第1話 父の鎧
全7話です。
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リーメル城の執務室。
窓の外は曇り空で、秋の風が石壁を叩いていた。
机の上には、領内各地から届いた報告書と支出帳簿が山のように積まれていた。
マルティナは一枚ずつめくり、数字を確かめながら、修正箇所へ赤い印をつけていった。
冬を前にした穀物備蓄、河川の護岸工事、農道の修繕、国境に近い北方砦の外壁補修。
どれも、少しでも遅れれば命に関わる仕事ばかりだった。
その中に、一枚だけ雰囲気の違う請求書が混じっていた。
帝都の高級宝飾店からのものだ。
品目は、帝都で流行している細身の首飾り。
若い娘が好む意匠で、中央には赤い宝石が据えられているという。
マルティナは目を細めた。
届け先の欄には、見覚えのある若い未亡人の名が記されていた。
夫がその女を愛人にしていることは、もう何年も前から知っていた。
今回の帝都滞在が公務だけではないことにも、とうに気づいていた。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
しかし視線はすぐ下の項目へ移った。
北方砦外壁補修、予算不足につき延期。
首飾りの代金があれば、外壁の亀裂を塞ぎ、矢を補充し、兵士たちの冬用外套まで用意できたはずだ。
マルティナの中で、妻としての痛みが、領地を預かる者としての冷たい怒りへと変わっていった。
彼女はペンを折ることも、帳簿を叩きつけることもしなかった。
ただ、首飾りの支出欄へまっすぐ一本の線を引き、余白にこう書き加えた。
領費から除外。領主私費へ振替
夫の愛人への贈り物を、領民の金で払わせるつもりはなかった。
そのうえで、砦の補修費を別の予算から捻出できないか、計算を始めた。
そばにいた家令が、遠慮がちに声をかけた。
「奥様。少しお休みになられては……?」
「この計算を終えてからにします」
マルティナは再び帳簿へ目を落とした。
休むのも、夫に腹を立てるのも、仕事を片づけた後でよかった。
だが、その日、マルティナが仕事を終える時間は訪れなかった。
◇
執務室には、家臣や村の代表者たちが次々に訪れた。
正式な領主は夫のピーターだったが、実際の判断は長年マルティナが担っていた。
そのうちの一人が、北部のオルデン橋の補修について報告した。
「秋の長雨が本格化する前に補強しなければ、北方砦へ物資を運ぶ道が使えなくなります。しかし、工事を受け持つオルデン村の人手が足りません」
家令は、領主命令で近隣の村から人夫を徴発することを提案した。
マルティナは首を振った。
「オルデン村の村長へ、木材を先に渡しなさい」
「しかし、あの村長は何を頼んでも、まずひと月は文句を申します」
「ええ。だからベルク村が先に作業を始めたと伝えてください。あの人は隣村に遅れを取るくらいなら、三日で橋を直します」
「では、ベルク村にも同じ話を?」
「いいえ。両方に同じことを言えば、橋を直す前に喧嘩を始めます。ベルク村には釘と酒を送り、オルデン村を手伝うよう頼んでください」
家令はすぐに書記へ目配せした。
書記の筆が走り、居並ぶ村の代表たちも異議を挟まずに頷いた。
オルデン村長が対抗心を燃やして橋へ向かい、ベルク村の者たちが酒樽と釘を抱えて後を追う姿が、ありありと想像できた。
しかし、一人の家臣が悪意なく言った。
「旦那様がお戻りになるまで、ひとまず奥様のご判断で進めましょう」
マルティナは反論しなかった。
ピーターが戻れば、正式な領主としてすべてを決める。
どれほど働いても、彼女はあくまで「領主の妻」であり、「留守を預かる者」にすぎなかった。
◇
執務室の外から、木剣を打ち合わせる音が聞こえた。
十二歳の長女エリシャが、中庭で少年従者を相手に剣の稽古をしていた。
男勝りで負けず嫌いな娘で、将来は騎士となり、国境守備隊に入るのだと公言していた。
一方、十歳の長男エリックは、少し離れた場所から姉の稽古を見ていた。
エリシャに木剣を差し出されても、腰が引けてしまう。
「そんなことで、次の子爵になれるの?」
「父上がいれば、僕が戦わなくてもいいでしょう」
「領主なのに?」
「領主が自分で剣を振るうとは限らないよ」
マルティナは二人を呼び、エリシャには剣だけでなく地理や帳簿も学ぶよう言った。
「領地を継ぐのはエリックでしょう? 私は剣で戦います」
「領地を守るつもりなら、剣だけでは足りません」
「敵が来れば剣で追い返します」
「敵が来る前に食料を運び、橋を守り、逃げる道を決める者がいなければ、剣を持つ兵士も戦えません」
エリシャは唇を尖らせた。
「……それは、そうですけど」
木剣の柄を握り直し、気まずそうに視線をそらした。
エリックは、母の机に広げられた地図を無言で見つめていた。
◇
城門の方角から、激しい蹄の音が響いた。
一頭の馬が、倒れ込むように城内へ駆け込んできた。
乗っていた伝令は泥と血にまみれ、肩に矢傷を負っていた。
「国境沿いの村が、異民族の騎馬隊に襲撃されました!」
伝令は肩を押さえ、荒い息を継いだ。
「家畜と穀物が奪われ、抵抗した者が殺されています。連れ去られた村人も……。敵は一隊だけではありません。複数の騎馬隊が国境を越えています」
エリシャは持っていた木剣を落とした。
先ほどまで戦いたいと言っていた少女の顔から、血の気が引いていた。
エリックは姉の袖をつかんだ。
「父上はいつ帰ってくるの?」
家令は答えられなかった。
ピーターは帝都にいた。
早馬を出しても、知らせが届くまで数日。
そこから帰還するにはさらに時間がかかる。
しかもピーターは、帝都で自らの威勢を示すため、領軍の精鋭騎士と良馬の一部を同行させていた。
国境に残されていたのは、老兵と若い兵、それに収穫を終えたばかりの農民兵が中心だった。
北方砦の外壁補修も終わっていない。
マルティナの脳裏に、愛人への首飾りの代金が浮かんだ。
浮気だけなら、夫婦の問題として耐えられたかもしれない。
しかしピーターは、領民を守るための金と兵を、自分の見栄のために使った。
マルティナは怒鳴らなかった。
血まみれの伝令に水と治療を命じると、すぐに領地の地図を広げた。
「襲撃された村は?」
「サルバ村です」
「敵の馬の数は」
「少なくとも五十。ですが、後方にさらに軍旗が」
「後方の軍旗は、あなた自身が見たのですか?」
「いえ……逃げてきた村人が、そのように」
「では、確認できた敵は五十騎。そう記録しなさい」
感情より先に、必要な情報を集めた。
それがマルティナの戦いの始まりだった。
◇
城内の会議室に、家令、ハーゲン、守備隊の将校、主要な家臣たちが集められた。
敵の進路を考えれば、すぐに領軍を動かし、村々へ避難命令を出さなければならない。
しかし、正式な領主であるピーターは不在だった。
マルティナは子爵夫人にすぎず、爵位を持つ領主ではなかった。
帝国法上、彼女が独断で領軍を動かせば、越権行為と見なされる可能性があった。
家令は、次期当主エリックの名を使うことを提案した。
「帝国法では、領主不在時の急襲に限り、男子後継者を臨時の名代に立てて動員令を出すことが認められております」
家令は、名義欄を空けた命令書へ手を置いた。
「若君のお名を使うのは、責任を押しつけるためではございません。後日、奥様とリーメル家が罪に問われぬようにするためです。決断を下されるのは奥様でございます。旦那様がお戻りになった後も、若君の名による命令であれば、容易には否定できますまい」
亡父の代から仕える老騎士ハーゲンも一歩前へ出た。
「奥様。家令殿の申すことが正道です。若君の名を用いなければ、勝っても罪に問われかねません」
会議室へ呼ばれたエリックは命令書を見た。
「これに名前を書けば、兵士が戦うの?」
「若君が戦えと命じたことになります」
ハーゲンが、できるだけ優しく説明した。
エリックの顔が青ざめた。
「……誰かが死んだら、僕のせいになるの……?」
誰もすぐには答えられなかった。
マルティナは、息子の前に膝をついた。
「あなたのせいにはしません」
「でも、僕の名前で命令するのでしょう?」
「いいえ」
マルティナは立ち上がり、家臣たちへ向き直った。
「この命令に、エリックの名は使いません」
家令が強く反対した。
「奥様。これは若君を盾にするためではありません。リーメル家を守るためです」
「分かっています」
「では、なぜです。奥様が独断で兵を動かしたとなれば、旦那様が戻られた後――」
「私の命令で兵士が死ぬかもしれません。私の判断で捨てなければならない村が出るかもしれません」
マルティナは命令書を手に取った。
「決断するのが私なら、責任を負うのも私でなければなりません。幼い息子の名を、私の決断を正しく見せるための印章には使いません」
彼女は命令書の名義を書き換えた。
子爵ピーターでも、次期当主エリックでもない。
マルティナ・リーメル。
爵位を持たない、一人の女性の名だった。
◇
マルティナは、集まった家臣たちへ命令を下し始めた。
「サルバ村を含む国境沿いの村々へ、即時避難命令を」
「穀物はどういたします?」
「運べるだけ運びます。残ったものは焼却を」
会議室が静まり返った。
「敵に食料を渡すわけにはいきません」
ハーゲンが地図の上へ身を乗り出した。
「兵はいかがなさいます?」
「北方砦へ集中させます。川の浅瀬はすべて封鎖。国境のサルバ橋は、避難が終わり次第、落とす準備を」
「橋を落とせば、国境の村を見捨てることになります」
「村を守るために兵を分散させれば、村も兵も失います」
「では、住民を避難させた後は?」
「敵に渡さないものだけを持ち出し、村を捨てます」
その後もマルティナは、城を避難民の受け入れ拠点とすること、医師と薬師と修道士の招集、帝都と近隣領主への援軍要請の早馬を、矢継ぎ早に命じた。
この戦いで最初に下した命令は、勇ましい迎撃命令ではなかった。
領民を逃がし、土地や財産を一時的に諦める命令だった。
◇
マルティナは、自ら北方砦へ向かうと告げた。
エリシャはすぐに前へ出た。
「私も行きます」
先ほど伝令の血を見て怯えたことを恥じるように、強い口調で同行を求めた。
「剣なら使えます。私は逃げません」
マルティナは拒否した。
「あなたは城に残りなさい」
「私を子供扱いするのですか?」
「子供だからではありません。あなたに任せたい仕事があるからです」
これから城には、避難民、負傷者、親を失った子供たちが押し寄せる。
食料を配り、名簿を作り、家族を捜し、混乱を抑える者が必要になる。
「それは、侍女や役人でもできるでしょう」
「役人の言葉を聞かない者でも、リーメル家の娘の言葉なら聞くかもしれません」
「私は戦えます!」
「人を守るのは、剣を振るう者だけではないと教えたはずです」
マルティナは、エリックの手を取ってエリシャへ渡した。
「弟と、城へ逃げてくる人々を守りなさい」
「……母上が戻るまで?」
「私が戻らなかった時も」
エリシャは息を止めた。
弟の手を取ろうとした指が、宙で震えた。
「そんなことを、言わないでください」
「言わなければ、起こらなくなるわけではありません」
マルティナは娘の頬に手を添え、乱れた髪をそっと耳にかけた。
エリシャは唇を噛み、震える手で弟の手を握った。
エリックは何も言わず、姉の手を強く握り返した。
◇
マルティナは城の武具庫へ入った。
奥には、亡き父が使っていた鎧が保管されていた。
父は生前、マルティナを連れて領内を巡り、村の名前、人の顔、川の流れ、道の状態を教えてくれた。
しかし、伯爵家の次男だったピーターを婿に迎え、リーメル子爵位を継がせたのは、女性には爵位継承が認められていなかったからだ。
どれほど父に領地を教わっても、娘のマルティナが爵位を継ぐ道はなかった。
父の鎧は古かった。
磨かれてはいたが、ところどころに戦傷が残っていた。
従者たちが、マルティナの体格に合わせて革紐を締め直した。
鎧は重かった。
腕を動かすだけで肩に負担がかかり、呼吸もしづらい。
マルティナは、父がこの鎧を着て出陣する姿を幼い頃に見ていた。
あの頃は、父が恐れているとは考えたこともなかった。
だが今なら分かる。
父もまた、自分の命令によって誰かが死ぬことを恐れていたのかもしれない。
それでも、領主として人前に立っていた。
鏡に映った姿は、父には似ていなかった。
戦場で名を上げた騎士でも、爵位を持つ領主でもなかった。
それでも彼女は、父の代わりになるためではなく、自分が下した命令を自分の名で引き受けるために鎧を身につけた。
◇
城門前には、残された兵士たちが集まっていた。
老兵、若い兵、農民兵。
精鋭の多くをピーターが帝都へ連れていったため、十分な軍勢とは言えなかった。
マルティナが父の鎧をまとって現れると、兵士たちは静まり返った。
歓声は起こらなかった。
女主人が戦場へ向かうことへの戸惑い。
領主でも騎士でもない者に従う不安。
ピーター帰還後の処罰への恐れ。
それらが、沈黙となって城門前を満たしていた。
マルティナは馬上から、署名した命令書を掲げた。
「この出陣は、子爵ピーター・リーメルの命令ではありません。次期当主エリック・リーメルの命令でもありません。私、マルティナ・リーメルの判断です」
マルティナは兵士たちを見渡した。
彼女もまた、恐れていた。
「私に従えない者を、罪には問いません。城に残り、家令の指揮下で避難民を守りなさい。ですが、私と来る者には命じます。一人でも多くの領民を逃がしなさい。そして、あなたたちも生きて帰りなさい。その結果については、すべて私が責任を負います」
それでも、兵たちは動かなかった。
やがて、ハーゲンが一歩前へ出た。
老騎士は古い鎧を見た。
次いで、マルティナの顔を見つめた。
何かを言いかけた唇を閉じ、剣の柄へ拳を当てて、正式な軍礼を取った。
「ご命令、承りました。マルティナ様」
それまで彼女を「奥様」と呼んでいた男が、初めて名前で呼んだ。
一人、また一人と、兵士たちが軍礼を取った。
◇
城門が開いた。
マルティナは、エリシャとエリックを一度だけ振り返った。
エリシャは弟の前に立ち、震えながらも母を見送っていた。
エリックは姉の服を握っていた。
マルティナは前を向いた。
リーメル家の軍旗を掲げた兵たちとともに、北方砦へ向けて馬を進めた。
父の鎧は重かった。
だが、その重さを幼い息子に背負わせて、城に残ることだけはできなかった。




