第5話 リーメル防衛戦
夜明けの光は、靄の底で鈍く濁っていた。
雨は霧のような細さに変わっていたが、砦の前に広がる地面は、昨日よりもさらに深い泥と化していた。
その泥の中を、敵が来た。
先頭を歩かされているのは、縄で数珠つなぎにされた人々だった。
サルバ村や、周りの村々から連れ去られた男と女。
その後ろに、盾を構えた敵の歩兵。
さらに後ろに、騎馬隊が続いていた。
塔の上から、マルティナはそれを見た。
城壁の弓兵たちも、見た。
「奥様、射てません……」
一人の弓兵が、絞るような声を上げた。
引かれていた弓が、わずかに下がった。
「あの女は、サルバ村の者です。顔を知っています。市の日に、卵を売りに来ていた……」
別の弓兵も、弦を緩めた。
「このまま放てば領民に当たります」
マルティナは、捕虜の列を見た。
泥に足を取られ、後ろから槍の柄で押されながら、彼らは一歩ずつ砦へ近づいてくる。
射れば、領民に当たる。
射たなければ、敵はあの人々の後ろに隠れたまま、門の真下まで来る。
城壁の真下へ入られれば、弓の優位は消える。
撃つか、撃たないか。
その二択のどちらも、選べなかった。
だから、選ばなかった。
「捕虜を狙ってはなりません」
マルティナは声を張った。
「狙いを上げなさい! 捕虜の後ろにいる歩兵と騎馬へ射かけます」
守備隊長が振り返った。
「奥様。この風と雨では、後列だけを狙うことなどできません。手前へ落ちれば、捕虜にも当たります」
「分かっています」
マルティナは一度、言葉を切った。
「それでも射ちなさい。できる限り高く。捕虜ではなく、その後ろを狙って」
号令が、城壁を渡った。
矢が、一斉に高い弧を描いて飛んだ。
後列へ届く矢があった。
歩兵の盾に突き立ち、馬の尻をかすめ、隊列の中へ落ちた。
馬が棹立ちになり、後列が乱れた。
だが、すべての矢が届くわけではなかった。
風に流され、手前の泥へ突き立つ矢があった。
捕虜のすぐ横へ落ち、悲鳴を上げさせる矢があった。
縛られた女の腕を、一本がかすめた。
マルティナは、目を逸らさなかった。
自分が命じた矢が、守るべき領民のすぐそばへ降っている。
その光景を、最後まで見た。
敵の前進は、鈍った。
だが、止まらなかった。
◇
「奥様、山側から報告です!」
伝令が塔へ駆け上がってきたのは、その直後だった。
「獣道の伏兵、成功しました。猟師たちが敵を細道の奥まで引き込み、遊撃隊が斜面から突きました。敵の別働隊は、大きく数を減らしています」
「残りは」
「……一部が、突破しました。倒れた仲間を踏み越えて。外郭へ向かっています」
マルティナは塔の縁から、砦の側面を見下ろした。
本砦の外側には、低い石壁と木柵で囲まれた外郭がある。
厩舎と、冬の飼料庫と、予備武器庫。
そこを守るのは、農民兵の部隊だった。
山側の斜面から、泥にまみれた敵兵が現れるのが見えた。
数は多くない。
伏兵が削ったからだ。
だが、農民兵たちにとって、それは背後から湧いた敵だった。
外郭の中で、動揺が波のように広がるのが分かった。
先頭で指揮していた部隊長が、矢を受けて倒れた。
隣の部隊が、負傷者を担いで本砦側へ下がり始めた。
その動きを見た一角が、崩れた。
全軍が退いている。
自分たちだけが残される。
そう思い込んだ者たちが、命令を待たずに後退を始めた。
それを見た隣の隊も、下がり始めた。
雨と怒号の中で、制止の声は届いていなかった。
彼らは臆病なのではなかった。
指揮する者が倒れ、背後に敵が現れ、隣が下がった。
それだけのことが重なれば、陣形は崩れる。
マルティナは判断した。
このまま踏みとどまらせれば、外郭の兵は側面の敵と正面の敵に挟まれ、包囲される。
「外郭を放棄します」
守備隊長が顔色を変えた。
「お待ちください。外郭を捨てれば、予備武器庫と冬の飼料庫を奪われます」
「物資は取り戻せます」
マルティナは言い切った。
「死んだ兵は戻りません。全軍を本砦へ退かせなさい」
守備隊長は、なおも外郭を見た。
昨日、門の内で見た守備兵たちの姿が、マルティナの脳裏に浮かんだ。
冬が近いというのに、薄い外套しか持っていなかった兵たち。
足りない矢を数えながら、それでも砦を守ってきた者たち。
飼料も武器も、今の砦には代えの利かない物資だった。
失えば、冬の守りはさらに苦しくなる。
それでも、兵たちの命と引き換えにはできなかった。
「退却の角笛を。外郭の兵を収容します」
角笛が鳴った。
ハーゲンが、騎士たちを率いて門から出ていくのが見えた。
老騎士は退却する兵の流れとは逆へ進み、最後尾に盾の列を作った。
迫る敵を食い止めながら、農民兵を本砦へ退かせていく。
◇
外郭から本砦へ、兵たちが泥を蹴って戻ってくる。
その流れは乱れ、兵同士が押し合い、負傷者が置き去りにされかけていた。
塔の上からでは、彼らを立て直す声は届かない。
マルティナは塔を降りた。
「奥様から離れるな」
守備隊長の命令で、一人の護衛兵が盾を持って付き従った。
リーメル家の軍旗は、塔の旗竿に残したままにした。
あれは砦全体を示す旗であり、動かすものではない。
代わりに、門前へ携行式の指揮旗を立てさせた。
退いてくる兵たちに、指揮官の居場所を示すためだった。
マルティナは指揮旗のそばに立ち、大きく息を吸い、声を張り上げた。
「走らないで!」
「盾を後ろへ!」
「列を崩さないで!」
「ゆっくり下がりなさい!」
「負傷者を置いていかないで!」
声に気づいた兵たちの流れが、少しずつ形を取り戻していった。
盾が後ろへ向けられ、負傷者が肩を貸されて運ばれていく。
敵の矢が、門前へも降り始めた。
鈍い音がして、すぐ横で指揮旗が傾いた。
旗手が脚を射抜かれ、泥へ倒れていた。
旗が倒れれば、兵は指揮位置を見失う。
マルティナが前へ出ると、護衛兵もすぐに付き従った。
彼女を庇うように盾を掲げ、飛来する矢との間へ立つ。
その盾の陰で、マルティナは倒れかけた旗竿を受け止めた。
濡れた旗は、思っていたより重かった。
両腕で起こし、石突きを門前の差し込み穴へ戻した。
「これを支えてください。旗を下ろしてはなりません」
近くにいた兵が、旗竿を抱えた。
倒れた旗手は、担架班が門内へ運んでいった。
マルティナは指揮旗の横に立ち続けた。
「退路はあります! 慌てず、盾を合わせて――」
左肩に、鉄槌で殴られたような衝撃が走り、言葉が途切れた。
視界が白み、呼吸が止まった。
気づけば、片膝が泥に触れかけていた。
「奥様!」
護衛兵がすぐさま前へ出て、マルティナを庇うように盾を掲げた。
矢だった。
矢尻は鎧に弾かれ、足元の泥に落ちていた。
誰かが自分を狙ったのでさえない、ただの流れ矢。
それが少しでもずれていれば、喉を射抜かれていた。
左腕が痺れて上がらない。
心臓が、鎧の内側で激しく打っている。
……死にたくない。
その言葉が、初めて言葉の形で胸に浮かんだ。
逃げたい。
この泥と血の中から逃れ、鎧を脱いで、城へ帰りたい。
エリシャとエリックの顔を、もう一度見たい。
二人の名を思っただけで、胸の奥が締めつけられた。
けれど、門へ退けば、ここにいる兵たちは指揮官を失う。
自分だけが帰るために、彼らを置いてはいけない。
「門内へお下がりください!」
護衛兵の声に、マルティナは首を振った。
震える膝を押さえつけるように、泥を踏みしめる。
「……列を崩さず、下がりなさい」
声は掠れていた。
それでも、出した。
指揮旗のそばから、一歩も退かなかった。
◇
外郭の最後尾が、門前まで下がってきた。
ハーゲンたちの盾の列が、敵を押し返しながら近づいてくる。
その混乱の中だった。
一人の敵兵が、盾の列の隙間を抜けた。
マルティナのそばにいた護衛兵が、すぐに前へ出た。
盾を構え、敵兵の剣を受ける。
だが、踏み込んだ足が泥に沈んだ。
敵兵は盾へ体当たりし、護衛兵を指揮旗のそばへ突き倒した。
旗を支えていた兵も、倒れてきた護衛兵を避けきれずに体勢を崩す。
指揮旗が大きく傾いた。
敵兵の視線が、その横に立つ鎧の女へ移った。
一瞬で、彼女が指揮官だと悟った顔だった。
男が剣を振り上げ、マルティナへ踏み込んだ。
マルティナは、右手で腰の剣を抜いた。
敵を斬るためではなかった。
そんなことができるとは、思ってもいなかった。
ただ、自分の首へ落ちてくる刃を、防ぐためだった。
鉄と鉄がぶつかる音が、頭の中で弾けた。
衝撃が右腕を駆け上がり、指の感覚が飛んだ。
剣を取り落としかけ、泥に足を取られ、膝が崩れかけた。
受けられたのは、その一撃だけだった。
次を受け止める力は、もうどこにも残っていなかった。
剣を持っただけで、兵士になれるわけではない。
それを、腕の痺れが教えていた。
「うぉぉぉ!」
敵兵が、二撃目を振り上げた。
マルティナは剣を上げようとした。
だが、痺れた右手は言うことを聞かなかった。
指に力が入らず、剣先が泥へ沈みかける。
避けなければならない。
そう思うのに、足も動かなかった。
振り上げられた刃が、鈍い朝の光を弾いた。
それが、自分の頭上へ落ちてくる。
その寸前、横合いから剣が走った。
敵兵の体が大きく揺らぎ、そのまま泥の中へ倒れた。
剣を振るったのは、ハーゲンだった。
退却兵の最後尾を守りながら戻ってきた老騎士が、マルティナと敵兵の間へ割って入っていた。
「奥様!」
ハーゲンが腕を差し伸べた。
マルティナは、その腕をつかんだ。
支えを借りて立ち上がると、すぐに自分の足で踏みとどまった。
「助かりました、ハーゲン」
膝は震えていた。
左肩は脈打つように痛み、剣を握った右手は痺れたままだった。
それでも、指揮旗の横から動かなかった。
「門を閉じるのは、最後の兵を収容してからです」
マルティナは開いた門の脇に立ち、退いてくる兵たちを見届けた。
やがて、ハーゲンと最後尾の兵たちが門をくぐった。
マルティナも護衛兵とともに門内へ退き、指揮旗を中へ移させた。
「閉じなさい」
本砦の重い扉が、軋みながら閉じた。
◇
正面では、捕虜を先頭にした敵軍が、なおも前進を続けていた。
高い軌道の矢が後列を乱してはいたが、止めるには至っていない。
捕虜の列は、一歩ずつ、砦へ近づいてくる。
そして、その進路の先には、あの場所があった。
北の農道の脇、緊急放水路の出口。
上流の貯水堰を開けば、水が流れ込む地点。
マルティナは門楼へ上がり、泥の戦場を見渡した。
捕虜の先頭が、放水路の先を越えた。
列の大半が、続いて通過していく。
その後ろから、敵の歩兵と騎馬隊が低地へ入り始めた。
だが、完全ではなかった。
捕虜の最後尾、数名がまだ危険な範囲に残っていた。
あと少し待てば、彼らも抜ける。
だが、その間に敵の先頭は門へ近づきすぎる。
早く開けば、あの数名を濁流に巻き込む。
完全な瞬間は、来ない。
来ないのだと、マルティナは理解した。
「角笛! 三度!」
伝令役が、角笛を口に当てた。
一度。
二度。
三度。
湿った空気を裂いて、音が上流の山あいへ渡っていった。
しばらく、何も起きなかった。
合図が届かなかったのか。
そう思いかけた時、地鳴りに似た音が、上流から近づいてきた。
濁流が来た。
緊急放水路から溢れ出した泥色の水が、北の農道の脇へ流れ込み、捕虜の列と後続の敵兵との間を押し割った。
水は、敵だけを選ばなかった。
最後尾に残っていた捕虜の数名が、足を取られて泥の中へ倒れた。
後続の敵歩兵が押し流され、騎馬隊の馬が悲鳴を上げて暴れた。
馬の脚は泥へ沈み、隊列が音を立てて崩れていった。
捕虜の列と、後続の敵兵が切り離された。
一時的に。
濁流の勢いは、いずれ弱まる。
敵も、渡れる場所を探して動き始める。
使える時間は、長くない。
マルティナは、この瞬間を待っていた。
◇
「救出班! 出なさい!」
門の内側には、戦闘が始まる前から、その一隊が待機していた。
大盾を持つ兵。
縄を切る短刀と鉈を持つ兵。
担架を抱えた運搬班。
その中に、あの若い兵士がいた。
サルバ村の出身で、指揮所の床に膝をついて妹の救出を懇願した男。
マルティナは彼に、敵を分断した時に救出隊を出すと告げていた。
「盾を前へ。縄を切った者から、本砦へ連れ戻してください」
本砦の扉が再び開いた。
救出班が、大盾を横に並べて泥の中へ駆け出していく。
濁流の手前で足を止めた捕虜の列へ、盾の壁が近づいていく。
混乱した敵陣から放たれる矢が、盾に突き立った。
兵たちが、縄を切り始めた。
切られた者から、盾の陰を伝って門へ走る。
泥に足を取られて立てなくなった男を、兵が肩に担いだ。
若い兵士は、泥にまみれながら捕虜の顔を一人ずつ確かめ、妹の名を叫び続けていた。
濁流の音。
兵の怒号。
馬の悲鳴。
その中で、返事はなかなか聞こえなかった。
やがて、かすかな声が返った。
若い兵士は列の中ほどへ駆け寄り、泥に膝をついた。
縄を切り、泥にまみれた妹の肩を抱き起こした。
震える手で、顔にへばりついた泥を必死に拭ってやった。
妹は、生きていた。
だが、全員ではなかった。
濁流の向こう側に、取り残された捕虜がいた。
救出班が届く前に、流れ矢を受けて泥へ倒れた者がいた。
水際で足を取られ、救出班の手が届かなかった者がいた。
若い兵士は、妹を仲間へ預けると、濁流の縁へ向かおうとした。
水の向こうから、助けを求める声が聞こえていた。
だが、濁流の向こうでは、敵の後続が体勢を立て直し始めていた。
馬を泥から引き出し、盾の列を組み直している。
門楼から戦況を見ていたマルティナは、伝令役へ命じた。
「ここまでです。救出班を戻します。退却の角笛を」
退却を告げる角笛が、短く二度鳴った。
合図を聞いた救出班長が、大盾の陰から声を張り上げた。
「救出班、退け! 門へ戻れ!」
若い兵士は、濁流の縁で足を止めた。
水の向こうでは、まだ助けを求める者が手を伸ばしていた。
それでも、救出班長の声に、若い兵士は振り返った。
開いた門の奥には、指揮旗が立っていた。
若い兵士は、もう一度だけ水の向こうを見た。
そして、妹のもとへ引き返した。
救出班は、救い出した捕虜たちを大盾の内側へ入れ、門へ向かって退き始めた。
泥に足を取られながらも、大盾の列は少しずつ本砦へ近づいた。
若い兵士も妹の肩を支え、盾の陰を伝って門をくぐった。
救出班の最後の一人が門内へ入ったのを確かめて、マルティナは命じた。
「閉じなさい!」
本砦の重い扉が、軋みながら閉じた。
◇
その日の攻勢は、そこで尽きた。
濁流を浴びた騎馬隊は、泥に馬の脚を取られたまま動けずにいた。
獣道から来た別働隊は、伏兵と外郭の戦闘で、もう部隊の形を保っていなかった。
本砦の門は閉じ、城壁の弓兵は、まだ矢筒に矢を残していた。
敵陣の奥では、指揮官らしき騎馬の男が、戦場を見渡していた。
男は、泥に沈んだ馬たちを見た。
山側から戻ってくる、数を減らした別働隊を見た。
それから、閉ざされた砦の門を、じっと見据えていた。
やがて、男の剣が下ろされた。
撤退の銅鑼が、湿った空気を震わせた。
異民族の兵たちが、動ける負傷者を支え、馬を泥から引き出しながら、後退を始めた。
「敵が退きます!」
守備隊長が、城壁の上から声を上げた。
「今なら追撃できます!」
マルティナは首を振った。
「こちらも負傷者を抱えています。追撃はしません」
「ですが、敵を逃せば――」
「この軍の目的は、敵を滅ぼすことではありません」
マルティナは答えた。
「領地と領民を守ることです。負傷者を収容し、城壁を固め直してください」
異民族の軍は、射程の外へ退いていった。
北方砦は、守られた。
だが、歓声は上がらなかった。
兵たちは城壁にもたれ、泥の上に座り込んだ。
担架が行き交い、死んだ者へ布がかけられた。
誰かが低く、仲間の名を呼んでいた。
雨だけが、静かに降り続けていた。
◇
夜になった。
戦いの音が消えた指揮所で、マルティナは一人、机に向かっていた。
左肩には手当ての布が巻かれていた。
矢は鎧に弾かれたが、その下の肉は黒く腫れていた。
右手には、敵の剣を受けた痺れが、まだ芯のように残っていた。
机の上には、書記がまとめた名簿があった。
死者。
負傷者。
行方の分からない者。
マルティナは、痺れの抜けない右手の指先で、死者の欄に並ぶ名前を一つずつ、なぞるように追った。
外郭からの退却に間に合わなかった兵。
獣道で伏兵として戦った猟師。
捕虜救出の最中に矢を受けて倒れた兵。
命令を出していた時、彼らはまとめて呼ばれていた。
外郭の一隊。
遊撃隊。
救出班。
名簿の上では、一人ずつ、名前があった。
名前の横には短い記載があった。
オルデン村――妻と息子二人。
ベルク村――母一人。
猟師――山の小屋に老いた父。
マルティナの指が、一つの名前の上で止まった。
次の名前へ進もうとした。
指は、動かなかった。
名簿の文字の上に、一滴の雫が落ちた。
黒いインクが、わずかに滲んだ。
マルティナは、名簿を閉じられなかった。
砦は守った。
領民の一部は、救い出した。
それでも、救えなかった命が、この紙の上に並んでいた。
勝ったという言葉は、口にできなかった。
この名前を覚えておくこと。
それもまた、命令を下した者が負うべき責任だった。
マルティナは夜が更けるまで、一人で名前を読み続けた。
◇
翌朝、雨が上がった。
雲の切れ間から、薄い光が泥の戦場へ差していた。
砦の前には、深い泥濘と、折れた矢と、捨てられた武器が残されていた。
城壁の見張り兵が、声を上げた。
「敵陣から、騎馬一騎!」
マルティナは城壁へ上がった。
泥の平原の向こう、異民族の軍の陣から、一騎の使者がゆっくりと近づいてくる。
その手には、白い旗が握られていた。




