第2話 城に残された姉弟
夜が明けても、城門の外の列は途切れなかった。
リーメル城の中庭は、張り渡された縄で区切られていた。
右側には避難民、左側には負傷者。
礼拝堂と大広間は治療所として開放され、厨房では大鍋の粥と湯が煮え立っていた。
書記たちは長机に名簿を広げ、村の名と人の名を書き取り続けている。
使用人、医師、薬師、修道士。
多くの者が、夜通し働き続けていた。
家令の指揮は行き届いていた。
それでも、夜明けとともに押し寄せた人の波は、用意された縄の区画をたやすく溢れさせた。
泥まみれの荷車。
煤に汚れた農民。
泣きやまない子供。
家族の名を叫びながら列の間を歩き回る老人。
担架の上で身じろぎもしない人。
城は無秩序なのではなかった。
秩序を保とうとする手が、ただ足りなかった。
エリシャは、中庭を見下ろす回廊に立っていた。
弟と、城へ逃げてくる人々を守りなさい。
母の言葉が、昨日から胸の中で鳴り続けていた。
大人たちは働いている。
自分だけが、何もしていない。
リーメル家の娘が回廊から眺めているだけでは、母から城を託された意味がない。
エリシャは階段を駆け下りた。
◇
避難民の列は、名簿の長机へ向かってゆっくりと進んでいた。
その列の途中で、一人の女性がうずくまっていた。
列はそこで詰まり、後ろの人々が押し合いになりかけている。
エリシャは駆け寄った。
「危ないですから、列を止めないで進んでください」
女性は動かなかった。
顔を上げもしなかった。
その視線の先では、担架が一つ、治療所の方へ運ばれていくところだった。
担架の上の男の腕が、布の端から力なく垂れていた。
「進んでください。後ろが詰まっています」
エリシャはもう一度言った。
正しいことを言っているはずだった。
列が乱れれば、押された誰かが転ぶ。
それなのに、女性は担架を目で追ったまま、地面に膝をついて動かない。
エリシャは唇を噛み、視線を移した。
列の外れに、幼い子供が一人で立っていた。
四つか五つほどの女の子で、煤だらけの顔に涙の筋だけが白く残っている。
迷子なら、名簿係のところへ連れていけばいい。
それが決まりのはずだった。
「こっちへいらっしゃい。名前を調べてもらいましょう」
エリシャが手を引くと、女の子は火がついたように泣き出した。
「おかあ……おかあさん……!」
小さな体が、エリシャの手を振りほどこうと暴れた。
周囲の避難民たちの視線が集まる。
エリシャは手を離すことも、引くこともできずに立ち尽くした。
そのとき、皺の寄った手が、エリシャの手をそっと上から包んだ。
侍女長だった。
年嵩の侍女たちを束ねる女性で、昨夜から治療所と中庭を行き来していた。
侍女長は女の子の前にゆっくりと膝をつき、目の高さを合わせた。
「怖かったわねえ。お母さんと、どこではぐれたの」
女の子はしゃくり上げながら、川のところ、と小さく答えた。
侍女長はそばの侍女を呼び、女の子に温めた山羊の乳を持ってくるよう頼んだ。
それから立ち上がり、エリシャへ向き直った。
「エリシャ様。まず、目の前の方が何に困っているのかをお聞きください。奥様も、いつもそうなさっていました」
責める口調ではなかった。
それが、かえって痛かった。
エリシャは、うずくまったままの女性を見た。
女性の目は、まだ担架が消えていった扉へ向けられていた。
列を進ませることばかり考えていた。
決まりは間違っていない。
けれど自分は、あの人が誰を見送っていたのかを、見ようともしていなかった。
言い返す言葉は、一つも出てこなかった。
◇
「そこの布を押さえてください!」
叫び声がしたのは、その直後だった。
新しい担架が中庭へ運び込まれ、縄の区画の手前で下ろされた。
乗っていたのは、国境の見張りに出ていた若い守備兵だった。
脇腹に巻かれた布が、どす黒く染まっている。
医師が駆け寄ったが、助手は別の負傷者にかかりきりだった。
医師の目が、近くに立っていたエリシャを捉えた。
「押さえるだけでいい! 早く!」
エリシャの足が、一瞬止まった。
私は戦えます。
昨日、母にそう言った。
剣なら使える、逃げない、と。
エリシャは膝をつき、震える手で布の上へ両手を重ねた。
布越しに、熱が伝わってきた。
人の体温だった。
その熱の下で、どく、どく、と何かが脈打つたび、掌にぬるいものが染みてくる。
守備兵が歯を食いしばってうめいた。
鉄錆に似た匂いが、鼻の奥へ入り込んでくる。
泥と、汗と、薬草と、吐いたものの匂いが混じった中庭の空気が、急に濃くなった気がした。
「布を替える。手を上げて」
医師が古い布を剥がした。
エリシャは、それを見てしまった。
視界が白くなった。
気づいたときには、新しい布を医師の手へ押しつけるように渡し、立ち上がっていた。
「もういい、下がりなさい!」
医師の声を背中で聞きながら、エリシャは走った。
中庭を抜け、人気のない渡り廊下の柱の陰までたどり着いたところで、膝が落ちた。
胃の中のものを、全部吐いた。
吐くものがなくなっても、喉の奥が引きつり続けた。
石の床についた自分の両手が、小刻みに震えていた。
掌には、まだあのぬるさが残っている気がした。
「木剣なら、平気だったのに……」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
中庭で毎日打ち合っていた木剣。
打たれれば痛いし、痣もできた。
あれが戦いの稽古だと思っていた。
涙が、吐いた跡の横へ落ちた。
◇
エリックは、使用人の広い背中の陰から、中庭を見ていた。
担架が運ばれるたび、悲鳴や怒鳴り声が上がるたび、体が勝手に縮んだ。
知らない大人たちの声。
血の染みた布を抱えて走る侍女。
どれも怖かった。
部屋へ戻ろう。
エリックはそう思い、実際に城内へ続く扉の方へ、二歩、三歩と後ずさった。
自分の部屋なら静かで、悲鳴も聞こえない。
扉を閉めて、毛布をかぶってしまえばいい。
その足が、止まった。
中庭の隅、井戸の陰に、小さな影が二つ、うずくまっていた。
幼い兄妹だった。
兄の方は六つか七つ、妹はもっと小さい。
二人とも泥と煤にまみれ、兄は妹を胸に抱きかかえるようにして、壁へ背中を押しつけていた。
周りの大人たちは忙しく行き交うばかりで、誰も足を止めない。
兄の目が、怯えて泳いでいた。
それは、さっき水盤に映った自分の目と、同じだった。
エリックは、扉とその兄妹とを、交互に見た。
それから、そちらへ歩き出した。
怖くなくなったからではなかった。
見てしまったから、もう部屋へは戻れなかった。
「……あの」
声が掠れた。
兄妹がびくりと肩を震わせ、兄は妹を抱く腕に力を込めた。
エリックは自分の上着を脱ぎ、二人の肩へそっとかけた。
それから、腰の袋に入れてもらっていた固いパンを差し出した。
兄は受け取らなかった。
妹の方が、兄の腕の中から小さな手を伸ばした。
パンを渡すとき、エリックの手が震えているのが、自分でも分かった。
「若様も、怖くないの……?」
兄が、掠れた声で尋ねた。
若様、という言葉に、エリックは少しだけ驚いた。
服装で分かったのかもしれなかった。
エリックは、首を横に振ろうとして、やめた。
「ううん、僕もすごく怖いよ」
兄の目が、わずかに緩んだ。
「でも、お母さんが見つかるまで、一緒にいるから」
エリックは、二人の前の地面へ、そのまま座り込んだ。
石畳は冷たかった。
「名前は分かる?」
「……テオ。妹は、リネ」
「お母さんの名前は?」
「ハンナ。テオとリネのおかあさんの、ハンナ」
「どこの村から来たの?」
「サルバ村」
エリックは、その名前を口の中で繰り返した。
テオ。
リネ。
ハンナ。
サルバ村。
忘れないように、何度も。
「若君!」
駆け寄ってきたのは、城に残った家臣の一人だった。
中庭中を捜し回っていたらしく、息が上がっていた。
「若君、負傷者の行き交う場所にいては危険です。こちらをお離れください」
エリックの喉が、ひゅっと鳴った。
大人に逆らったことなど、ほとんどなかった。
それでも、テオの手を握ったまま、首を振った。
「この子たちも、一緒なら行く」
家臣は兄妹を見下ろし、それから中庭に面した回廊の下を示した。
そこには、親とはぐれた子供や老人のための待機所が、縄と敷布で設けられていた。
担架の通り道からは、離れている。
「では、あちらの待機所へ参りましょう」
エリックはテオとリネの手を引き、回廊の下の敷布へ二人と並んで座った。
それから、家臣を見上げた。
「この子たちのお母さんを、探してあげて。名前はハンナ。サルバ村の……サルバ村の名簿を、調べてください」
声が裏返った。
命令の形も、たどたどしかった。
それでも家臣は目を見張り、背筋を伸ばして、胸へ手を当てた。
「……承知いたしました、若君」
家臣が名簿の長机へ走っていく。
エリックはテオの手を握り直した。
その手も、握られた手も、まだ震えていた。
◇
エリシャは、井戸の水で顔を洗い、口をすすいだ。
冷たい水が、喉の引きつりを少しだけ和らげた。
それでも、中庭の方角から流れてくる匂いを思うと、胃の底がまた縮んだ。
部屋へ戻りたい。
扉を閉めて、何も見たくない。
濡れた手で井戸の縁を掴んだまま、エリシャは動けずにいた。
弟と、城へ逃げてくる人々を守りなさい。
出陣の朝、母は確かにそう言った。
私が戻らなかった時も、と。
エリシャは、井戸の縁から手を離した。
中庭へ戻ると、最初に目へ入ったのは、弟の姿だった。
エリックは回廊の下の待機所で、幼い兄妹と並んで座っていた。
書記が一人そばに膝をつき、エリックの言葉を帳面へ書き取っている。
「お母さんの髪は、何色?」
「……リネと、おんなじ。赤っぽい」
「赤っぽい髪のハンナさん。サルバ村……書いてもらったから、探してもらえるよ。ここで一緒に待とう」
血を見れば真っ先に逃げ出すはずの、あの弱虫の弟が。
誰よりも怖がりの弟が、あの場所に座って、人の名前を聞いている。
人を守るのは、剣を振るう者だけではありません。
母の声が、弟の小さな背中と重なった。
エリシャは、深く息を吸った。
治療所へ戻る勇気は、まだなかった。
あの布を、もう一度押さえられるとは思えなかった。
けれど、できることは、それだけではないはずだった。
エリシャは、水桶を運んでいる侍女へ歩み寄り、桶の片方を持った。
それを配り終えると、壁際で座り込んでいる老人へ毛布を運んだ。
「歩けますか?」
「……ああ、ありがとうございます。ただ、少し疲れただけで」
「あちらの壁際の方が、風が当たりません。肩を貸します」
声は、まだ硬かった。
それでもエリシャは、相手の顔を見て話した。
列の外で立ち尽くしている男には、こう尋ねた。
「誰を捜しているのですか?」
「息子です。先に逃げたはずなんですが……」
「お名前を教えてください。ここで待っていてください。必ず名簿を調べさせます」
名前を聞き、書記のもとへ走り、また戻った。
次に立ち尽くしている者を見つけると、エリシャはその顔を見て尋ねた。
「あなたは、何に困っているのですか?」
そのとき、洗い場へ向かう侍女が、抱えていた布の山を落としかけた。
エリシャは反射的に手を伸ばした。
受け止めた布の、その一番上に、血の滲んだ布があった。
エリシャの指が、止まった。
鉄錆の匂いと、掌のぬるさと、剥がされた布の下のものが、一度によみがえった。
喉の奥が、引きつりかけた。
「も、申し訳ありません、エリシャ様。こちらで運びますので」
侍女が慌てて手を差し出した。
それでも、エリシャは布を返さなかった。
両手で、抱えるように持ち直した。
「……いいえ。洗い場ですね。私が運びます」
手は震えていた。
平気なふりは、できなかった。
エリシャは布の山を抱えたまま、洗い場へ向かって歩き出した。
◇
日が高くなっても、避難民の列は続いていた。
エリックは、回廊の下でテオとリネのそばに座り続けていた。
名簿の机では、書記たちがサルバ村の頁をめくり、ハンナの名を追っていた。
まだ見つかったという知らせはない。
それでもエリックは、二人の手を握ったまま、そこを動かなかった。
エリシャは、水を運び、毛布を配り、避難民の一人一人へ声をかけていた。
血の滲んだ布を洗い場へ運ぶ間も、指先は冷たいままだった。
エリシャの手は、まだ震えていた。
エリックの手も、幼い兄妹の手を握りながら震えていた。
それでも二人とも、もう自分の部屋へ逃げようとはしなかった。
剣の届かない場所にも、守らなければならない命があった。




