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第4話 軍旗の下の女

泥が、また一頭の馬の脚を掴んだ。


バジットは手綱を引き、隊列の乱れを目の端で確かめた。

北の農道と呼ばれるこの道は、雨を吸って底なしの粘土と化していた。

蹄が沈み、抜くたびに重い音がした。

馬たちは鼻息を荒らげ、兵たちの外套は泥と雨で黒く濡れていた。


その道の果てに、砦が見えた。


北方砦。

古い石造りの、決して大きくはない砦だった。

だが、その一番高い塔に、旗が翻っていた。


雨風を受けて鳴る、この地を治める家の軍旗。


その下に、人が立っていた。


古びた鎧をまとった、女だった。

遠目にも、それは分かった。


砦の城壁の上では、弓兵たちが一斉に弓を持ち上げるところだった。

矢は、まだ放たれていない。

射手たちは狙いを定めたまま、動かない。


バジットの隊は、砦の弓が届く距離の、ちょうど端へ入っていた。


「族長、ご命令を」


若い部隊長が馬を寄せてきた。

目が血走っていた。


「門まで一気に駆ければ、一斉射を受けるのは一度か二度です」


バジットは答えず、砦を見た。


城壁の高さ。

弓兵の間隔。

崩れた矢狭間と、まだ使える矢狭間の位置。

門前の泥は、遠目では深さすら分からなかった。

そして、塔の上の女。


弓兵の列は、乱れていなかった。

射程へ入った獲物を前にして、勝手に矢を放つ者が一人もいない。

全員が、命令を待っていた。


「退け」


バジットは言った。


「射程から出ろ。今日は攻めない」


部隊長が目を剥いた。


「砦は目の前ですぞ」


「だからだ」


バジットは塔の上の女から目を離さなかった。


「あの女は、俺たちがここまで来るのを待っていた」


疲れ切った馬で、深さも分からぬ泥の中を駆けて門へ取りつく。

その間、整った弓兵の列から矢が降る。

隊列を整え直す前に、崩される。


「後列から反転。隊形を崩すな」


軍勢は、追われる形を見せずに、ゆっくりと下がった。

砦からは、一本の矢も飛んでこなかった。

追撃の騎兵が門から出てくることもなかった。


それすらも、命じられているのだとバジットは思った。

矢を無駄にせず、兵を温存し、こちらが泥の中で消耗するのを待つ。


雨の中、軍旗だけが鳴っていた。



夜営地は、砦の弓の届かない丘の裾に置かれた。


天幕を張る地面さえ、泥だった。

杭は緩み、焚き火は煙ばかりを上げた。

馬の脚を洗う水は乏しく、飼料の袋は軽くなる一方だった。


バジットは焚き火の前で、ここまでの道のりを順に思い返した。


最初の村々を除けば、その後に踏み込んだ村には、人影がなかった。

穀物庫は空だった。

家畜小屋も空だった。

井戸は毒を入れられてこそいなかったが、水桶も、縄も、釣瓶までも持ち去られていた。

軍の荷縄と革袋を使えば汲めないことはなかったが、馬と兵のすべてへ行き渡らせるには、あまりに手間がかかった。


川へ出れば、橋が落ちていた。

川岸には、南へ向かう荷車の轍と無数の足跡が残っていた。

橋は、最後の避難民を渡した後で落とされたらしい。


東へ回れば、低地に水が引き入れられ、馬の腹まで沈む沼になっていた。

西の林道は、何本もの大木が幹を絡ませ合って倒れ、馬はおろか人が越えるのも難しかった。

斧を入れれば半日仕事、その間に背後を突かれる。


残された道は、北の農道だけだった。

そして、その農道が、この泥だった。


馬の消耗。

引き延ばされた隊列。

底をつき始めた飼料。

奪えなかった穀物。

雨に濡れて震える兵たち。


バジットは、焚き火の煙の向こうの闇を見た。


「現場の混乱で、ここまで同じ動きはできない」


村ごとの判断なら、必ずどこかにほころびが出る。

穀物を運びきれずに残す村。

橋を落とし損ねる村。

水桶を置き忘れる家。

それが、一つもなかった。


誰か一人が、村の避難、物資の撤収、橋の破壊、水門、倒木を、まとめて命じている。


「あの塔の女ですか」


そばに座っていた部隊長の一人が言った。

声に、軽さがあった。


「領主の妻でしょう。物見の話では、この地の領主は都にいるとか。明日、あれを捕らえれば、砦の兵も揺らぎます」


「違う」


バジットは短く言った。


雨の向こうに、砦の灯りが滲んでいた。

その上に、闇に溶けかけた軍旗の影があった。


「あれが、この土地を泥沼に変えた指揮官だ」


昼の弓兵の列を思い出していた。

女の下で、仕方なく従っている兵の動きではなかった。

命令が末端まで通り、末端がそれを信じている軍の動きだった。


部隊長は口をつぐんだ。


バジットは、それ以上その女を語らなかった。

称える言葉も、侮る言葉も、どちらも不要だった。

脅威は、脅威として測ればいい。



天幕の中で、バジットは濡れた外套を脱いだ。


報告が、順に届いた。


脚を傷めた馬、十七頭。

うち三頭は、もう荷も引けない。

残りの飼料は四日分。

兵へ配れる食料は、切り詰めて六日分。

帝国の援軍が最短で到着するまでの予測、七日から十日。


数字は、どれも冷たかった。


バジットは目を閉じ、一族の野営地を思った。


二年続いた干ばつで、牧草地は色を失った。

疫病が羊と馬を倒し、冬の乳と肉が消えた。

そこへ、古い国境紛争を理由とした帝国の交易封鎖が重なった。

塩も穀物も、正規の道からは入らなくなった。


天幕の中で、老人たちは自分の椀の粥を減らし、子供の椀へ移していた。

それでも、冬を越すには足りなかった。


南へ移住する道は、考えた。

だが、南の牧地はすでに別の部族が押さえており、戦わずに入れる土地ではなかった。

帝国へ臣従を願い出る道も、考えた。

封鎖を敷いた当の帝国が、冬までに封鎖を解いて穀物を回す保証はどこにもなかった。

他部族への救援も、同じ干ばつの下では望めなかった。


どの道も、間に合わない。


そうバジットは判断した。

それが正しい見立てだったのか、確かめる術はもうない。

ただ、族長として、彼はそう決めた。


帝国の辺境から、奪う。


村を襲い、抵抗する者を殺した。

働ける成人を、労働力と交渉の材料として捕らえた。

帝国の民から見れば、自分たちは家と家族を焼き払う侵略者だった。


それを、否定するつもりはなかった。


「族長。捕虜と接収物の報告です」


部隊長が入ってきた。


「穀物と家畜は、軍の荷として一括で管理しています。兵の個人的な持ち出しは、二件。命令どおり、鞭と没収で処分しました」


「捕虜は」


「成人が四十三名。負傷して歩けない者が五名」


「捕虜への手出しは」


「禁令どおり、ありません。女への乱暴も、私刑も」


バジットは頷いた。


軍として奪う。

兵の一人一人が、獣として奪うことは許さない。

それが崩れれば、軍は略奪の群れになり、群れは冬を越す前に自壊する。


だが、と焚き火の火を見ながら思った。


規律を守っているから、正しいわけではない。

奪っている事実は、何も変わらない。


「正しいとは思っていない」


バジットは、誰へ言うともなく言った。

部隊長が顔を上げた。


「だが、何もしなければ、俺たちの子供が死ぬ」


部隊長は何も答えず、頭を下げて天幕を出ていった。



軍議は、夜半に開かれた。


部隊長たち、斥候頭、馬を預かる長が、燭台一つの明かりの下に集まった。


数字が、卓の上に並べられた。

奪えた穀物は、見込みの一割にも満たない。

このまま何も得ずに引き返せば、一族は冬を越せない。

かといって、ここで日数を費やせば、馬は潰れ、帝国の援軍が背後の退路を塞ぐ。


攻めるなら、早いほどいい。

退く道を捨てたバジットに、残された答えは一つだった。


「明日の夜明け、砦を攻める」


バジットは言った。

異を唱える者は、いなかった。


そこへ、斥候頭が進み出た。


「族長。一つ、ご報告が」


「言え」


「山側の斜面で、新しい人と馬の足跡を見つけました。この雨の中でも、まだ崩れていない。半日と経っていません。足跡は、地図にない細い獣道へ続いています」


バジットは、卓の上の粗い地図を見た。

獣道が本当に山腹を抜けているなら、砦の側面へ回り込める。


罠の可能性は、頭をよぎった。

この土地の女は、ここまでのすべてを仕組んできた。

だが、正面だけを攻めれば、あの整った弓兵の列を、泥の中から真っ直ぐ登ることになる。


「別働隊を出す。夜明けの正面攻撃に合わせて、獣道から側面を突け」


賭けだった。

それを承知で、バジットは賭けた。


軍議が終わりかけた時、部隊長の一人が口を開いた。


「族長。正面を攻めるなら……帝国人の捕虜を、前へ出しましょう」


天幕が、静かになった。


「成人だけを縄でつなぎ、先頭を歩かせます。砦の弓兵も、自分たちの領民へは矢を放ちにくいはずです」


バジットは、すぐには答えなかった。


天幕の布を、雨が叩いていた。


それが何を意味するかは、分かっていた。

戦術の名を借りて、自軍が浴びるはずの矢を、縛られた他国の民に受けさせる。

抵抗する者を殺すのではない。

抵抗できない者を、自分たちの前へ立たせる命令だった。


バジットは、手首の粗末な編み紐に指をかけた。

幼い娘が、色の褪せた毛糸で編んだものだった。

出立の朝、これを結んだ小さな手は、以前よりも細くなっていた。


強く、一度だけ握った。


「歩けない者は外せ。足を止めれば、列全体が崩れる」


それが唯一の理由だったのか、バジット自身にも分からなかった。


「残る成人の捕虜を、前へ出せ」


誰も、何も言わなかった。

書記役の男が、羽ペンを走らせる音だけがした。

部隊長たちは目を伏せ、順に天幕を出ていった。


バジットは、最後まで一人で燭台の火を見ていた。



夜明けの空は、灰色だった。


雨は霧のような細さに変わっていたが、地面は昨日よりさらに深くぬかるんでいた。

朝靄が、泥の上を低く這っていた。


軍勢が、夜営地を出た。


正面部隊の先頭には、縄で数珠つなぎにされた捕虜たちが歩かされていた。

サルバ村や、その周りの村々で捕らえられた男と女たちだった。

恐怖に足をもつれさせる者を、後ろの兵が槍の柄で押した。

泣き声は、靄の中でくぐもって聞こえた。


その後ろに、盾を構えた歩兵。

さらに後ろに、騎馬隊。


山側では、別働隊がすでに獣道へ向けて発っていた。

靄に紛れ、音を立てずに。


バジットは本隊の中央で馬を進めながら、手首の編み紐へもう一度だけ触れた。

回想はしなかった。

ただ、自分が何のために泥の中を進むのかを、確かめた。


「俺たちを悪鬼と呼ぶなら、呼ばせておけ」


誇りではなかった。

そう呼ばれる側に立つと、自分で決めただけだった。


バジットは剣を抜いた。


「前進」


捕虜を先頭にした軍勢が、泥を踏んで砦へ向かった。


朝靄の向こうに、砦の輪郭が浮かんだ。


一番高い塔に、軍旗が翻っていた。

昨日と同じ、この地を治める家の旗だった。


そして、その下に、昨日と同じ古い鎧の女が立っていた。


縛られた領民たちを先頭に押し立てた軍勢が、泥を渡って迫っていく。

それを見下ろす位置から、女は動かなかった。


表情は、見えなかった。

何を思っているのかも、分からなかった。


ただ、動かなかった。


バジットは、軍旗の下の女を見据えたまま、馬を進めた。


泥濘を挟み、奪う者と守る者が、向かい合っていた。

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