第3話 子爵夫人の軍旗
北方砦は、思っていたよりも静かに、そして深く傷んでいた。
マルティナが率いる部隊が砦の門をくぐったのは、出陣の翌日の昼前だった。
外壁には、指が二本入るほどの亀裂が斜めに走っていた。
矢狭間の一部は縁が崩れ、射手が身を隠せない。
兵舎の屋根には桶が並び、昨夜からの雨が滴り落ちていた。
武器庫に残された矢束は、明らかに数が足りなかった。
そして門の内に整列した守備兵たちは、冬が近いというのに、薄い外套しか持っていなかった。
マルティナは馬を降り、外壁の亀裂へ歩み寄った。
籠手を外し、素手で亀裂へ触れた。
隙間へ差し込んだ指が、第二関節まで入った。
亀裂の奥は、雨水に濡れてひどく冷たかった。
一冬越せば、ここから崩れる。
首飾り一つ分の金があれば、塞げた亀裂だった。
マルティナは目を閉じなかった。
亀裂の深さを指で測り、それを覚えた。
怒りは、あとで使う。
「奥様。よくぞおいでくださいました」
駆け寄ってきたのは、砦を預かる守備隊長だった。
四十がらみの、日に焼けた実務家の顔をした男だった。
彼はマルティナの署名した命令書のことを、すでに早馬で知らされていた。
それについては何も言わず、報告だけを始めた。
「国境沿いで襲われた村は、確認できただけで四つ。サルバ村を含め、住民の避難はおおむね進んでおります。ただし、逃げ遅れた者もおります」
「敵は」
「複数の騎馬隊に分かれて動いております。斥候の報せでは、村から連れ去られた捕虜がいるとのこと」
守備隊長は一度言葉を切り、率直に続けた。
「奥様。包み隠さず申し上げます。この兵力で野戦に出れば、半日も持ちません」
マルティナは亀裂から手を離し、籠手を嵌め直した。
「ですから、敵の望む場所では戦いません」
◇
指揮所は、砦の中で最も雨漏りの少ない一室だった。
粗末な長机の上に、領地北部の地図が広げられた。
守備隊長、騎士隊の将校たち、ハーゲン、そして村々から集まった農民兵の代表者たちが、机を囲んだ。
マルティナは地図の上で、これからの戦い方を示した。
サルバ橋を落とすこと。
東の低地へ水を引き入れること。
西の林道を倒木で塞ぐこと。
敵の進路を、北の農道一本へ絞ること。
若い将校が、まず声を上げた。
「お待ちください。サルバ橋を落とせば、我々の退路も狭まります」
「橋は、最後の避難民が渡った後に落とします。敵の騎馬が一度に川を渡れる場所をなくすためです。我々の退路は、砦の南の街道です。北へ退く戦は、初めから考えていません」
別の将校が地図を指した。
「敵を北の農道へ誘導するとのことですが、あの道を抜かれれば、砦の側面へ回り込まれます」
「晴れていれば、そうなります」
マルティナは、北の農道を指でなぞった。
「この道の下には粘土層があります。雨が二日続けば、馬の脚が沈みます。重装の騎兵ほど動けなくなります。昨夜から降っているこの雨は、今夜も止みません」
「なぜ言い切れるのです」
「この時期の北風と、あの山にかかる雲の形は、長雨の印です。この土地で三十年、空を見てきました」
将校たちが顔を見合わせた。
一人が、なおも食い下がった。
「しかし、敵も泥濘に気づけば、別の道を選びます」
「選ばせません」
マルティナの指が、地図の東へ動いた。
「東の古い水門を開き、低地へ水を引き入れます。西の林道は、オルデン村の木こりたちに倒木で塞がせます。川と、水と、倒木。敵に残る道は、北の農道だけです」
マルティナの指が、農道の上流へ動いた。
「ただし、上流の貯水堰は閉じたまま残します。敵の主力が農道へ入りきった時に開き、水を横から流し込んで、後続と分断します」
「そこまで水が回るのですか」
「雨量次第です。成功する保証はありません。使えるなら使う、最後の手段です」
指揮所が静かになった。
先ほどまで反論していた将校たちも、今は地図を覗き込み、それぞれの持ち場と照らし合わせていた。
「私は、敵の全軍を正面から打ち破るつもりはありません」
マルティナは一同を見渡した。
「敵の速さを奪い、隊列を引き延ばし、分断します。分かれた一隊ずつを、止めます」
◇
兵力の割り振りは、その場で決まった。
老兵と砦の守備兵は、外壁の応急補修と砦の防衛へ。
若い兵と騎乗できる者は、敵の側面を突く遊撃隊へ。
そして農民兵たちには、槍を持たせて正面へ並べる代わりに、それぞれの土地と技能に応じた役目が与えられた。
「オルデン村の皆さんには、西の林道をお願いします」
マルティナは、木こりたちの代表へ向き直った。
「木を一本倒すだけでは、敵に除けられます。幹同士が絡み、馬が越えられず、半日では片づけられない場所へ、選んで倒してください」
「ベルク村の皆さんは二手に分かれてください。半数は東の古い水門を開き、低地へ入れる水量を調整してください」
マルティナは地図の上流を指した。
「残りは貯水堰で待機を。こちらは、私の合図があるまで絶対に開けてはいけません」
「上流の堰へは、東の管理道を使えます」
ベルク村の代表が地図を覗き込んだ。
「東が塞がれたら?」
「西の旧管理路があります。今は草に埋もれていますが、道そのものは残っています」
「北の農道沿いの猟師の方々は、遊撃隊の案内を。泥濘を避けられる獣道は、地図には載っていません」
将校の一人が、遠慮がちに尋ねた。
「農民に、そこまで重要な役目を任せるのですか」
「騎士なら、彼らより速く馬を走らせることはできるでしょう」
マルティナは答えた。
「ですが、どの畑が雨で沈み、どの林に古い道が残っているかは、そこに暮らす者にしか分かりません」
オルデン村の代表が、太い腕を組んで進み出た。
「木を倒すだけなら、日が暮れる前に終わらせます」
すかさず、ベルク村の代表が鼻を鳴らした。
「木を倒すのは誰にでもできる。水は入れすぎれば味方まで沈む。水門も堰も、俺たちに任せてもらいます」
「誰にでもできるだと?」
二人の間に、いつもの火花が散った。
将校たちが困惑する中、マルティナはそれを止めなかった。
「では、どちらが先に敵の馬を止められるか、競ってください」
両村の代表は一瞬黙り、それから互いを睨んだまま、ほとんど同時に頭を下げた。
「承った」
「日暮れまでに、だ」
二人が肩を怒らせて出ていくのを、将校たちは呆気にとられて見送った。
守備隊長だけが、地図をもう一度見直していた。
やがて、静かに言った。
「……この作戦なら、敵の数が我々の三倍でも、砦へ一度に押し寄せることはできません」
「それで十分です」
マルティナは答えた。
「敵の数ではなく、同時に戦う数を減らします」
◇
その男が指揮所へ飛び込んできたのは、配置の詰めに入った時だった。
血と泥にまみれた若い兵士だった。
入口の衛兵が止める間もなく、彼は長机の前で床に膝をついた。
「お願いします……救出隊を、出してください」
サルバ村の出身だという。
連れ去られた捕虜の中に、家族がいた。
「敵はまだ遠くへ行っていません。捕虜を連れているから、足が遅い。今なら追いつけます。どうか、十人……十人だけでも貸してください」
「連れ去られた中に、私の妹がいるのです」
指揮所が静まり返った。
マルティナの脳裏に、城へ残した二人の顔が浮かんだ。
エリシャ。
エリック。
連れ去られた娘にも、こうして膝をついて訴える兄がいる。
帰りを待つ家族がいる。
母としての答えなら、決まっていた。
しかしマルティナは、地図の上の敵の動きを見た。
朝の斥候が確認した地点と、先ほど届いた報告の地点を見比べた。
捕虜を連れた隊の進みは、遅かった。
遅すぎた。
略奪を終えた騎馬隊なら、とうに国境の向こうへ消えていていい距離だった。
それがまだ、追いつける場所にいる。
追わせるためだ。
少数の救出隊を誘い出し、囲んで潰すための囮。
マルティナは机の下で、父の鎧の革紐を握った。
革が掌へ食い込むまで、握った。
「今は、救出隊を出せません」
兵士の顔が歪んだ。
「今は……今は、とは、いつまでです」
「敵の隊列を分断するまでです」
マルティナは地図の北の農道を指した。
「敵の騎馬を泥濘へ誘い、先頭と後方を切り離します。捕虜を連れた隊が孤立した時に、救出隊を出します」
「それまで、妹が生きている保証があるのですか」
マルティナは答えなかった。
答えられなかった。
伏せかけた視線を、地図へ戻した。
その沈黙の意味を、兵士は正しく受け取った。
若い目に、涙が盛り上がった。
「今すぐ助けられるかもしれないのに……見捨てるのですか」
「見捨てるのではありません」
マルティナは一度、言葉を切った。
「ですが、今は救えません。今動けば、救出に向かった兵も、砦に残る兵も失います」
「あんたには……血も涙もないのか」
「口を慎め!」
ハーゲンが一喝し、兵士の肩を掴もうとした。
マルティナは手を上げて、それを制した。
「妹御の名前と特徴を、書記へ伝えなさい」
兵士が顔を上げた。
「救出隊へ渡す捕虜名簿に、妹御の名前と特徴を加えます」
兵士は、感謝しなかった。
納得もしていなかった。
唇を強く噛み、一礼とも呼べない角度で頭を下げると、指揮所を出ていった。
マルティナは、その背中を呼び止めなかった。
肩に、鎧が沈み込んでくるのを感じた。
鉄の重さではなかった。
呼吸が、少しだけ浅くなった。
革紐を握っていた掌には、紐の跡が赤く残っていた。
◇
砦全体が、動き始めた。
外壁の亀裂には木枠が組まれ、石と土嚢が詰められていく。
矢束が武器庫から城壁へ運ばれ、油の壺が並べられた。
兵士たちは交代で、立ったまま冷えた粥をかき込んだ。
歩けない負傷者は、荷車でリーメル城へ送り出された。
西へ向かうオルデン村の木こりたちの斧が、遠くで鳴り始めた。
ベルク村の農民たちは二手に分かれ、一方は鍬と杭を担いで東の古い水門へ走り、もう一方は上流の貯水堰へ向かった。
上流へ向かう者たちは、マルティナからの伝令が届くまで堰を開かないよう、念を押されていた。
猟師の老人が枝で泥の上に獣道を描き、遊撃隊の騎兵たちはそれを囲んで覗き込んでいた。
その様子を城壁の上から見ていたマルティナへ、守備隊長が歩み寄った。
「奥様。申し上げたいことがございます」
「何でしょう」
「作戦は、我々が完遂します。奥様は城へお戻りください」
マルティナは守備隊長を見た。
「なぜです」
「万が一、この砦が落ちれば、奥様まで失われます。城には若君と姫君がおられる。この作戦を立てられるお方を、ここで失うわけには参りません。領地のためにも、お戻りください」
侮りの色は、どこにもなかった。
作戦を認めたからこその進言だった。
マルティナは、一瞬だけ目を伏せた。
城の姉弟を思った。
エリシャは気負いすぎていないか。
エリックは怯えて部屋に閉じこもっていないか。
今すぐ馬を駆けさせて、二人の顔を確かめたかった。
それでも、首を振った。
「私が命じた作戦です」
「だからこそ、我々が――」
「妹を助けたいと願う兵に待てと命じ、皆にはここで戦えと命じた私が、安全な城へ戻るわけにはいきません」
守備隊長は口を閉じた。
長く息を吐き、それ以上は言わなかった。
マルティナは、砦の一番高い塔を見上げた。
軍旗は、まだ掲げられていなかった。
裸の旗竿だけが、雨風の中に立っていた。
守備隊長が、部下へ命じた。
「軍旗を掲げろ」
若い兵士が旗の間へ走り、すぐに戻ってきた。
畳まれた旗を抱えたまま、旗竿の前で、ためらった。
「……子爵閣下のご不在中に、軍旗を掲げてもよろしいのですか」
「これは領主一人の旗ではありません」
マルティナは答えた。
「リーメル家の軍旗を掲げなさい」
ピーターの旗ではない。
エリックの旗でもない。
この土地と、そこに暮らす者たちの旗だった。
「私は塔へ上がります。兵たちから見える場所にいます」
守備隊長が眉を寄せた。
「塔の上は、敵の矢が届く恐れがあります」
「兵たちは、私が逃げていないと知る必要があります」
マルティナは、螺旋の石段を上がった。
鎧が肩へ食い込み、息が切れた。
それでも、歩を緩めなかった。
塔の上へ出ると同時に、リーメル家の軍旗が旗竿を駆け上がった。
湿った風を受け、旗が音を立てて翻った。
その下に、父の鎧をまとったマルティナが立った。
城壁の上で、中庭で、兵士たちが一人、また一人と作業の手を止め、塔を見上げた。
土嚢を担いだ老兵が背を伸ばした。
矢束を抱えた若い兵が足を止めた。
誰も歓声は上げなかった。
ただ、見上げたまま、それぞれの持ち場で姿勢を正した。
塔の下で、守備隊長が剣の柄へ拳を当て、軍礼を取った。
「全軍、配置につきます。ご命令を、マルティナ様」
◇
夕刻が近づいた。
雨を含んだ風が強さを増し、リーメル家の軍旗を激しくはためかせた。
遠方の見張り台から、黒い烽火が上がった。
一本。
続いて、もう一本。
敵の騎馬隊が、接近している合図だった。
やがて、地平の向こうから、低い地鳴りが響き始めた。
塔の上で、マルティナは手すりを強く握った。
指揮所で膝をついた、あの兵士の顔。
どこかの隊列の中で縛られているはずの、捕虜たち。
城に残した、エリシャとエリック。
そして、自分の命令でこれから死ぬかもしれない、眼下の兵士たち。
指先が、冷たくなっていた。
籠手の中で、指が微かに震えているのが分かった。
それでも、マルティナは軍旗の下を動かなかった。
「奥様」
塔へ上がってきた守備隊長が告げた。
「敵が、射程へ入ります」
マルティナは手すりから手を離した。
城壁の上に並んだ弓兵たちを、端から端まで見渡した。
「弓兵、構え」
声は、震えなかった。
弓が、一斉に持ち上がった。
その頭上で、雨に濡れたリーメル家の軍旗が翻った。




