額田王
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一
粛慎(満洲)の粛慎人に夫余という一派があった。
夫余の王子であった朱蒙は南下して高句麗を建国し、彼の息子たる温祚は韓郷(朝鮮)の西南部である馬韓において伯済国を建てた。
伯済国は夫余が韓郷の韓人を支配して百済へと発展した。
韓郷の東南部たる辰韓では韓人の築いた斯蘆国が新羅となった。
最初は粛慎の南部から韓郷の北部に跨がる高句麗が大国として君臨したが、土地が肥沃な百済も次第に興隆していった。
新羅は成長するのが最も遅かったが、それ故に挙国一致で富国強兵に励み、貴族の子弟は花郎団なる戦士団を結成して自らを鍛えた。
新羅は伽耶の加羅を従属させるなどして韓郷の中南部である弁韓を併合し、超大国たる震旦(中国)の唐を味方に付け、高句麗と百済を圧迫した。
唐に攻撃されて高句麗は疲弊し、百済も都を漢城(ソウル)から熊津(公州市)、泗沘(扶余郡)に遷さざるを得なくなるなど衰退していた。
百済は王子の余豊璋/豊璋を八洲(本州・四国・九州)にある倭国に人質として差し出し、支援を得ようとした。
八洲の倭人を代表する倭国は百済を介し、震旦と交流していたので、百済とは関係が深かった。
また、倭国王である大王は粛慎人の一派たる天孫族を始祖としていた。
しかし、当時の倭国は百済を支援できる状況になかった。
政界の長である大臣の蘇我入鹿/入鹿が高句麗の淵蓋蘇文/蓋蘇文を模範とし、権臣による独裁を実現しようとしていたので、百済に高句麗ほど好意的ではなくて支援に消極的だった。
蓋蘇文は高句麗王を謀殺した将軍で、傀儡を擁立して宰相となり、乙支文徳/文徳が隋の侵攻を撃退したのと同様、唐の侵入を食い止めた。
だが、入鹿の方は葛城王子に暗殺された。
葛城王子は大王たる宝女王の長男で、こちらは新羅の金春秋/春秋のように有力な王族が権力を掌握することを理想とした。
春秋も葛城王子が宝女王を補佐したがごとく善徳女王および真徳女王を支え、新羅王の使いとして倭国を訪れたこともあった。
社交術に長けた春秋と比べれば、豊璋は見劣りがした。
宝女王が退位して彼女の弟たる軽大王の代になると、倭国は高句麗・百済・新羅と等距離外交を行い、豊璋はやはり支援を得られなかった。
それでも、実直かつ生真面目な仕事人間である彼は諦めず、活動資金を捻出するため、三輪山で養蜂を営んだ。
そして、多蒋敷/蒋敷の妹と結婚した。
三輪(三輪町)に本貫のある多氏は、知識層たる巫術者の一族で、従軍して戦闘を記録し、集積された知識に基づいて戦況を占った。
そういったことから彼らは文と武を兼ね備え、文人と武人のどちらとも交際した。
豊璋も歌人である額田王や将軍たる阿倍比羅夫/比羅夫と知り合った。
額田王は宝女王の宮廷歌人だった。
宮廷歌人は公的な儀礼の場や宮廷の社交界で大王ら宮廷人の求めに応じて歌を詠み、大王を中心とする宮廷や国土を讃え、それを人々に伝えて共有させた。
額田王は近江国(滋賀県)の豪族である威奈鏡/鏡を父とし、知性と歌才に恵まれた美女で、宝女王によって重用された。
額が広くて鼻が整っており、その美しくて大きな瞳は情熱的な輝きを放っていた。
背が高くて細身だったが、白くてしなやかな肩は今にも抱き締めたくなるほどで、胸の肉付きは成熟して豊艶だった。
身のこなしは優美で、落ち着きがあって小気味良かった。
宝女王が退位してからは一線を退き、彼女の次男たる大海人王子を愛人とした。
軽大王が亡くなった宝女王が重祚すると、彼女に請われて再び出仕した。
大海人王子との間には娘の十市王女が産まれていたが、額田王は葛城王子も愛人とした。
知性に加えて情熱も持ち合わせた彼女は、大海人王子だけではなく葛城王子にも惹かれると、自身の気持ちに従ってどちらとも結ばれ、二人との恋によってその才気に磨きを掛けた。
額田王が出席する歌会には豊璋も参加したことがあった。
額田王は八洲と韓郷のどちらの言葉でも読み解ける歌を詠み、豊璋は彼女の聡明さを賞賛した。
比羅夫は北伐の英雄だった。
越国守であった彼は水軍を率いて北方へと進出した。
北ツ海(日本海)の沿岸は当麻王子が三上ヶ嶽(大江山)で英胡・軽足・土熊という賊を討つなど倭国の支配がまだ確固たるものとなっていなかった。
道奥(東北)や渡嶋(北海道)で比羅夫は毛人を帰順させて靺鞨を討伐した。
彼は毛人の恩荷に冠位を授け、後方羊蹄に政所を築いた。
歴戦の勇士らしく冷静沈着だったが、男ばかりの軍に長くいたためか女性に弱く、社交の場で額田王に会った時もしどろもどろになった。
そうした比羅夫に豊璋は親しみを感じ、その軍才も高く評価した。
彼は比羅夫のごとき勇将を伴い、百済に帰国することを夢見た。
当の豊璋さえ有り得ぬ夢と一笑に付したが、後にそれは現実のものとなった。
二
新羅は唐から軍事的な支援を得るのに成功すると、将軍の金庾信/庾信に百済を攻め滅ぼさせた。
百済の遺臣は倭国に使者を遣わし、援軍の要請を行った。
百済の旧領では将軍である鬼室福信/福信が祖国を再興しようと奮戦していた。
使者は豊璋を新たな王とするため、彼の返還も求めた。
太子として倭国の実権を握っていた葛城王子は、新羅を手本としていたことを脇に置き、援軍の派兵と豊璋の返還を決意した。
百済を再興させて倭国の属国とし、かつて韓郷に存在した倭人の居留地たる任那を復活させるのが狙いだった。
隋と唐を何度も撃退した高句麗が抵抗していたので、唐は海路で援軍を派兵するしかなく、大陸国家であるがゆえに海戦を不得手とした。
島国の倭国は水軍で韓郷を幾度も襲撃した歴史があった。
同じ島国である忱弥多礼(済州島)の耽羅も百済のために水軍を派兵してくれた。
唐よりも先に援軍を韓郷へ到着して守備に徹すれば、敵を撃退するのも可能だった。
また、百済は新羅に対して直近に善戦しており、倭国は百済を支援して成功した過去があった。
それゆえ、新羅を撃退して唐と和し、百済の再興を容認させるのも、無理な話ではなかった。
しかも、八洲は攻めづらい立地をしていたので、最悪、韓郷で負けても倭国は本国にて捲土重来を期すことが出来た。
こうして倭国は百済の再興を支援することになり、それに託けて大王に権力を集中させるため、宝女王が自ら援軍を率いて出陣した。
その親征には葛城王子や大海人王子、比羅夫も加わっており、額田王の姿も見られた。
葛城王子は遠征が成功した暁には戦捷の歌を作ってもらいたいと額田王に要請していた。
そのために額田王には遠征を記録する助手として中臣大島/大島が宛がわれた。
中臣氏は多氏と同様、巫術者を輩出してきた一族で、大島は葛城王子の側近たる中臣鎌足/鎌足の従甥に当たり、幼いながらも神童と呼ばれて将来を楽しみにされていた。
もっとも、そうであるがゆえに一族は大島が増長せぬよう彼を額田王のごとく優秀な人物たちの下で学ばせた。
大島は上には上がいると知り、向上心を失うことなく、師への敬意を忘れなかった。
特に額田王には尊敬の念だけではなく、淡い恋心も抱いた。
豊璋は倭国の援軍に先立って帰国することとなり、送迎の宴では額田王が彼のために歌を詠んだ。
額田王は運命に翻弄される豊璋に同情しており、彼が宴を楽しめるよう心を砕いた。
豊璋は額田王の気遣いに慰められ、永らく過ごした倭国を去り、久方振りに故国の土を踏んだ。
ところが、いざ豊璋が帰ってきて即位すると、百済の遺民たちは豊璋と福信の派閥に分かれて争った。救国の英雄たる福信は絶対的な権力を振るっており、そうした福信に反発する者たちは、王権を脅かしかねない福信を殺すよう豊璋に要求した。豊璋は百済に地盤がなかったので、自分を担ぎ上げる者たちの声に抗えず、福信を謀反の疑いで捕らえて斬った。
この内紛で百済は混乱し、新羅を勢い付かせてしまった。
倭国でも西暦の紀元後六六一年、皇女王が遠征の途中で急死し、葛城王子が代わりに指揮を執ったが、援軍の派兵は遅れ、韓郷には唐の増援が先に到着した。
比羅夫らに率いられた倭国の援軍は、韓郷に到着して豊璋たちに合流すると、六六三年、戦略の狂いから白村江(錦江)の河口で敵との決戦に臨まざるを得なくなった。
未だ中央集権が完了していない倭国は、軍の指揮系統も統一されていなかったので、軍船が各自の判断で臨機応変に動いた。
それは新羅が相手なら有効な戦術だったが、唐の将軍である劉仁軌/仁軌は艦隊を待ち伏せさせ、突っ込んできた軍船を挟み撃ちにした。
そうして倭国・百済・耽羅の連合軍は「白村江の戦い」に大敗し、倭国と百済の勢力は韓郷から一掃された。
敗走しながらも比羅夫は冷静さを保ち、唐への抵抗を続けるのならば、高句麗へ亡命するよう豊璋に勧めた。
比羅夫に好感を持っていた豊璋は、その助言に従って高句麗へ逃れた。
しかし、高句麗は蓋蘇文が死んで混乱しており、唐と新羅の連合軍に攻められると、都の平壌(平壌市)が落城して滅亡した。
豊璋は唐の都たる長安(西安市)に連行され、嶺南へ流されてそこで果てた。
なお、彼の弟である余禅広/禅広は倭国に帰化して百済王善光/善光と改名した。
福信の親族たる鬼室集斯/集斯も倭国へ亡命し、子孫は帰化して百済公氏となった。
三
総指揮を執っていた葛城王子は、倭国の援軍が負けると、唐と新羅が攻めてくると危機感を煽り、敗戦の責任を有耶無耶にした。
彼は敵襲に備えると称し、更なる集権化を推し進めて近江国に遷都すると、大王の位に即いて葛城大王となった。
自分の周りを側近で固め、百済や高句麗からの亡命者も積極的に登用して集権を進めた。
額田王はその歌才を買われ、葛城大王の宮廷歌人となり、革新的な歌を詠み上げ、彼の改革を称揚した。
比羅夫も韓郷からの撤兵に成功した手腕を見込まれて筑紫大宰帥に任ぜられた。
彼は西海道(九州地方)において唐と新羅の来襲に備えながら、静かに世を去った。
しかし、葛城大王の改革は保守的な人々との対立を助長し、彼らは大海人王子を対抗馬に押し立てようとした。
大海人王子と額田王の娘である十市王女を葛城大王の息子たる大友王子に嫁がせ、葛城大王と大海人王子の融和が図られた。
だが、結局、大海人王子は吉野(奈良県南部)へ退去して葛城大王が他界すると、大友王子と争って倭国は近江朝と吉野朝に分裂した。
両朝の内乱で鏡は戦死し、吉野朝が戦乱に勝利した。
額田王は敗北した近江朝の宮廷歌人だったので、引退を余儀なくされた。
それに対して出世したのが大島で、葛城大王の治世でも下積みであったのが功を奏し、近江朝の敗北で失脚することもなく、大王の系譜たる『帝紀』と宮廷の説話である『旧辞』の編纂を命ぜられた。
他にも全国を巡行して諸国の境界を区分し、新羅からの使いを饗応した。
そして、中臣氏の氏上として神祇伯になると、大島は額田王に結婚を申し込んだ。
年月を経ても大島の想いは色褪せず、寧ろ額田王に激しく恋い焦がれた。
最初、額田王は大島の求愛を本気にしなかったが、やがて彼の熱情に絆され、彼と夫婦になることを承諾した。
彼女は誘うように腰を捻り、大島の脚に手を掛け、内股に指を這わせた。
大島も額田王の見事に盛り上がった乳房を強く握り締めた。
これまで感じたことのない柔らかさが手の平に訪れ、大島は額田王の瞳を覗き込みながら、彼女と唇を深く重ね合わせた。
彼は額田王にのし掛かって腰に抱き付き、彼女の豊かな胸に顔を埋めた。
額田王は大島と脚を絡ませ、爛熟の身を淫らにくねらせながら喘ぎ声を響かせた。
彼女は比売額田/額田と名を改め、大島の妻となり、彼が設立を発願した粟原寺を完成させた。
大島は歌人たる額田の夫にして神祇伯だったが、漢詩を詠んで仏教にも理解を示した。
額田は大島の死後も粟原寺の建立を引き継いだ。
粟原寺が建つのを見届け、彼女はその長い生涯に終止符を打った。
晩年、大島との結婚で情熱が再び燃え上がった額田は、弓削皇子と歌を遣り取りした。
それでも、彼女は現役に復帰することなく歿した。
註
*鏡が近江国の豪族とされる:本居宣長『玉勝間』
*額田王が美女とされる:上田秋成『金砂』
*葛城王子と大海人王子が額田王の愛人になる:伴信友『長等の山嵐』
*当麻王子が三上ヶ嶽で英胡・軽足・土熊を討つ:『斎宮大明神縁起』
*豊璋が嶺南へ流される:司馬光『資治通鑑』
*集斯の子孫が帰化して百済公氏となる:『新撰姓氏録』
*近江朝と吉野朝の内乱で鏡が戦死する:寒川辰清『近江輿地志略』
*額田が大島の妻とされる:粟原寺三重塔伏鉢銘文




