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第2話 城に残された姉弟

夜が明けても、城門の外の列は途切れなかった。


リーメル城の中庭は、張り渡された縄で区切られていた。

右側には避難民、左側には負傷者。

礼拝堂と大広間は治療所として開放され、厨房では大鍋の粥と湯が煮え立っていた。


書記たちは長机に名簿を広げ、村の名と人の名を書き取り続けている。

使用人、医師、薬師、修道士。

多くの者が、夜通し働き続けていた。


家令の指揮は行き届いていた。

それでも、夜明けとともに押し寄せた人の波は、用意された縄の区画をたやすく溢れさせた。


泥まみれの荷車。

煤に汚れた農民。

泣きやまない子供。

家族の名を叫びながら列の間を歩き回る老人。

担架の上で身じろぎもしない人。


城は無秩序なのではなかった。

秩序を保とうとする手が、ただ足りなかった。


エリシャは、中庭を見下ろす回廊に立っていた。


弟と、城へ逃げてくる人々を守りなさい。


母の言葉が、昨日から胸の中で鳴り続けていた。

大人たちは働いている。

自分だけが、何もしていない。

リーメル家の娘が回廊から眺めているだけでは、母から城を託された意味がない。


エリシャは階段を駆け下りた。



避難民の列は、名簿の長机へ向かってゆっくりと進んでいた。


その列の途中で、一人の女性がうずくまっていた。

列はそこで詰まり、後ろの人々が押し合いになりかけている。


エリシャは駆け寄った。


「危ないですから、列を止めないで進んでください」


女性は動かなかった。

顔を上げもしなかった。

その視線の先では、担架が一つ、治療所の方へ運ばれていくところだった。

担架の上の男の腕が、布の端から力なく垂れていた。


「進んでください。後ろが詰まっています」


エリシャはもう一度言った。

正しいことを言っているはずだった。

列が乱れれば、押された誰かが転ぶ。

それなのに、女性は担架を目で追ったまま、地面に膝をついて動かない。


エリシャは唇を噛み、視線を移した。


列の外れに、幼い子供が一人で立っていた。

四つか五つほどの女の子で、煤だらけの顔に涙の筋だけが白く残っている。


迷子なら、名簿係のところへ連れていけばいい。

それが決まりのはずだった。


「こっちへいらっしゃい。名前を調べてもらいましょう」


エリシャが手を引くと、女の子は火がついたように泣き出した。


「おかあ……おかあさん……!」


小さな体が、エリシャの手を振りほどこうと暴れた。

周囲の避難民たちの視線が集まる。

エリシャは手を離すことも、引くこともできずに立ち尽くした。


そのとき、皺の寄った手が、エリシャの手をそっと上から包んだ。


侍女長だった。

年嵩の侍女たちを束ねる女性で、昨夜から治療所と中庭を行き来していた。


侍女長は女の子の前にゆっくりと膝をつき、目の高さを合わせた。


「怖かったわねえ。お母さんと、どこではぐれたの」


女の子はしゃくり上げながら、川のところ、と小さく答えた。

侍女長はそばの侍女を呼び、女の子に温めた山羊の乳を持ってくるよう頼んだ。

それから立ち上がり、エリシャへ向き直った。


「エリシャ様。まず、目の前の方が何に困っているのかをお聞きください。奥様も、いつもそうなさっていました」


責める口調ではなかった。

それが、かえって痛かった。


エリシャは、うずくまったままの女性を見た。

女性の目は、まだ担架が消えていった扉へ向けられていた。


列を進ませることばかり考えていた。

決まりは間違っていない。

けれど自分は、あの人が誰を見送っていたのかを、見ようともしていなかった。


言い返す言葉は、一つも出てこなかった。



「そこの布を押さえてください!」


叫び声がしたのは、その直後だった。


新しい担架が中庭へ運び込まれ、縄の区画の手前で下ろされた。

乗っていたのは、国境の見張りに出ていた若い守備兵だった。

脇腹に巻かれた布が、どす黒く染まっている。

医師が駆け寄ったが、助手は別の負傷者にかかりきりだった。


医師の目が、近くに立っていたエリシャを捉えた。


「押さえるだけでいい! 早く!」


エリシャの足が、一瞬止まった。


私は戦えます。


昨日、母にそう言った。

剣なら使える、逃げない、と。


エリシャは膝をつき、震える手で布の上へ両手を重ねた。


布越しに、熱が伝わってきた。

人の体温だった。

その熱の下で、どく、どく、と何かが脈打つたび、掌にぬるいものが染みてくる。

守備兵が歯を食いしばってうめいた。

鉄錆に似た匂いが、鼻の奥へ入り込んでくる。

泥と、汗と、薬草と、吐いたものの匂いが混じった中庭の空気が、急に濃くなった気がした。


「布を替える。手を上げて」


医師が古い布を剥がした。


エリシャは、それを見てしまった。


視界が白くなった。

気づいたときには、新しい布を医師の手へ押しつけるように渡し、立ち上がっていた。


「もういい、下がりなさい!」


医師の声を背中で聞きながら、エリシャは走った。

中庭を抜け、人気のない渡り廊下の柱の陰までたどり着いたところで、膝が落ちた。


胃の中のものを、全部吐いた。


吐くものがなくなっても、喉の奥が引きつり続けた。

石の床についた自分の両手が、小刻みに震えていた。

掌には、まだあのぬるさが残っている気がした。


「木剣なら、平気だったのに……」


声は、自分でも驚くほど小さかった。


中庭で毎日打ち合っていた木剣。

打たれれば痛いし、痣もできた。

あれが戦いの稽古だと思っていた。


涙が、吐いた跡の横へ落ちた。



エリックは、使用人の広い背中の陰から、中庭を見ていた。


担架が運ばれるたび、悲鳴や怒鳴り声が上がるたび、体が勝手に縮んだ。

知らない大人たちの声。

血の染みた布を抱えて走る侍女。

どれも怖かった。


部屋へ戻ろう。


エリックはそう思い、実際に城内へ続く扉の方へ、二歩、三歩と後ずさった。

自分の部屋なら静かで、悲鳴も聞こえない。

扉を閉めて、毛布をかぶってしまえばいい。


その足が、止まった。


中庭の隅、井戸の陰に、小さな影が二つ、うずくまっていた。


幼い兄妹だった。

兄の方は六つか七つ、妹はもっと小さい。

二人とも泥と煤にまみれ、兄は妹を胸に抱きかかえるようにして、壁へ背中を押しつけていた。

周りの大人たちは忙しく行き交うばかりで、誰も足を止めない。


兄の目が、怯えて泳いでいた。

それは、さっき水盤に映った自分の目と、同じだった。


エリックは、扉とその兄妹とを、交互に見た。


それから、そちらへ歩き出した。

怖くなくなったからではなかった。

見てしまったから、もう部屋へは戻れなかった。


「……あの」


声が掠れた。

兄妹がびくりと肩を震わせ、兄は妹を抱く腕に力を込めた。


エリックは自分の上着を脱ぎ、二人の肩へそっとかけた。

それから、腰の袋に入れてもらっていた固いパンを差し出した。


兄は受け取らなかった。

妹の方が、兄の腕の中から小さな手を伸ばした。


パンを渡すとき、エリックの手が震えているのが、自分でも分かった。


「若様も、怖くないの……?」


兄が、掠れた声で尋ねた。

若様、という言葉に、エリックは少しだけ驚いた。

服装で分かったのかもしれなかった。


エリックは、首を横に振ろうとして、やめた。


「ううん、僕もすごく怖いよ」


兄の目が、わずかに緩んだ。


「でも、お母さんが見つかるまで、一緒にいるから」


エリックは、二人の前の地面へ、そのまま座り込んだ。

石畳は冷たかった。


「名前は分かる?」


「……テオ。妹は、リネ」


「お母さんの名前は?」


「ハンナ。テオとリネのおかあさんの、ハンナ」


「どこの村から来たの?」


「サルバ村」


エリックは、その名前を口の中で繰り返した。

テオ。

リネ。

ハンナ。

サルバ村。

忘れないように、何度も。


「若君!」


駆け寄ってきたのは、城に残った家臣の一人だった。

中庭中を捜し回っていたらしく、息が上がっていた。


「若君、負傷者の行き交う場所にいては危険です。こちらをお離れください」


エリックの喉が、ひゅっと鳴った。

大人に逆らったことなど、ほとんどなかった。


それでも、テオの手を握ったまま、首を振った。


「この子たちも、一緒なら行く」


家臣は兄妹を見下ろし、それから中庭に面した回廊の下を示した。

そこには、親とはぐれた子供や老人のための待機所が、縄と敷布で設けられていた。

担架の通り道からは、離れている。


「では、あちらの待機所へ参りましょう」


エリックはテオとリネの手を引き、回廊の下の敷布へ二人と並んで座った。

それから、家臣を見上げた。


「この子たちのお母さんを、探してあげて。名前はハンナ。サルバ村の……サルバ村の名簿を、調べてください」


声が裏返った。

命令の形も、たどたどしかった。


それでも家臣は目を見張り、背筋を伸ばして、胸へ手を当てた。


「……承知いたしました、若君」


家臣が名簿の長机へ走っていく。

エリックはテオの手を握り直した。

その手も、握られた手も、まだ震えていた。



エリシャは、井戸の水で顔を洗い、口をすすいだ。


冷たい水が、喉の引きつりを少しだけ和らげた。

それでも、中庭の方角から流れてくる匂いを思うと、胃の底がまた縮んだ。


部屋へ戻りたい。

扉を閉めて、何も見たくない。


濡れた手で井戸の縁を掴んだまま、エリシャは動けずにいた。


弟と、城へ逃げてくる人々を守りなさい。


出陣の朝、母は確かにそう言った。

私が戻らなかった時も、と。


エリシャは、井戸の縁から手を離した。


中庭へ戻ると、最初に目へ入ったのは、弟の姿だった。


エリックは回廊の下の待機所で、幼い兄妹と並んで座っていた。

書記が一人そばに膝をつき、エリックの言葉を帳面へ書き取っている。


「お母さんの髪は、何色?」


「……リネと、おんなじ。赤っぽい」


「赤っぽい髪のハンナさん。サルバ村……書いてもらったから、探してもらえるよ。ここで一緒に待とう」


血を見れば真っ先に逃げ出すはずの、あの弱虫の弟が。

誰よりも怖がりの弟が、あの場所に座って、人の名前を聞いている。


人を守るのは、剣を振るう者だけではありません。


母の声が、弟の小さな背中と重なった。


エリシャは、深く息を吸った。

治療所へ戻る勇気は、まだなかった。

あの布を、もう一度押さえられるとは思えなかった。


けれど、できることは、それだけではないはずだった。


エリシャは、水桶を運んでいる侍女へ歩み寄り、桶の片方を持った。

それを配り終えると、壁際で座り込んでいる老人へ毛布を運んだ。


「歩けますか?」


「……ああ、ありがとうございます。ただ、少し疲れただけで」


「あちらの壁際の方が、風が当たりません。肩を貸します」


声は、まだ硬かった。

それでもエリシャは、相手の顔を見て話した。


列の外で立ち尽くしている男には、こう尋ねた。


「誰を捜しているのですか?」


「息子です。先に逃げたはずなんですが……」


「お名前を教えてください。ここで待っていてください。必ず名簿を調べさせます」


名前を聞き、書記のもとへ走り、また戻った。

次に立ち尽くしている者を見つけると、エリシャはその顔を見て尋ねた。


「あなたは、何に困っているのですか?」


そのとき、洗い場へ向かう侍女が、抱えていた布の山を落としかけた。


エリシャは反射的に手を伸ばした。


受け止めた布の、その一番上に、血の滲んだ布があった。


エリシャの指が、止まった。


鉄錆の匂いと、掌のぬるさと、剥がされた布の下のものが、一度によみがえった。

喉の奥が、引きつりかけた。


「も、申し訳ありません、エリシャ様。こちらで運びますので」


侍女が慌てて手を差し出した。


それでも、エリシャは布を返さなかった。

両手で、抱えるように持ち直した。


「……いいえ。洗い場ですね。私が運びます」


手は震えていた。

平気なふりは、できなかった。

エリシャは布の山を抱えたまま、洗い場へ向かって歩き出した。



日が高くなっても、避難民の列は続いていた。


エリックは、回廊の下でテオとリネのそばに座り続けていた。

名簿の机では、書記たちがサルバ村の頁をめくり、ハンナの名を追っていた。

まだ見つかったという知らせはない。

それでもエリックは、二人の手を握ったまま、そこを動かなかった。


エリシャは、水を運び、毛布を配り、避難民の一人一人へ声をかけていた。

血の滲んだ布を洗い場へ運ぶ間も、指先は冷たいままだった。


エリシャの手は、まだ震えていた。

エリックの手も、幼い兄妹の手を握りながら震えていた。


それでも二人とも、もう自分の部屋へ逃げようとはしなかった。


剣の届かない場所にも、守らなければならない命があった。

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