間人王女
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一
八洲(本州・四国・九州)に土着の倭人を代表する倭国は、諸外国から文明国と認められるため、先進国に倣って中央集権と仏教の国教化を推し進めた。
しかし、具体的にどう進めるかで意見の対立が生じた。
八洲の諸国が連合した倭国は、諸王は豪族となり、盟主である大和王権の大王が倭国王とされ、大王と豪族は氏という一族を形作った。
大王と中央の豪族たる諸大夫が畿内政権という中央政府を形成し、それを合議制によって運営した。
畿内政権は権威を大王が、権力を政界の長である大臣が担う二元体制を取り、仏教を諸教と調和するものと見なした。
だが、山背王は大王の下、権威と権力を一元化させ、諸教を仏教に従属させようとした。
大王の一族たる阿毎氏には上宮王家なる分家があり、彼はその家長だった。
仏教を唯一の宗教とし、それ以外の信仰を禁止せよとまで唱える山背王の主張は、その過激さから賛同者を熱狂させ、反対者に強い危機感を抱かせた。
折しも超大国たる震旦(中国)が隋により統一され、唐がそれを継承し、周辺諸国を圧迫していた。
そのような唐が倭国に高表仁なる使いを派遣したのが、山背王は彼と諍いを起こし、倭国と唐の交渉を決裂させた。
彼は震旦の菩薩天子や皇帝即如来に倣い、生き仏や生き神のごとく崇められていたので、唐の皇帝が派遣した使いにも遠慮しなかった。
大臣である蘇我入鹿/入鹿は山背王の暴走を危惧し、極端な行動に出た。
入鹿は旻の下で学び、教え子の中で最も優秀と評された。
旻は隋に渡り、仏教や天文学を学んだ仏僧で、倭国に帰ってからは塾を開いた。
旻が学んだ天文学には胡人のものも含まれていた。
胡人は大夏(バクトリア)や大宛(フェルガナ)におり、震旦だけではなく八洲にも渡来した。
胡人が信奉する祆教は、善悪の明確な対立が説かれ、善神たる胡天神(アフラ・マズダ)を光明神とし、その象徴である火を崇拝した。
祆教の僧侶たる牧護(マギ)は天文学や薬学に通じ、胡本草(ハオマ)という幻覚剤で神秘体験を得た。
入鹿も光と闇の闘争を幻視したがごとく祆教の世界観に魅せられ、大臣を輩出する蘇我氏の下に権威と権力が一元化されるのを善とし、その障害となる山背王は悪とされた。
山背王の討伐には軽王子ら阿毎氏も協力した。
急進的な山背王は同族にも危険視された。
そうして山背王は入鹿によって討たれた。
しかしながら、蘇我氏の下に権威と権力を一元化するには阿毎氏との関係が問題となった。
入鹿は未亡人の大王である宝女王と愛人関係になり、蘇我氏と阿毎氏を合同させようとした。
宝女王は軽王子の姉だった。
軽王子は他の豪族と同様、蘇我氏と阿毎氏の合同を蘇我氏の専横と捉え、そのような軽王子に中臣鎌足/鎌足が近付いた。
中臣氏は神道の祭祀を掌る一族で、仏教が国教となったために不遇を託ち、状況を挽回すべく優秀な人材を募っていた。
そうして常陸国(茨城県)から養子に貰われたのが鎌足で、入鹿と同様に旻の塾に通い、彼と同じくらい優秀とされた。
鎌足は一族のため、阿毎氏の中でも担ぎ上げるに相応しい人物を探し、まず軽王子に目を留めた。
軽王子は阿毎氏であっても困窮した傍流で、逆境を跳ね返そうと勉学に励み、仏教や儒教など海外の文化に通暁していた。
それでも、劣等感を拭うことが出来ず、わざと傲慢に振る舞うこともあった。
鎌足は軽王子を大王に立てると約束したが、彼の器量に一抹の不安を覚えた。
そこで、宝女王の長男たる葛城王子にも接近した。
葛城王子は南淵請安/請安の塾生で、師から将来を嘱望されていた。
請安も旻と同様に隋へ留学し、帰国してからは塾を開いて儒教などを教えた。
鎌足は請安の塾にも通っていたので、通塾の合間に葛城王子と国の行く末について意見を交わした。
請安は震旦のごとく君主を中心に国を一つにまとめるため、入鹿を排除するよう葛城王子に勧めていた。
葛城王子と鎌足は宝女王も臨席する式典の最中に入鹿を暗殺することを計画し、軽王子もそれを是認した。
大王の臨席する式典には武器を持ち込めず、入鹿は丸腰で式に臨んでいたところを鎌足に襲われ、鎌で首を刎ねられた。
宝女王は葛城王子によって退位させられ、軽王子が即位して三十六代目の大王である軽大王となった。
軽大王は葛城王子を太子、鎌足を政治顧問たる内臣とし、大王の臨席する式典に鎌足が武器を持ち込んだことは、緊急時の措置として不問に付された。
また、葛城王子の妹である間人王女が軽大王の後妻となった。
二
軽大王は都を内陸部の飛鳥(明日香村)から外港の難波(上町台地)に遷し、年号を大化と定めた。
また、大王の下で権威と権力を一元化するため、施政方針である「改新の詔」が発せられた。
倭国はこれまで大王と豪族が土地と人民を私有していたが、これからは国家が共有するとされた。
そのために大王の直轄地たる屯倉と直轄民である子代、豪族の私有地たる田荘と私有民である部曲は廃止される。
国家は戸籍などを作り、土地を人民に貸し与え、農作物や労働力を税として納めさせる。
そこから豪族に給与たる食封が与えられ、官僚として大王に仕える。
この構想を実現すべく軽大王は大臣に代わり、左大臣と右大臣を設けて阿倍内麻呂/内麻呂を左大臣、蘇我石川麻呂/石川麻呂を右大臣に任命した。
内麻呂は軽大王の前妻である阿倍小足媛/小足媛の父で、石川麻呂は入鹿の従兄弟だったが、彼の暗殺に関わっていた。
また、軽大王は旻と高向玄理/玄理を国博士に任じ、全国を国・郡・里に分け、国司・郡司・里長が治めることとした。
国博士とは震旦を模範に制度や政策を立案し、推進するための相談役だった。
玄理も旻や請安と同じく隋に留学した経験があった。
軽大王は唐にも遣唐使という使節を派遣し、革新的な法令を次々に公布していった。
「大化の改新」と呼ばれるそれら一連の改革は余りに性急で、廷臣からも反発を買ったが、彼は馬鹿にして取り合わなかった。
当然ながら軽大王は宮中で孤立し、思うように改革が進まず、苛立ちからなおのこと口が悪くなった。
そのような軽大王を支えたのは、内麻呂や石川麻呂ら僅かな側近と後妻の間人王女だった。
軽大王の姪たる間人王女も阿毎氏の傍流だったが、困窮は彼女を慎ましくさせた。
穏やかであって控えめな間人王女は軽大王と衝突せず、寧ろ彼に同情して献身的に尽くした。
軽大王も間人王女に安らぎを見出し、彼女を大切にした。
間人王女は美しい女人で、柔和な顔には慈愛の籠もった笑みが浮かび、楚々としながらも肉感的だった。
胸と尻の豊かな曲線に迷いはなく、乳首は上衣を突き破らんばかりに押し上げていた。
間人王女は年齢の割りに落ち着いて母性に溢れ、継子たる有間王子からも慕われた。
有間王子は軽大王と小足媛の息子で、実母と死別したことから立ち直れず、無気力に日々を過ごしていた。
間人王女との出会いはそうした有間王子に気力を取り戻させた。
有間王子は継母に初めての恋をしたが、父のためにそれを秘し、彼らは仲睦まじく暮らした。
ところが、左大臣の内麻呂が病没したことで有間王子たちの人生は狂っていった。
内麻呂の病死に続き、右大臣の石川麻呂が葛城王子の暗殺を計画していると弟の蘇我日向/日向に密告されて自刃させられた。
しかも、後に日向の密告は濡れ衣であったとされ、彼も左遷されて死んだ。
左右大臣を一挙に失って軽大王は呆然としたが、旻と玄理も亡くなり、その衝撃から体調を崩した。
軽大王が病床に伏すと、葛城王子は百官を引き具し、飛鳥へ去っていった。
急進的な軽大王は葛城王子や鎌足とも対立するようになっていた。
旧都へ戻る葛城王子に民衆もこぞって従い、倭国は難波朝と飛鳥朝に分かれた。
間人王女も行動を共にしなければ、軽大王を殺害すると葛城王子から脅され、夫を守るため、泣く泣く彼を難波の廃都へ置き去りにした。
葛城王子から口止めされて間人王女は軽大王に真相を告げられず、間人王女に裏切られたと思い込んだ軽大王は、立つことも出来なくなり、悲しみに耐えながら西暦の紀元後六五四年に崩じた。
三
軽大王の最期を看取った有間王子は、父の弔いを済ませると、飛鳥の旧都に帰還し、再び継母の間人王女と同居した。
間人王女は軽大王が存命の間は、大王に準じる大后として葛城大王の独断専行を正当化するのに利用された。
葛城王子は軽大王が憤死すると、宝女王を返り咲かせて三十七代目の大王とした。
こうして宝女王は史上初めての退位と重祚をなしたが、実際の政治は葛城王子が行い、彼女は彼が非難の矢面に立たされぬための盾にされた。
もっとも、宝女王はそのようなことを気にしなかった。
入鹿が信仰した祆教の寺院である祆寺を建て、彼の冥福を祈り、胡人を表した猿石などを作った。
彼女は胡本草を使って入鹿を幻視した。
胡本草の愛用は宝女王の心を狂わせ、祆教の儀式で沐浴するために彼女が造営させた運河は狂心渠と称された。
そうした宝女王に非難の矛先が向く陰で葛城王子は改革を進めた。
有間王子はそのような葛城王子ではなく間人王女を憎んだ。
葛城王子の仕打ちよりも間人王女の裏切りの方が有間王子にとっては許せなかった。
間人王女は今度は有間王子に真相を告げれば、彼を殺すと葛城王子から脅され、誤解を解けぬままでいた。
初恋を憎悪に歪ませ、有間王子は父の復讐と称し、間人王女の寝室を襲って彼女を強姦した。
罪の意識に苛まれていた間人王女は、有間王子に犯されることを贖罪と捉えて彼を受け入れた。
そうして継母と継子は共依存のような関係に陥っていった。
有間王子は間人王女の胸乳を露わにすると、その乳首に吸い付いて転がすように舐め回した。
間人王女は気を高ぶらせ、目を閉じて嬌声を発し、なされるがまま有間王子の手指に愛撫された。
すっかり潤った彼女は、彼の股間に顔を埋めた。
有間王子は低く呻いて大きく息を吐いた。
間人王女は有間王子が気をやりかけると、口を離して彼に身を任せた。
有間王子が間人王女の上にのし掛かり、彼女に獣のような声を上げさせた。
二人は媾合に溺れ込み、やがて間人王女は有間王子との子を孕んだ。
有間王子は軽大王を失った悲しみから心が病んだ振りをし、療養と称して「牟婁の湯」(白浜温泉)を訪問した。
彼は軽大王と小足媛が「鹽の湯」(有馬温泉)へ行幸した時に産まれた。
間人王女も有間王子の湯治に同行し、息子の表米宿禰/表米を密かに出産した。
有間王子は間人王女を娶って妻子を幸せにしようと決意し、飛鳥に帰って宝女王に心の病が完治したと伝え、「牟婁の湯」の素晴らしさを話して聞かせた。
狂った心を癒やすため、宝女王が葛城王子ともども「牟婁の湯」に行幸すると、飛鳥に残った有間王子は、宝女王と葛城王子を打倒する謀を巡らし、間人王女に心配されても取り合わなかった。
すると、石川麻呂と日向の兄弟たる蘇我赤兄/赤兄が有間王子に近付いてきた。
赤兄は宝女王と葛城王子が「牟婁の湯」に行幸する間、都の留守を任されていたが、石川麻呂と日向を粛清した彼らに不満があると有間王子に告白した。
有間王子は赤兄と意気投合し、共に謀議を練った。
しかし、それは葛城王子の罠で、赤兄の密告により有間王子は捕縛されて縊死刑に処せられた。
入鹿が誅殺されて以降、彼の叔父である蘇我倉麻呂/倉麻呂の系統に蘇我氏の本宗家は移譲していた。
倉麻呂は石川麻呂・日向・赤兄の父だった。
本宗家の長たらんとし、日向は石川麻呂を讒言で陥れたが、葛城王子の許嫁と密通した過去があったので、許されることなく左遷された。
赤兄は世渡りが巧みで、葛城王子へ取り入るのに成功して左大臣となり、葛城王子の息子たる大友王子は最高位の臣下に取り立てた。
だが、息子のいなかった赤兄は、大友王子を我が子のように慈しみ、大友王子と共に没落したため、土佐国(高知県)に流されてその子孫が安芸氏となった。
間人王女は宝女王が身罷ると、葛城王子が即位するまでの間、仲大王としてその中継ぎを務めさせられた。
その務めを果たすと、彼女は表米を育てながら有間王子のことを想いつつ、牟婁郡(白浜町)で晩年を送り、現地の人々から真白良媛と呼ばれた。
表米は但馬国造の始祖となり、韓郷(朝鮮)から攻め寄せた軍船を隠岐国(隠岐諸島)まで追い払うなど大いに活躍した。
註
*高表仁が諍いを起こし、唐と倭国の交渉を決裂させる:『旧唐書』
*軽王子が山背王の討伐に協力する:『上宮聖徳太子伝補闕記』
*中臣氏が常陸国から鎌足を養子に貰う:『大鏡』
*鎌足が軽王子を大王に立てると約束するものの、彼の器量に一抹の不安を覚える:『藤氏家伝』
*請安が葛城王子に入鹿を排除するよう勧める:『南淵書』
*入鹿が鎌足の鎌で首を刎ねられる:「入鹿」
*軽大王と小足媛が「鹽の湯」へ行幸した時に有間王子が産まれる:有馬稲荷神社の伝承
*表米が有間王子の息子とされ、但馬国造の始祖となる:『続群書類従』
*赤兄の子孫が安芸氏となる:『古城伝承記』
*間人王女が仲大王とされる:『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』
*真白良媛が有間王子のことを想いつつ、牟婁郡で晩年を送る:白浜町の伝承
*韓郷から攻め寄せた軍船が表米によって隠岐国へ追い払われる:赤淵神社の伝承




