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ヤマト奇談集  作者: flat face
飛鳥時代
56/61

十市王女

十市王女はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/145099425)


   一


 ()(しま)(本州・四国・九州)に土着の()(じん)を代表する()(こく)は、大和(やまと)(おう)(けん)が諸国と連合した大和(やまと)(せい)(けん)により統治されていた。

 大和政権は大和王権の(おお)(きみ)を君主とし、構成国の諸王は豪族となった。

 倭国が先進国に倣って集権化すると、大和政権はより集権的な畿内(うちつくに)(せい)(けん)に再編され、大王と中央の豪族である諸大夫(まえつぎみ)が全国を支配した。


 畿内政権は大王と諸大夫の合議制によって運営され、大王が権威を担い、最大の豪族たる()()(うぢ)が権力を担った。

 しかし、(ずい)が超大国の(しん)(たん)(中国)を統一し、(とう)がそれを引き継いで周辺諸国を圧迫すると、危機を乗り越えるため、更なる中央集権が求められた。

 大王の一族である()()(うぢ)(かづら)(きの)()()は同志の(なか)(とみの)(かま)(たり)(かま)(たり)たちと計画を練り、政界の長たる大臣であった()(がの)(いる)鹿()(いる)鹿()を暗殺した。


 そうして彼は新しい政治の仕組みを定めるべく改革を進めていった。

 その新政は大王と諸大夫で権威と権力を分担する体制は保ちつつ、中央政府の権限を強めるというものだった。

 入鹿は蘇我氏に阿毎氏を吸収させ、権威と権力を一体化させようとしていた。


 葛城王子は畿内政権を大和(やまと)(ちよう)(てい)に再編し、中央に権限を集中させていった。

 しかし、友好国たる百済(くだら)を救済するために外征した結果、唐と新羅(しらぎ)に敗れ、(から)(くに)(朝鮮)に有していた利権を全て失い、改革の修正を余儀なくされた。

 彼は大和(やまとの)(くに)(奈良県)の飛鳥(あすか)(明日香村)から()(うみの)(くに)(滋賀県)の(おお)()(大津市)へと遷都した。


 そして、これまでは大王の位に即かず、政務を執る称制を行っていたが、即位して(かづら)(きの)(おお)(きみ)となった。

 飛鳥より内陸に位置する大津へ都を遷したのは、唐と新羅の侵攻に備えつつ、()(たか)()(東日本)を開発するためだった。

 八洲の中央に位置する点で飛鳥と大津は同じだったが、飛鳥は韓郷や震旦など西方に通じ、大津は日高見など東方に開けていた。


 倭国よりも先進的な百済の王族や貴族、農民が亡命していたので、彼らの技術によって近江国や日高見の開拓が開拓されることが期待された。

 また、葛城大王は百済の軍略を国土の防衛に活用し、その文教も外征の失敗で失墜した威信を回復するのに役立てた。

 百済の王族や貴族は亡命を受け入れてくれた葛城大王に従順で、彼を帝王として礼賛し、豊かな教養を駆使して華やかな(かん)()(かん)(ぶん)を披露した。


 葛城大王は彼らに庶子である(おお)(ともの)()()の家庭教師となるよう依頼し、その学業育成を託した。

 彼は閨閥を利用すべく多くの妻妾を抱え、数多くの子女にも恵まれた。

 中でも()(がの)(やか)(この)(いらつめ)(やか)(この)(いらつめ)との息子たる大友王子は将来を嘱望されており、百済の王族や貴族に感化され、若くしてその才能を開花させた。


 大友王子の成長に伴い、葛城大王は彼に自分の跡を継がせたいという気持ちを強めていった。

 そのように父から寵愛された大友王子は、心優しくて生真面目な青年に成長した。

 唐の使いで(かく)()(そう)に代わって倭国へ派遣された(りゆう)(とく)(こう)も大友王子を褒め称えた。


 葛城大王は大友王子は(おおき)(まつりごとの)(おお)(まえつぎみ)に就任させ、(ひだりの)(おお)(まえつぎみ)()(がの)(あか)()(あか)()(みぎの)(おお)(まえつぎみ)(なか)(とみの)(くがね)(くがね)御史大夫(おおきものもうすつかさ)である()(がの)(はた)(やす)(はた)(やす)()(せの)(ひと)(おみ)(ひと)(おみ)(きの)()()()()に支えさせた。

 既に鎌足は世を去っており、葛城大王は代替わりを見据え、大友王子を中心とする新しい体制を発足させた。

 ただ、葛城大王の弟たる(おお)海人(あまの)()()も鎌足と同様、永らく兄の片腕として働き、その娘たちを妻妾に迎え、血縁の紐帯を固めていたため、周囲からは次の大王と目されていた。


 大海人王子は鎌足ともども葛城大王の片腕として彼を補佐し、葛城大王に求められて娘の(とを)(ちの)(ひめ)(みこ)を大友王子に嫁がせた。

 武勇に優れた彼は、入鹿が討たれた時も、槍を持って加わっていた。

 末っ子の大海人王子は幼い頃から兄の葛城大王や母の(たからの)(おお)(きみ)に甘え、兄が催した宴でふざけて暴れたこともあったが、最後まで葛城大王に忠実だった。


 だが、彼は重病に罹った葛城大王から中継ぎとして即位するよう求められても拒んだ。

 それは自分と甥とで朝廷が二分されないようにするためだった。

 大海人王子は出家して(よし)()(奈良県南部)へ移り住み、葛城大王が息を引き取ると、大友王子が第三十九代の大王たる(おお)(ともの)(おお)(きみ)となった。


   二


 大海人王子は妻の(さら)(らの)(ひめ)(みこ)や彼女との息子である(くさ)(かべの)()()、少しの部下と共に吉野へ移ったが、十市王女は夫たる大友大王の下に残った。

 彼女は大海人王子の愛人であった(ぬか)(たの)(きみ)を母とした。

 額田王は芸術家肌の歌人で、自分の美学に従い、葛城大王とも愛人関係にあった。


 そのような母が十市王女の目にはふしだらに映った。

 十市王女は額田王を反面教師として良妻賢母たらんと努め、父の期待に応えられるよう孝行息子であらんと努力する大友大王とは馬が合った。

 ただ、彼女は母の美貌や情熱的なところを承け継いでいた。


 十市王女は背が高くて面長で、鼻筋が通っており、豊かな胸は鞠のようだった。

 長い睫毛の下では瞳が鋭く輝き、唇は鮮やかに紅く、髪には艶があった。

 色白な相貌は息を呑むほどに美しかった。


 そうした十市王女の顔をまじまじと見詰めながら、大友大王は彼女に口付けしてその(くち)(びる)を塞いだ。

 十市王女は眼を半ば閉じ、両腕を大友大王に差し伸べて彼を抱き竦めた。

 二人は褥の上へ横様に倒れ込んだ。


 大友大王は口吸いだけで情を催し、十市王女の裳裾を掻き開くと、彼女はそれに応えるかのごとく彼の股間へ手を差し伸べた。

 十市王女の手に握られたものは怒張していた。

 大友大王は彼女の背後に回り、その尻を掴んで媾合した。


 夫婦は忙しく動いて情熱をぶつけ合い、十市王女は瞳を潤ませて喜悦に喘いだ。

 普段、彼女は強い意志で自らを律し、微笑むことがなく、むっつりとしていたが、大友大王との媾合(まぐわ)いには貪欲で、彼の全てを貪ろうとするかのようだった。

 そうして大友大王と十市王女の間には(かど)()(きみ)()(たの)(きみ)の兄弟が産まれた。


 世継ぎにも恵まれて大友大王の治世は安泰かと思われた。

 他方、出家して道士となった大海人王子は、占術や幻術の研鑽を積みながら、吉野での生活を送った。

 彼は母の宝女王から影響を受けて(どう)(きよう)に傾倒したが、それは(けん)(きよう)(ゾロアスター教)と習合していた。


 祆教の開祖たる()()()(ザラスシュトラ)は西(さい)(いき)(中央アジア)の祭司だった。

 彼は暴力が吹き荒れる乱世を憂え、強者の論理ではなく、正義によって秩序を実現することを説き、この世を善神と悪神が闘争する場と見なした。

 何が正しいかを見極めるため、祆教は占術や幻術も含め、様々な学術を発展させた。


 大海人王子はこのまま静かに暮らせるのならば、ずっと隠棲しているつもりだった。

 それでも、我が身を守れるくらいの力は持っておこうとし、(うみ)(つぢ)(東海地方)と繋がりを保った。

 ()(わりの)(くに)(愛知県西部)の女中に育てられた大海人王子は、従者である舎人(とねり)()(のの)(くに)(岐阜県南部)などから受け入れ、東海とは縁が深かった。


 彼は飽く迄も自衛のために東海の協力を取り付けたのだが、右大臣の金はそれを謀叛の準備と受け取った。

 彼は鎌足の従弟で、従兄のおかげで右大臣となったが、それに見合うだけの博識さや機知があった。

 しかし、望外な出世に野心が膨らみ、更なる権力を求め、狡猾な策謀を巡らすようになった。


 金は大海人王子が己の権勢を脅かしかねないと判断し、謀叛に備えるよう大友大王に助言した。

 実際、大海人王子を処刑せずに下野させるのは、虎に翼を付けて野に放つがごとき愚行と評されていた。

 経験が足りない大友大王は、心優しさや生真面目さといった美点が優柔不断さに繋がり、葛城大王の墓を造ると言って兵を集め、吉野への糧道を塞ごうとしても中途半端に終わった。


 大海人王子は大友大王の行動を知ると、生き残るためには挙兵するしかないと判断し、西(せい)(れき)の紀元後六七二年に「壬申の乱」の幕が切って落とされた。

 十市王女は夫と父が争う中、大友大王の側に立った。

 だが、近江国に留め置かれた異母弟たる(たけ)(ちの)()()(おお)(つの)()()が人質となるのは忍びなかった。


 高市王子は庶出でありながらも大海人王子の長男で、大津王子は讚良王女の姉たる(おお)(たの)(ひめ)(みこ)を母とした。

 十市王女は近江国の名産である鮒の包み焼きに密書を隠し、父と連絡して高市王子や大津王子を脱出させるのに成功した。

 高市王子は大海人王子から軍事の全てを委ねられた。


   三


 「壬申の乱」で大和朝廷は()(うみ)(ちよう)(よし)()(ちよう)の二つに分かれた。

 吉野朝の大海人王子は数で勝る近江朝を奇襲により敗北させるため、即座に挙兵して敵軍を不意打ちし、()(がの)(くに)(三重県西部)・()(せの)(くに)(三重県東部)・美濃国の三国を掌握した。

 彼は祆教で善神が光明神とされ、火がその象徴とされるのに因み、赤旗を軍旗とした。


 吉野朝は(しな)(のの)(くに)(長野県)など東山(やまのみち)(東山地方)も抑えた。

 唐の(あや)(ひと)から戦術を教わっていた大海人王子は、高市王子に軍事を委ね、自分は諸国と交渉した。

 そうして尾張国も味方に付け、彼は大兵力を集めると、敵の準備が整わぬ内に南北から挟み撃ちにした。


 近江朝は吉野朝に東部の関所たる()(わの)(せき)を封じられ、西国の豪族にも見捨てられた。

 外征に失敗して以来、国防や都の造営で人々に負担が掛かり、葛城大王が慣例を破って大友大王を太子としたため、豪族や民は近江朝の徴兵に応じないで大海人王子に味方した。

 吉野朝は近江朝を次々に破り、大友大王は大津の都を捨てた。


 金は野心家であるからこそ自分が仕えると決めた相手には誠心誠意を尽くし、都落ちした大友大王を(あづまの)(くに)(関東地方)へ逃がした。

 もっとも、自身は七人の従者ともども(かな)()(うら)(細江)に上陸したところを捕らえられて死罪に処せられ、左大臣の赤兄は流罪となり、御史大夫の果安は自殺した。

 金は処刑される直前、別人の遺体を大友大王のものと偽って大海人王子を欺いた。


 内乱に勝利した大海人王子は、簒奪者と非難されるのを避けるため、祆教を信仰した(あん)(そく)(こく)(アルサケス朝)や()()(こく)(ササン朝)の皇帝と同様に自身を神格化させた。

 そのために彼は()(せの)(おお)(みかみの)(みや)(伊勢神宮)を宗廟とし、大王の称号を(おお)(きみ)と改めた。

 伊勢太神宮は日神である(あま)(てらす)を祀り、祆教の善神たる()(てん)(じん)(アフラ・マズダ)は太陽神ともされ、その名は天空を意味してもいた。


 そうして大海人王子は第四十代の君主である(おお)海人(あまの)(おお)(きみ)となった。

 また、大海人天皇は天皇の一族を無姓とした。

 震旦の皇帝は天から命じられてその地位にあるとされ、天命が(あらたま)まれば帝室は別の姓に(かわ)ると理解された。


 しかし、大海人天皇は天皇の一族たる皇室は姓を無くし、八洲で易姓革命は起きないとした。

 それから、彼は国号も倭国から(ひの)(もと)へと改称した。

 それは王権が日神の加護に基づくことを意味していた。


 そうした神話を普及させるべく大海人天皇は芸能者を厚遇して宣伝に当たらせた。

 その芸能者には()(じん)の幻術師も含まれており、彼らは多くが祆教の信者だった。

 大海人天皇には()()()(トハリスタン)の王族たる(げん)()()()(だち)()(だち)()(ダーラーイ)とその妻女である(しや)(ゑの)()()(シャーフ・バーヌーグ)および()(らの)(むすめ)(ダーラーイ・ドゥフト)が拝謁してもいた。


 だが、現人神と讃えられた大海人天皇も、六八六年、病床に臥して歿した。大友大王は上総(かづさの)(くに)(千葉県中部)の人里離れた山中に住み着き、十市王女に密使を派遣した。

 彼は大海人天皇も娘の命までは取らぬ考え、危険な都落ちに十市王女を同行させず、近江国に留めていた。

 上総国での生活が落ち着いた大友大王は、迎えの使者を十市王女に遣わし、彼女は自決したと見せ掛け、(みみ)()()()という偽の身分で彼の下に向かった。


 十市王女は大友大王と再会し、その胸に飛び込むと、彼の首に腕を巻き付けて辺り構わず口吸いした。

 大友大王を押し倒した彼女は、(あお)(むけ)になった彼の上に跨がり、上体を反り返らして獣じみた叫び声を上げた。

 めくるめく媾合いに我を忘れて大友大王と睦み合い、十市王女は狂おしくのたうち回りながら、歓喜の頂きに達した。


 彼女は娘の(いち)()(ひめの)(きみ)を産み、大友大王は近江朝の亡命政府を組織した。

 だが、それは吉野朝の知るところとなり、六七四年、大友大王は討伐軍に急襲された。

 彼は自害して十市王女も心中した。


 壱志姫王は捕らえられて葛野王および与多王と同じく皇室に預けられた。

 与多王は父たちの菩提を弔うために(おん)(じよう)()を建立した。

 また、彼は(ほう)(でん)()の住職となり、その子孫は(おお)(とも)(うぢ)と称した。



   註


*郭務悰が倭国へ派遣される:『海外国記』

*劉徳高が大友王子を褒め称える:『懐風藻』

*葛城大王の催した宴で大海人王子が暴れる:『藤氏家伝』

*大友王子が即位して大王となる:『大日本史』

*与多王が葛野王の兄弟とされる:『園城寺伝記』

*十市王女が鮒の包み焼きに密書を隠して大海人王子と連絡する:『宇治拾遺物語』

*大海人王子が唐の漢人から戦術を教わる:調淡海『調連淡海日記』

*金が七人の従者ともども金津浦に上陸する:黒田惟信『東浅井郡志』

*大友大王が上総国に逃れ、近江朝の亡命政府を組織するが、吉野朝の討伐軍に急襲されて自害する:中村国香『房総志料』

*十市王女が東国に向かう:筒森神社の伝承

*耳面刀自が大友大王の娘である壱志姫王を産む:洞院満季『本朝皇胤紹運録』

*与多王が父たちの菩提を弔うべく園城寺を建立する:志晃『寺門伝記補録』

*法傳寺の住職となった与多王の子孫が大友氏を称する:法傳寺の伝承


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