手の痺れも、まだ抜けていなかった。


敵陣からも、同じほどの人数が進み出てきた。


先頭の男は、大柄だった。

毛皮の外套は泥に汚れ、頬には古い傷があった。


男の視線が、マルティナの古い鎧を上から下までなぞった。


両陣営の弓兵は、遠く離れた位置で矢をつがえたまま待機していた。

どちらの陣営も、まだ弦を引き絞ってはいない。


机も天幕もなかった。

折れた矢の散らばる泥の上で、二人は立ったまま向かい合った。


男が、口を開いた。


「俺はバジット。この軍を率いる族長だ……お前が領主ではないのか?」

「マルティナ・リーメルと申します。領主ではありません。夫のピーターが子爵です」


バジットの眉が、わずかに動いた。

「戦場にいない男が領主で、ここに立つお前がその妻か。帝国とは妙な国だ」

マルティナは、皮肉には応えなかった。


「捕虜の話から始めます」

マルティナは真っ直ぐに相手を見据えて続けた。

「あなた方の陣には、二十名余りの領民が捕らえられています。全員の解放を求めます」

「いきなり要求を突きつけるか」

バジットは腕を組んだ。


「ならば、こちらの条件も――」

「その前に、私から言っておくことがあります」

マルティナは、バジットの言葉を遮った。


「あなたは昨日、縛った領民を軍の先頭に立たせました。抵抗できない民を盾にするなど、将の誇りを捨てた恥ずべき行為です」


護衛たちの間に、緊張が走った。

バジットは、動じなかった。


「そうだ」

短く、認めた。

「俺は帝国の民より一族の命を選んだ。必要なら、また同じことをする」


謝罪はなかった。

言い訳もなかった。

ただの事実として、男はそれを口にした。


この男にも、飢えから守らねばならない一族がいる。

それは理解できた。

だが、事情を理解することと、その行いを認めることは別だった。


「あなたの事情は理解します。しかし、あなたがしたことを許すつもりはありません」

「許しを求めた覚えはない」

バジットは短く返し、本題へ入った。


「要求は三つだ。一族を国境の向こうまで帰すための食料。安全な退路。負傷者を運ぶ手段」


「こちらの要求は四つです。生存捕虜全員の解放。現在保持している略奪品と家畜の全返還。期限内の撤退。今後、武装してリーメル領へ越境しないこと」


バジットの目が、細くなった。


「すべて返還だと……?」

「すべてです」

「これだけ泥をかぶって、手ぶらで帰れというのか! それならここで戦い抜く」


低い声だった。

交渉のための脅しではあった。

だが、口先だけの言葉でもなかった。

手ぶらで帰れば一族は冬を越せない。

それは、この男にとって戦って死ぬことと大差がない。


マルティナは、引かなかった。


「帝都へ急使は出しています。最初の見積もりでは、援軍の到着まで七日から十日。すでに一日が過ぎました」

「…………」

「あなた方がここに残れば、砦と援軍に挟まれます。それに、砦にはまだ矢が残っています。残された捕虜だけでは、昨日と同じ戦いにはなりませんよ」


バジットは、しばらく黙っていた。

それから、吐き捨てるように言った。


「援軍のことなら、こちらの斥候も掴んでいる。だから俺は、ここに立っている」


虚勢の探り合いは、そこで終わった。


マルティナには、退く敵を追って滅ぼす力はない。

バジットには、砦を落とす力も、援軍到着まで領内に留まる余裕もない。


これは勝者が敗者へ命じる場ではなかった。

双方が、これ以上の損失を避けるために、互いの譲歩を限界まで引き出す場だった。


「捕虜は返す」


バジットが言った。


「労働力としても、もう連れて帰る余裕がない。だが略奪品の全返還は呑めん。あれがなければ、返した捕虜の代わりに俺の一族が死ぬだけだ」


「略奪品は返していただきます」

マルティナは繰り返した。


「あれは、襲われた村々から奪われたものです。一つとして、あなた方の正当な持ち物ではありません」

「ならば、交渉は決裂だな」


決裂すれば、また兵も捕虜も死ぬ。

だが、奪ったものを持ち帰らせれば、略奪が利益になる。

どちらも、認めるわけにはいかなかった。


「では、代わりの道を示します」


マルティナは、書記に目配せした。

書記が、用意していた覚書を広げた。


「撤退中の追撃はしません。国境まで、三日分の糧食を提供します。負傷者を運ぶ荷車も、一定数貸与します」


「三日分の糧食で、冬は越せん」

「ええ。ですから……」

マルティナは、一拍おいて続けた。


「撤退完了から五日後、国境で一度限りの交易を認めます。あなた方は毛皮や羊毛を持参なさい。こちらは穀物と塩を用意します。双方とも参加人数を制限し、武器を携行できるのは護衛だけとします。今回限りの交易は、私の責任で認めます」


書記の羽ペンが、覚書の上を走った。


この条件が受け入れられれば、ひとまず彼らを国境の向こうへ帰すことはできる。

だが、一度の交易だけでは、飢えの根を断つことはできない。

今回をしのいでも、道が閉ざされたままなら、いずれ同じことが繰り返される。


マルティナは、黙ったままのバジットを見据え、さらに続けた。


「その後も交易を続けられるよう、国境に交易場を設けることを皇帝陛下へ上申します。略奪ではなく、交易で冬を越せるのなら、あなた方が武器を持って国境を越える理由は消えます」


バジットはしばらく黙って、マルティナを見た。

会談の初めにあった嘲るような色が、その目から消えていた。


やがて、低い笑いが漏れた。


「敵に食料を渡しながら、次の略奪を防ぐ道まで作るか」

笑いは、すぐに消えた。


「だが、一つ聞く。この約定には、誰が責任を持つ? お前の夫が戻れば、覆されるのではないか?」


もっともな問いだった。

爵位を持たない自分に、どこまでの権限があるのか。

その判断は、いずれ帝国へ委ねなければならない。


「印は、リーメル家が約定を履行する証です。署名するのは、約定を結んだ私です」

マルティナは答えた。

「この約定には、私が責任を負います。夫にも覆させません」


バジットは、マルティナの目を見たまま、頷いた。


「ならば、同じ条件を三通の書状にする。俺の印も押そう。一通は俺が持つ。一通はお前が持て。残る一通は、お前の報告とともに皇帝へ送れ。どちらが約束を破ったか、後で言い逃れられぬようにな」



両陣営の書記が、泥の上に板を渡し、同じ内容の停戦書を三通作成した。


生存捕虜全員の解放。

現在保持している略奪品と家畜の返還。

期限内の撤退と、リーメル領への武装越境の禁止。

追撃の禁止。

三日分の糧食と荷車の貸与。

撤退完了から五日後の、一度限りの国境交易と、その細則。


バジットが、三通に自らの印を押した。


マルティナは、痺れの残る右手で三通に自分の名を署した。

思うように動かない指で、一画ずつ書いた。

その傍らに、リーメル家の印を押した。


署名は、自分が約定の責任を負う証。

家印は、リーメル家が約定を履行する証だった。


双方の書記が署名し、護衛たちがその場の証人となった。


「妙な女だ」

書状を巻きながら、バジットが言った。

「俺はお前の領地を焼き、民を殺した。恨んで当然の相手に、冬を越す道まで示すとはな」


「恨んでいます」

マルティナは、静かに答えた。


「死んだ者たちの名を、私は忘れません。あなたを許す日は来ません。ですが、私の仕事は恨みを晴らすことではなく、領民を守ることです。それで次の村が焼かれずに済むのなら、穀物など安いものです」


バジットは、それ以上何も言わなかった。

書状を懐へ収め、背を向けた。


数歩進んだところで、バジットは足を止めた。


「軍旗の下の女」

背を向けたまま、低い声で続けた。

「お前の夫とやらが、この約定を破ったら、俺は容赦なくまた来る……破らせるな」


「破らせません」

その返答を聞いて、バジットは初めて肩越しにマルティナを振り返った。


しばらくその顔を見た後、わずかに顎を引く。

それだけを返事として、今度こそ自陣へ歩き去った。


停戦書の締結後、生き残った捕虜が砦へ引き渡された。

返還された家畜と物資の確認には時間を要したが、異民族の軍は約定どおり撤退を始めた。


その日の夕刻、砦の指揮を守備隊長に、敵軍の撤退監視をハーゲンに任せ、マルティナは城へ戻った。



城の中庭は、夕日に染まっていた。


先に移送された解放捕虜たちが、避難民たちに迎えられていた。


迎える人々の中に、テオとリネの姿があった。

二人が一人の女へ駆け寄っていく。

泥に汚れ、頬の痩せたハンナが、膝をついて二人を強く抱き締めた。

声にならない声が、三人の間から漏れていた。


そのそばで、エリックが泣きながら笑っていた。


一緒に待とう。

あの日、エリックが幼い兄妹に告げた約束は、守られた。


「お母様!」


マルティナに気づいたエリシャが駆けてきた。

エリックも続いた。

二人とも、顔には疲れが滲み、目の下には濃い影があった。

それでも、まっすぐに立っていた。


「ご報告します」


エリシャが、背筋を伸ばした。


「避難民の名簿は、全村の分が揃いました。食料の配分は家令と侍女長の指示で回っています。負傷者には、湯と布を……その、私も運びました。血の付いた布も、運べるようになりました」


エリックも、たどたどしく続けた。


「僕は……怖かったけど、テオとリネと一緒にいました。二人の手を、ずっと握っていました」


マルティナは、二人を順に見た。


まず、疲れを隠すように背筋を伸ばしている娘へ顔を向けた。

「エリシャ。皆を支えてくれたのですね。よく務めました」


それから、姉の隣で緊張した面持ちをしている息子へ視線を移した。

「エリック。怖かったのでしょう。それでも、二人の手を離さなかったのですね。立派でした」


エリシャの唇が、震えた。

それでも、泣かなかった。

リーメル家の娘として、堪えていた。


マルティナは、右手の籠手に左手を伸ばした。

だが、肩に痛みが走り、留め具を外せなかった。


それを見たエリシャが歩み寄り、震える指で、母の右手の籠手の留め具を一つずつ外していった。


革紐が解かれ、籠手が外れた。

素手が、夕暮れの冷たい空気に触れた。


「もう大丈夫です。ここからは、お母様に任せなさい」

「……お母様」

エリシャの声が震えた。

「本当に、もう大丈夫なのですか……?」

「ええ」


その返事を聞いた途端、エリシャはとうとう泣き声を漏らし、母へ抱きついた。

「お母様、帰ってきてくれた……」

エリシャがそう呟いた。


「お母様……」

エリックも声を詰まらせ、反対側からマルティナへ抱きついた。


籠手を外した右手で、マルティナは二人の頬へそっと触れた。

指にはまだ痺れが残り、触れている感覚さえ薄かった。

それでも、二人の温かさだけは分かった。


マルティナは、そのまま二人を抱き寄せた。

生きている。

二人とも、生きている。


二人の髪へ顔を埋めた時、堪えていた涙がようやくこぼれた。



停戦から三週間が過ぎた頃。


死者は葬られ、負傷者の多くは床を離れ始めていた。


停戦から七日後には、帝国軍の先遣隊が到着していた。

敵軍の撤退が確認されたため、本隊は国境手前で進軍を止め、先遣隊だけが周辺の警戒に残った。


停戦成立の概報は、停戦当日のうちに早馬で帝都の軍務府へ送っていた。


詳細な戦況報告書と停戦書の写しも、翌日に発送していた。いずれにも、皇帝への奏上を求める正式な上申書を添えていた。


その日の午後、街道を見張る物見から、早馬の報告が届いた。


領主ピーター・リーメルの一行が、まもなく帰還するという。


ピーターは、戦勝を伝える概報だけを受け取り、詳細な戦況も停戦の内容も知らぬまま帝都を発っていた。


ほどなく、一行が城門をくぐった。


帝都へ連れ出されていた精鋭の騎士たちと良馬が、ピーターの後ろに列をなしていた。


磨かれた鎧。

北方砦の泥を踏んだことのない馬たち。


どれも、砦が最も必要としていた時には、そこにいなかったものだった。


マルティナは、城の広間で夫を迎えた。

人払いをし、残したのは家令一人だけだった。


ピーターは、上機嫌だった。

「よくやった。俺の名代として、見事に領地を守ったそうだな」


第一声が、それだった。


褒めているつもりなのだろう。

だが、その言葉はマルティナの働きも、死んだ者たちの犠牲も、すべて領主である自分の功績の内へ収めようとしていた。


「お聞きします」

マルティナの声は、低かった。

「侵攻の危険は、帝都にいるあなたに幾度も知らせました。国境の斥候の報告も、砦の窮状も、すべて書き送りました。あなたは、なぜ戻らなかったのですか?」


「戻れば、帝都で築きかけた関係を失うところだった。お前なら持ちこたえられると考えた。現に、守り抜いたではないか」


「精鋭の騎士と良馬を、なぜ帝都へ連れ出したのですか? あの兵と馬があれば、農民や猟師を前線に立たせずに済みました。死んだ者の中には、鍬しか握ったことのない男たちがいます」


「待て。まるで俺が殺したような言い方だな」

ピーターの顔から、上機嫌が消えた。


「言っておくが、俺には俺の考えがあった。辺境で兵を抱えているだけでは、リーメル家は先細りになる。帝都に伝手を作ることこそ、領主である俺の仕事だ!」

「その伝手は、燃えた村を建て直してくれるのですか?」

「揚げ足を取るな!」

ピーターは、机を叩いた。


「そうやって……いつもそうだ。お前も、家臣どもも……婿である俺を軽く扱い、領主として認めなかったのはお前たちだろう! 何を相談しても、家臣は俺ではなくお前の顔を見る。俺はこの家でずっと余所者だった!」


叫びには、芝居ではない響きがあった。


長い年月、この人はそれを抱えてきたのだ。

家臣たちが自分を飛び越えてマルティナへ相談すること。

リーメル家に代々仕える古参たちから、余所から来た婿と見られ続けること。

その傷は、本物だった。


マルティナは、目を伏せなかった。


「あなたが軽んじられていると感じていたことに、私は向き合いませんでした。それは私の落ち度です」


ピーターが、虚を突かれた顔をした。


「私は仕事のしやすさを優先して、あなたの居場所を作る努力を怠りました。夫婦の問題については、私にも責任があります」


「な、ならば――」

「ですが」

マルティナは、言葉を継いだ。


「私があなたの苦しみに向き合わなかったことと、あなたが領地の危機に向き合わなかったことは、別の問題です」

「……っ」


「あなたの寂しさは、夫婦で解くべきものでした。ですが、領地の兵と金は、あなたの寂しさを埋めるための道具ではありません。首飾り一つ分の金があれば、北方砦の外壁は塞げました。連れ出された騎士がいれば、前線に立たずに済んだ農民兵がいました。それは、感情の問題ではなく、領主の職務の問題です」

「領主でもないお前が俺を裁くつもりか! この領地の正式な領主は俺だ!」


その怒鳴り声が広間に反響し終わるより早く。

扉の外から衛兵の緊迫した声が響いた。


「帝都より、皇帝直属の監察官がお見えです!」


広間の扉が開いた。


入ってきたのは、旅装の上に皇帝の紋章を帯びた壮年の男と、その随員たちだった。


男は広間の中央まで進むと、携えた命令書を掲げた。


皇帝の印璽を認めた家令が、すぐに片膝をつく。

マルティナもそれに倣った。

一拍遅れて、ピーターも膝をついた。


「皇帝陛下の命により、先般の異民族侵攻、リーメル領軍の運用、ならびに停戦の経緯について調査を行う」


命令書を読み上げる声が、静まり返った広間へ響いた。


「立たれよ」


監察官の言葉を受け、三人は立ち上がった。

ピーターの顔からは、血の気が引いていた。


領軍の運用。

その言葉が何を意味するか、彼にも分かったのだ。

精鋭騎士と良馬の持ち出し。

侵攻の報を受けても帰還しなかったこと。

領主として果たすべきだった職務のすべて。


だが、調べられるのは彼だけではない。


正式な爵位を持たず軍を指揮したことも。

リーメル家の印を押したことも。

異民族と約定を結び、糧食を与え、緊急交易を許可したことも。

すべて、マルティナ自身の判断だった。


領地を救うためだった。

だが、その言葉を盾にするつもりはない。


決断したのが私なら、責任を負うのも私だ。

マルティナは、監察官へ深く一礼した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ