第7話 帝国最初の女子爵
監察官の調査は、十日間に及んだ。
広間には長机が据えられ、家臣、兵、村の代表が一人ずつ呼ばれた。
監察官は声を荒らげることがなかった。
ただ、証言と記録を突き合わせ、食い違いがあれば同じ問いを角度を変えて繰り返した。
逃げ道は、静かに塞がれていった。
三日目、老いた家令が証言した。
「旦那様は、婿入りされた当初、領務へ真面目に取り組んでおいででした」
家令は、言いにくそうに続けた。
「ですが……私どもが、それを支えませんでした。先代の頃からの習いで、大事な決裁は奥様へお持ちしてしまう。旦那様を飛び越えて、です。旦那様が次第に領務から離れ、帝都へ行かれることが増えたのは、その後のことでございます」
五日目、ハーゲンが証言した。
「国境の不穏な動きは、半年前から報告しておりました。砦の外壁の亀裂も、矢の不足も、文書で幾度も。それでも旦那様は、精鋭の騎士十二名と良馬を連れて帝都へ発たれました。侵攻が始まった後も、お戻りにはなりませんでした」
七日目、会計の担当者が帳簿を広げた。
「北方砦の修繕費として積み立てていた金が、帝都での交際費へ回されていました。宝飾品の支払いも、当初は領費から出ておりましたが、奥様が私費への振替を命じておられます」
証人たちは、誰もピーターを罵らなかった。
ただ、事実だけを述べた。
それが、罵声よりも重かった。
同席を命じられていたピーターは、日を追うごとに口数を減らしていった。
八日目、マルティナ自身が問われた。
「子爵夫人。家中において、ピーター卿が領主として軽んじられていた事実を認めるか」
「認めます」
マルティナは、言った。
「夫を領主として立てる配慮を欠き、彼の感情を見落としたのは私の非です」
ピーターが、顔を上げた。
「そうだ。俺は……」
縋るような声だった。
マルティナは、夫を見ずに続けた。
「家中であなたを軽んじていたことは事実です。私はその点で配慮を欠きました。しかし、それが領地を放棄し、兵と軍馬を持ち出す理由にはなりません」
ピーターの口が、開いたまま止まった。
反論の言葉は、出てこなかった。
監察官は、どちらの肩も持たず、両方を記録した。
九日目、追及の矛先はマルティナへ向いた。
長机の上に、証拠が一つずつ並べられた。
守備隊長の報告書。
マルティナの署名が入った動員令。
署名と家印の押された停戦書。
バジット側が保有する書状と同文であることの確認記録。
穀物と荷車の提供記録。
緊急交易の実施記録。
監察官は、証拠を一つ示すごとに、マルティナへ事実関係を確認した。
「領主の許可なく、領軍を指揮したか」
「しました」
「リーメル家の家印を用いたか」
「用いました」
「皇帝陛下の裁可なく、異民族と停戦を締結したか」
「締結しました」
「領内の穀物を、敵軍へ提供したか」
「提供しました」
「独断で、国境交易を認めたか」
「認めました」
マルティナは、一つも否定しなかった。
弁明も、挟まなかった。
「領軍を指揮したのも、家印を使ったのも、異民族と停戦を結んだのも、穀物を提供したのも、すべて私の判断です。結果として領地を守れたからといって、私にその権限があったことにはなりません」
監察官は、羽ペンを止めなかった。
「領地を救ったことと、権限を越えたことは、別の問題である」
「承知しています」
マルティナは、静かに答えた。
事情は、責任を消さない。
バジットにも、ピーターにも突きつけた理屈だった。
今、それが自分へ返ってきた。
受け取らないわけには、いかなかった。
十日目、すべての聴取が終わり、最後の確認のためにマルティナとピーターがそろって監察官の前へ呼ばれた。
確認を終えると、マルティナは用意していた一通の書状を監察官へ差し出した。
「本件の聴取とは別に、正式な申し立てがございます」
監察官が書状を受け取る。
「ピーター・リーメルとの婚姻の解消を、願い出ます」
隣で、ピーターがわずかに息を呑んだ。
マルティナはそちらを見なかった。
ピーターは何か言いかけたが、結局、口を閉ざした。
監察官は封書の表書きを確認した。
「本件の報告書に添え、陛下へ上申する」
「お願いいたします」
ピーターから異議は出なかった。
監察官は、その旨も記録した。
調査は終わり、報告書は封をされて帝都へ発送された。
裁定が届くまでの間、監察官は皇帝の名代として領政を監督することになった。
ピーターも、マルティナも、独断で重大な決定を下せない日々が続いた。
◇
裁定が届いたのは、調査の終わりから、ひと月ほど後だった。
広間に、ピーター、マルティナ、主だった家臣たちが集められた。
皇帝の印璽が押された文書の束を監察官が掲げると、一同は片膝をついた。
「立たれよ。これより、皇帝陛下の裁定を伝える」
監察官は、最初の一通を開いた。
「ピーター・リーメル。そなたの罪状は次のとおりである。領地防衛義務の放棄。侵攻の報告を受けながらの帰還拒否。領軍および軍馬の不適切な運用。領財の不適切な支出。戦時における職務怠慢」
罪状が一つ読み上げられるごとに、ピーターの肩は下がっていった。
「よって、ピーター・リーメルよりリーメル子爵位を剥奪し、領主権を喪失させる。あわせて、リーメル領からの永久追放を命ずる。不正に支出した領財については、本人の私財をもって弁済せよ。また、マルティナ・リーメル夫人より申し出のあった婚姻の解消を承認する」
監察官は、一度言葉を切った。
「なお、本来であれば禁固刑が相当である。だが、マルティナ・リーメルの嘆願を容れ、生家の伯爵家における監視付きの蟄居へ減ずる」
ピーターが、弾かれたようにマルティナを見た。
嘆願の写しが、読み上げられた。
『彼が領主の職務を放棄したことに、弁明の余地はありません。
ですが、敵と通じたわけでも、領地の滅亡を望んだわけでもありません。
犯した罪を越える罰を、私は望みません』
ピーターは、何も言わなかった。
それきり、顔を伏せた。
監察官は、次の文書を開いた。
「マルティナ・リーメル。調査により、そなたの越権行為は事実と認定された。爵位なき身での領軍の指揮。家印の使用。裁可なき停戦の締結。敵軍への糧食の提供。独断による交易の許可」
広間の空気が、張り詰めた。
「しかしながら、当時、正式な領主は職務を放棄し、帝国の援軍は間に合わなかった。そなたが動かねば、領地と領民は失われていた。よって陛下は、これを非常時における緊急の措置と認め、処罰しない」
監察官は、勅書の一節をそのまま読んだ。
「権限を持たぬ者が領地を救い、その越権のみを罰せられるならば、次の危機において辺境の臣は、命令を待って領地を失うか、独断で動いて処罰されるかの二つしか選べなくなる。帝国は、そのような統治を認めない」
監察官は、そのまま勅書を読み進めた。
「責任を負う者には、命令する権限も与えなければならない」
越権の事実は、消えたのではない。
認定された上で、処罰されなかった。
その違いを、マルティナは正確に受け取った。
「続いて、停戦書に基づく事後の経過を確認する。撤退完了から五日後に実施された一度限りの交易は、双方に流血なく完了した。異民族側は毛皮と羊毛を、リーメル側は穀物と塩を交換し、双方とも約定を履行している」
監察官は、そのまま読み進めた。
「これを受け、マルティナ・リーメルの上申どおり、国境への常設交易場の設置を許可する」
家臣たちの間に、小さなどよめきが起きた。
監察官は構わず、最後の文書を開いた。
「リーメル子爵位の処遇について、陛下の裁定を伝える」
広間が、静まり返った。
「領地を守り、兵を率い、停戦を成立させたのは、マルティナ・リーメル本人である。戦場に立たなかった十歳の子の名へ母の軍功を移すことは、帝国の軍功と忠誠の秩序を損なう。また、幼き当主に後見を立てれば、責任を負う者と爵位を持つ者が再び分かたれる。その分離こそが、此度の危機を招いた。さらに、停戦の相手方は、マルティナ・リーメル個人を約定の保証人と認めている。この者を統治から退ければ、停戦と交易の礎が失われる」
監察官は、揺るぎない声音で言葉を継いだ。
「女性であることを理由に、功を挙げた本人を退け、戦場にいなかった者へ爵位を移すならば、帝国は実績よりも形式を重んじることになる。陛下は、それを是とされない」
監察官は、顔を上げた。
「よって、特例として女性の爵位保持を認め、マルティナ・リーメル本人へ、リーメル子爵位を授与する」
息を呑む音が、方々で聞こえた。
「あわせて、特許状を与える。リーメル子爵位については、男女を問わず、マルティナの子の中からマルティナ本人が後継者を指名し、皇帝の承認を得ることを認める」
一人、また一人と、家臣たちが膝をついた。
古参の家令が。
ハーゲンが。
末席に控えていた若い書記までが。
それは儀礼ではなく、この危機を共に越えた者たちが示す、敬意の形だった。
マルティナは両手で特許状を受け取った。
紙一枚とは思えないほど、重かった。
それは彼女一人の地位を認めるだけの文書ではない。
エリシャにも、エリックにも、誰かに決められた道ではなく、自らの生き方を選ぶ権利を残すものだった。
マルティナは特許状を胸の前に捧げた。
「謹んで、お受けいたします」
そのとき、マルティナの脳裏に浮かんだのは、祝福の声ではなかった。
戦死者の名を記した名簿。
焼け落ちた村々。
いまだ床を離れられない負傷者たち。
これからは、そのすべてを、自分の名で背負うことになる。
マルティナは特許状を捧げたまま、深く一礼した。
広間の端では、ピーターが黙って顔を伏せていた。
この特例はやがて先例となり、後世、帝国のすべての世襲爵位は、性別を問わず継承できるものへと改められることになる。
だが、この時の広間にいた誰も、まだそれを知らなかった。
◇
ピーターが領地を発つ日は、薄曇りだった。
出立の前、二人だけの短い面会が許された。
かつての執務室で、ピーターは旅装のまま立っていた。
子爵の紋章は、もうその胸になかった。
長い沈黙の後、ピーターが口を開いた。
「これで、すべておまえのものになったな。爵位も、領地も」
声には、隠しきれない棘があった。
「いいえ」
マルティナは静かに首を振った。
「これからは、そのすべてを私の名で背負うのです」
ピーターは、マルティナの顔を見た。
何かを言おうと、唇が動いた。
だが、言葉にはならなかった。
やがて、ピーターはうなだれた。
そのまま背を向け、部屋を出ていった。
マルティナも少し遅れて執務室を出た。
中庭へ下りたときには、ピーターはすでに護送の馬車へ乗せられていた。
扉が閉ざされ、御者が手綱を鳴らす。
馬車はゆっくりと動き出し、城門をくぐっていった。
その様子を、城門の上からエリックが見ていた。
エリックは両手を固く握ったまま、遠ざかっていく馬車を見つめていた。
呼び止める声は出なかった。
ただ、涙だけが頬を伝った。
エリシャは何も言わず、弟の肩へ腕を回した。
姉の腕の中で、エリックは声を殺して泣いた。
城門内に残ったマルティナは、ふと顔を上げた。
胸壁の上で肩を寄せ合う二人の姿が見えた。
今は、姉の腕に任せることにした。
日が傾く頃、エリックは赤い目のまま、母のところへ来た。
「お母様」
小さな声だった。
「僕に何ができるか、まだ分かりません。でも……怖くても、逃げない人になりたい」
マルティナは、息子の目の高さまで身を屈めた。
「何になるかも、爵位を継ぐかどうかも、あなたがもう少し大きくなってから決めればよいのです。今は、選べるだけの力を身につけなさい」
エリックは鼻をすすり、頷いた。
◇
冬が過ぎた。
雪解けの水が畑を潤し、リーメル領に春が来た。
サルバ村では、焼失後初めてとなる家の棟上げが行われていた。
組み上がった梁の下で、ハンナがテオとリネを連れ、職人たちへ湯を配って回っていた。
リネが運ぶ小さな椀は半分こぼれていたが、受け取った大工は笑って飲み干した。
国境からは、報告が届いていた。
皇帝に認可された常設交易場で、最初の定期交易が流血なく終わったという。
毛皮と穀物を積んだ荷車が、剣ではなく秤を挟んで行き交った。
城の丘のふもとには、白い石の碑が建っていた。
先の戦いで死んだ者たちの名が、一人ずつ刻まれている。
マルティナは執務の合間、その前で足を止めた。
刻まれた名前を、上から順に目で追う。
外郭を守った兵。
獣道を駆けた猟師。
救出班に加わった若者。
どの名も、覚えていた。
短く黙祷を捧げると、マルティナは城へ戻った。
その足で、武具庫へ向かう。
奥の台には、磨き上げられた父の鎧が置かれていた。
戦いの日に借り受けたものを、武具係たちが傷を直し、丁寧に磨いてくれたのだ。
戦傷の跡はそのままに、革紐は新しく替えてある。
この鎧は、自分をあの戦場に立たせてくれた。
だが、次に戦場へ立つ時は、自分の肩幅に合わせて作られた鎧をまとう。
父の鎧は、父のものとして、ここへ還った。
武具庫を出ると、春の光が中庭に満ちていた。
いつもの簡素な執務服の袖を、風が軽く揺らした。
執務室へ戻る廊下で、エリシャが待っていた。
「お母様。お話があります」
娘は、まっすぐに立っていた。
「特許状のことを家令から聞いてから、ずっと考えていました。私にも、お母様の跡を継ぎ、この領地を治める道があるのだと」
「ええ」
エリシャは一度息を吸った。
「でも、今の私は、その道を選びません」
「理由を聞いても?」
「戦いの日、負傷した兵の傷を見て、私は逃げました。木剣を振るえるだけで、戦えるつもりになっていたのです」
あの日のことを思い出したのか、エリシャの指先がわずかに強張った。
「怖かったです。今でも、怖くないとは言えません。それでも、傷つく人がいることを知った上で、その人たちを守れる者になりたいと思いました」
エリシャは、マルティナを正面から見つめた。
「女だから退くのではありません。お母様の跡を継ぐ道も考えました。その上で、私は騎士として、この領地を守りたいのです」
娘の顔に、迷いはなかった。
この冬の間に、エリシャは自分の進む道を見つけていた。
それから、エリシャは中庭の方へ目を向けた。
視線の先には、木剣の素振りをするエリックの姿がある。
「ですから今は、後継者として指名されることを望みません。その代わり、エリックが爵位を継ぐ道も、別の道も選べるよう、しっかり鍛えます」
言い終えると、エリシャはにやりと笑った。
負けず嫌いなところは、戦の前と変わらない。
けれど、その瞳には、自分の未熟さを知った者の強さが宿っていた。
「よく考えましたね」
マルティナも、小さく笑った。
「ですが、剣を振るえるだけでは騎士にはなれません。戦い方だけでなく、傷ついた者を救う術も、兵を率いる責任も学びなさい」
エリシャの表情が引き締まる。
「その覚悟があるのなら、その道を進みなさい」
「はい」
エリシャは深く一礼し、迷いのない足取りで中庭へと向かった。
◇
数日後。
春の中庭に、木剣の構えを取るエリシャの声が響いた。
「今日は剣術と乗馬! 午後からは地理と帳簿よ!」
「剣術と乗馬だけじゃなかったの!? もう十分頑張ったよ!」
エリックが、木剣を取り落としそうになりながら抗議した。
「怖がっている子供のそばに残れたんだから、あとは守り抜けるだけの力を身につけるのよ」
エリシャは、容赦なく間合いを詰めていく。
エリックは後ずさり、執務室の窓を見上げて叫んだ。
「お母様! せめて午後は休ませて!」
窓辺で書類をめくっていたマルティナは、顔を上げた。
微笑んで、首を横に振る。
「エリシャの言うとおりです。選べるだけの力を身につけるのでしょう? もう少し頑張りなさい」
「そんなあ!」
絶望の声と同時に、エリシャの木剣が打ち込まれた。
慌てて受けたエリックの木剣が、乾いた音を立てる。
打ち合う音と、悲鳴と、姉の威勢のよい声が、中庭に響き渡った。
それはもう、戦争の音ではなかった。
マルティナは机へ戻り、復興計画の帳簿へペンを走らせた。
外壁の補修費。
交易場の倉庫の増築。
サルバ村の来年の種籾。
書き込むべきことは、いくらでもあった。
窓の外では、まだ悲鳴が続いていた。
帝国最初の女子爵が治める、泥臭くも温かい、新しいリーメル家の日常が始まっていた。
ここまで『帝国最初の女子爵』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
更新を追いかけてくださった皆様、感想や評価、ブックマークで応援してくださった皆様のおかげで、最後まで書き切ることができました。心より感謝申し上げます。
次回作では、さらに時代が進み、新たな主人公による物語をお届けする予定です。同じ世界だからこそ見えてくる歴史や積み重ねを、前作とはまた違った視点で楽しんでいただければ嬉しく思います。
改めまして、『帝国最初の女子爵』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
また次の物語でお会いしましょう。




