倭姫王
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一
永らく分裂していた超大国である震旦(中国)が隋により統一されると、周辺諸国は危機感を覚えた。
実際、粛慎(満洲)の南部から韓郷(朝鮮)の北部に跨がる高句麗は隋に侵攻され、阿児奈波島(沖縄本島)の流求国も侵略された。
八洲(本州・四国・九州)の倭国も危惧の念を抱き、前々から進めていた集権化を加速させた。
ただし、先進国に倣った中央集権をどのように推し進めるかで意見の対立はあった。
倭国は倭国王である大和王権の大王を盟主とし、八洲の国々が連合して諸国の王や首長は豪族となった。
大王の一族たる阿毎氏やその分家である上宮王家、最大の豪族たる蘇我氏らはそれぞれに集権の構想を持っていたが、いずれも韓郷の国家に範を取った。
上宮王家の山背王は百済の王である義慈王の専制を理想とし、百済王が伝えた仏教を唯一の宗教にすべきと考えていた。
蘇我氏の蘇我入鹿/入鹿は高句麗の宰相たる淵蓋蘇文/蓋蘇文の独裁を模範として道教を重視した。
道教は隋を滅ぼし、唐を建てた李淵と李世民の親子が信仰していたので、唐で優遇されていた。
もっとも、入鹿が広めようとした道教は、唐の道教とは異なるものだった。
道教を入鹿に教えた旻は、隋に留学した学者で、天文学などを学んで帰国し、塾を開いていた。
旻が隋で学んだ天文学には胡人の知識も入っており、入鹿は祆教(ゾロアスター教)についても教わった。
祆教は石国(タシュケント市)や康国(サマルカンド市)、安国(ブハラ市)などの胡人が信奉し、現世を善悪二神が闘争する場と捉え、その劇的な世界観が入鹿を魅了した。
入鹿は自らを胡人の英雄である胡秦王(ロスタム)に擬え、悪なる山背王を討った。
しかし、その入鹿も阿毎氏たる葛城王子に誅殺された。
葛城王子が手本とする新羅は、王族の金春秋/春秋が絶対的な権力を握り、将軍の金庾信/庾信がその政権を支えた。
入鹿を殺した葛城王子も、腹心の中臣鎌足/鎌足に補佐され、大和朝廷という新政権を樹立させた。
葛城王子と鎌足は南淵請安/請安の塾に通っていた。
請安も旻と同様、隋に留学した学者で、塾では儒教を教えた。
ただ、本人は自分が塾で教える学問を制度学と名付け、聖天子が作ったとされる「先王の道」などを教授した。
儒教の聖人が神のように崇められるのは、請安に言わせれば制度を定めたからだった。
授業は最新の制度である律令にまで及び、唐の皇帝も聖天子の継承者とされた。
葛城王子も神のごとき聖君たらんと努力した。
請安の塾で葛城王子は誰よりも早く起きて鍛錬し、勉学に励んで誰よりも遅く寝た。
師の請安は葛城王子を高く評価し、彼が入鹿を押し退け、その構想を実現させることを期待した。
葛城王子もそのつもりであったけれども入鹿を警戒し、争い事など起こさぬ人間と見せ掛けるため、表面上は物腰柔らかに振る舞って蹴鞠にも勤しんだ。
蹴鞠の会は社交の場でもあり、葛城王子は入鹿たちとも交流した。
そうした場で葛城王子に近付いたのが中臣鎌足/鎌足だった。
中臣氏は神道の祭祀を掌る一族で、土着の神道は外来の仏教などに押されていた。
それ故に中臣氏は地方に散った分家からも優秀な人材を募り、鎌足も常陸国(茨城県)から本宗家へ迎え入れられた。
自分を認めてくれた本宗家に鎌足は恩義を感じ、一族を再興するためには非情に徹することもあった。
普段は人当りの良い人物を演じ、彼は一族の利益となる人間を冷徹な目で探した。
中臣氏が再興するには権臣が王族を支える葛城王子の構想が打って付けだった。
そうして鎌足は葛城王子に接近し、笑顔の裏に大望を秘める二人はたちまち意気投合した。
どちらも大望のためには果断で、入鹿の誅殺では自ら手を下した。
葛城王子と鎌足は韓郷の使節を迎える式典で入鹿を襲撃した。
韓人らが居並ぶ中、入鹿は葛城王子に剣で斬り付けられ、鎌足に鎌で首を刎ねられた。
大和朝廷を樹立した後も、葛城王子と鎌足は構想の実現に邪魔な者を次々に粛清した。
その一人が古人王子だった。
二
古人王子は田村大王の前妻たる蘇我法提郎女/法提郎女の息子で、入鹿を後ろ盾とした。
彼は入鹿の妹である蘇我手杯娘/手杯娘を娶ってもいた。
葛城王子は田村大王の後妻たる宝女王の長男だったので、古人王子は葛城王子に殺された入鹿と親しかったばかりか、葛城王子と大王の座を争う立場にもあった。
ただ、彼は入鹿が傑物であったこともあり、後ろ盾の蘇我氏に依存していたので、線が細くて争い事には向いていなかった。
本人もそれを自覚していたため、蘇我氏の本宗家が滅ぼされ、分家が全て葛城王子の側に付くと、出家して僧侶となり、野心のないことを示した。
吉野(奈良県南部)に隠遁した古人王子は、祆教の寺院たる祆寺を建て、過ぎ去りし日々を懐かしんだ。
ところが、大和朝廷に不満を持つ豪族がそのような古人王子を押し立てようとした。
それを報された葛城王子は、兵士を吉野へと差し向けた。
古人王子は息子たちともどもその場で処刑され、手杯娘は自ら命を絶ち、娘の倭姫王は入鹿の弟である蘇我敏傍/敏傍に預けられた。
彼女はどうすれば、父たちの仇たる葛城王子を討てるか、それだけを考えて生きた。
家族を全て奪われ、逆賊の娘となり、仇討ちにしか生き長らえる意味を見出せなかった。
しかし、倭姫王の手が葛城王子に届くはずもなかった。
葛城王子は古人王子を後も、新しい政治の妨げになる者を容赦なく排除した。
舅である蘇我石川麻呂/石川麻呂は自殺させられ、叔父たる軽大王からは実権を奪い、その息子である有間王子は縛り首にした。
そうして内なる敵を斃していったが、葛城王子の新政は外からの脅威によって危機を迎えた。
唐の高宗と結んだ春秋と庾信が義慈王を破って百済を滅ぼしたのだ。
百済の遺臣は倭国に救援を求め、葛城王子はそれに応じた。
動員を口実に権力を大王に集中させ、韓郷に有する利権を拡大させるのが目的だった。
彼は吉備国(岡山県・広島県東部)など各地で兵士を集め、大軍を組織して韓郷に派遣した。
ところが、「百済の役」と呼ばれたこの遠征は惨敗に終わり、葛城王子の威信は地に落ちた。
筑紫国(福岡県西部)で指揮を執っていた葛城王子は、このまま失脚して破滅するかに思われた。
だが、彼は唐と新羅が攻めてくると喧伝し、誰も火中の栗を拾いたくないと思わせるように仕向け、権力を維持するのに成功した。
未曾有の国難に遭っても諦めぬ葛城王子に鎌足は覚悟を決め、最後まで彼に付いていくと誓った。
葛城王子は西暦の紀元後六六四年、大海人王子に「甲子の宣」を宣布させ、改革に修正を加えた。
田村大王と宝女王の次男たる大海人王子は鎌足ともども永らく葛城王子を補佐し、兄の娘たちを妻妾としていた。
大海人王子や鎌足の力を借り、葛城王子は国防の強化と内政の充実を図った。
国防の強化に事寄せて権限を強めるため、彼は国境を防人という兵に警備させ、各地に水城や山城なる城塞を築いていった。
都も飛鳥(明日香村)から近江国(滋賀県)に遷された。
遷都は唐と新羅の襲撃に備えるためのものと説明されたが、実際は旧都のしがらみを断ち切り、新しい国作りを目指すのが狙いだった。
葛城王子はそのような新都において即位し、三十八代目の大王である葛城大王となった。
葛城大王は近江令なる一時的な法典を鎌足に編纂させ、庚午年籍という戸籍を編み、阿毎氏の家法たる不改常典を制定した。
それには百済から亡命してきた官僚たちが大いに貢献し、彼らの歓心を買うため、葛城大王は阿毎氏と蘇我氏の系譜に連なる倭姫王を娶った。
蘇我氏は百済の王族と貴族の血を引き、妙齢の美女となっていた倭姫王は、復讐心を胸に秘めて葛城大王へ嫁いだ。
三
社交も疎かにしなかった葛城大王は色恋沙汰にも事欠かず、多くの愛人を抱えていた。
石川麻呂の娘たる蘇我遠智娘/遠智娘を妻にしていたが、彼女が亡くなってからは独身だった。
倭姫王は古人王子の娘であることから敬遠され、浮いた話の一つもないまま葛城大王と結婚した。
彼女は艶やかな細面をしており、その眼は切れ長の眼だった。
波打つ髪は豊かで、白く透けるような首筋にゆらりと絡み付いていた。
しなやかな肢体は形の良い丸みを帯び、腰が細くくびれ、乳房は豊満に盛り上がって妖しげな色気を醸し出した。
葛城大王が倭姫王に手を伸ばし、その胸乳に触れ、優しくも執拗に愛撫した。
体が気持ち良く痺れ、倭姫王は無意識の内に呻き声を洩らした。
葛城大王が倭姫王を貫くと、悦楽の大波が押し寄せ、彼女は自分の中に湧き立つものに必死に抗ったが、それを堰き止めることは出来なかった。
目尻から溢れた涙を葛城大王が吸い取った。
快美な思いが突き抜けると、酷く寂しくなり、倭姫王は唇を噛んだ。
媾合いの最中は勿論、夫婦として共に過ごす中で葛城大王を討つ機会は幾らでもあった。
しかし、倭姫王は手を下せなかった。
これまで葛城大王を殺すことを生き甲斐にしてきた彼女は、もし彼が本当にいなくなってしまったら、どうすれば良いか分からなかった。
そして、葛城大王を身近で見るに連れ、途轍もない重圧に曝されながらも改革に邁進する彼を畏怖するようになった。
それはやがて畏敬、敬愛に変わっていき、彼女は夫を愛しながらも憎んだ。
多くの敵と戦ってきた葛城大王にはそうした倭姫王との間に漂う緊張感が寧ろ小気味良かったので、鎌足が難色を示しても取り合わず、倭姫王と鎌足は互いに相手を警戒した。
ただ、そのような葛城大王も鎌足の死には少なからぬ打撃を受けた。
鎌足が病死する前日、葛城大王は最高位の冠位たる大織冠と内大臣の地位、藤原氏の氏名を授与した。
最大の協力者を失った彼は、自身の死後を見据え、我が子の中で最も優秀な大友王子を太政大臣に就任させた。
だが、大友王子は庶子であって周囲は大海人王子を次期大王と目していた。
葛城大王は病気となって危篤に陥ると、大海人王子を病床に呼び寄せ、大王の位を譲りたいと持ち掛けた。
それは大友王子が一人前になるまでの間、大海人王子に中継ぎを務めてほしいと願っての譲位だった。
葛城大王にとって大海人王子は鎌足と同様、苦楽を共にした盟友で、大海人王子に対する葛城大王の信頼は篤かった。
ところが、大海人王子は自分が即位すれば、甥たる大友王子との間で朝廷が二分されかねないとして譲位を辞退した。
彼は譲位するのなら倭姫王へ位を譲るよう葛城大王に勧めた。
倭姫王は病に倒れた葛城大王の代理を務め、大王に準じる大后と見なされていた。
大海人王子は出家して吉野へ退去した。
葛城大王は大友王子を太子とし、六七二年、体調が少しだけ回復すると、宮殿を抜け出して一人で馬を駆った。
そうして山林へと分け入り、脱げた沓だけを残して帰らぬ人となった。
葛城大王の最期に人々は首を捻ったが、倭姫王は人として死ぬ姿を誰にも見られたくなかったのであろうと思った。
彼女は葛城大王が神となり、自分たちを見守っているような気がした。
葛城大王の望んだ通り大友王子が大王の位に即き、大友大王となって左大臣の蘇我赤兄/赤兄や右大臣の中臣金/金に支えられながら朝廷を運営した。
大友大王たちは大海人王子への警戒を怠らず、大海人王子は古人王子の二の舞とならぬよう密かに同志を増やしていった。
それは自衛のためで、大海人王子に自分からことを起こすつもりはなかったのが、大友大王はその行動を謀叛と見なして兵を募り、却って大海人王子を叛乱に踏み切らせた。
大海人王子は不意打ちするため、大友大王の予想よりも早くに蹶起し、近江朝と吉野朝の間で内乱が勃発した。
奇襲された大友大王は敗戦を重ね、瞬く間に攻め滅ぼされてしまった。
倭姫王は大友大王の弟たる阿閇王子と妹である阿雅王女を逃がし、近江朝の大后として吉野朝に毅然たる態度で臨んだ。
彼女は近江朝への寛大な処置を願い、吉野朝と粘り強く交渉した。
大海人王子も戦乱の被害を軽減させたかったので、処罰は最小限に留めた。
近江朝の都は打ち捨てられて廃墟と化したが、倭姫王は廃都が盗賊や浮浪者の巣窟となってもそこから離れなかった。
彼女は賊に襲われ、何人もの男に姦されて殺された。
註
*流求国が隋に侵略される:『隋書』
*請安の教える学問が制度学と名付けられる:『南淵書』
*葛城王子が吉備国で兵士を集める:『備中国風土記』
*鎌足が近江令を編纂する:『藤氏家伝』
*山林に分け入った葛城王子が脱げた沓だけを残して帰らぬ人となる:皇円『扶桑略記』
*大友王子に弟の阿閇王子と妹の阿雅王女がいる:能登永閑『伊賀国名所記』




