厩戸王子
厩戸王子はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/142829732)
一
超大国の震旦(中国)は漢人の王朝である西晋が北方・西方の異民族たる胡人に滅ぼされると、震旦の南部である江南では漢人が東晋を建国し、北部たる華北は胡人の王朝が多く興る五胡十六国の時代を迎えた。
やがて江南において東晋が倒され、華北を北魏が統一すると、漢人の南朝と胡人の北朝が対立する南北朝の時代に突入した。
そうして南朝では東晋から宋、斉、梁、陳へと王朝が交代し、北朝である隋が陳を滅亡させ、震旦の統一を成し遂げた。
北魏は東魏と西魏に分裂し、東魏を受け継いだ北斉は、西魏を継いだ北周に滅ぼされた。
隋はその北周を倒して成立した。
何百年も続く大分裂を克服し、再統一された震旦が超大国として蘇ると、周辺国は危機感を覚えた。
韓郷(朝鮮)では東南部の新羅と西南部の百済、北部の高句麗が震旦に負けじと国力を高めるべく中央集権を推進した。
震旦や韓郷と交流している八洲(本州・四国・九州)でも倭国が集権化を進めた。
倭国は八洲に土着する倭人の諸国が連合し、諸王が豪族として大和王権の君主である大王を倭国王に戴いていた。
倭国の中央政府たる畿内政権は大王と中央の豪族である諸大夫の合議により運営された。
しかし、誰が主導権を握るかで蘇我氏と物部氏が対立した。
大王と豪族の一族は氏という一族を形成し、豪族は大王からその地位を示す姓を授与された。
蘇我氏は大王の同盟者たる臣の姓を授けられ、政界の長である大臣の地位に就いた。
物部氏は大王に直属する連の姓が与えられ、官界の長たる大連となった。
大臣である蘇我馬子/馬子が物部布都姫/布都姫と結婚し、布都姫の兄たる大連の物部守屋/守屋と義兄弟になるなど和解も試みられたが、蘇我氏と物部氏は仏教を巡って内戦に至った。
宗教者は知識人でもあり、仏教は天竺(インド)の宗教だったが、その普遍性から各地の学知を吸収しながら伝播した。
そうして八洲に伝わった時、仏教は最新の科学技術となり、震旦や韓郷で国教とされていた。
馬子は倭国も仏教を国教化すべきと主張し、守屋はそれに異を唱え、仏教の国教化に賛成する崇仏派と反対する排仏派が争った。
倭国は皇道を国是としていた。
皇道は大和王権によって掲げられた国是で、天上の神々が下したとされる神勅に従い、聖戦によって理想郷の建設するというものだった。
理想郷の内実に儒教の王道楽土や道教の桃源郷が取り入れられることもあったが、皇道が国是とされることに変わりはなく、その証として前方後円墳体制が構築された。
前方後円墳体制とは前方後円墳などの墳墓により皇道の精神を可視化し、その墓制を共有することで大王と豪族の紐帯となした。
大王と豪族は高く積み上げられた墳墓の上部に埋葬され、彼らが天上から下された神勅に従う御言持ちとして天と繋がっていることが示された。
だが、仏教を国教とすれば、国是の皇道が蔑ろにされると守屋は危ぶんだ。
崇仏派と排仏派の争いには大王位の継承争いも絡んでいた。
馬子は守屋が即位させようとしていた穴穂部王子を殺すと、大王の一族たる阿毎氏と諸大夫を糾合し、物部氏の討伐に決起した。
軍事に関係する物部氏は、烏合の衆でしかない馬子の混成軍を苦しめた。
従軍していた厩戸王子は戦勝を祈願し、仏教を守る戦神たちである四天王(チャトゥル・マハーラージャ)の像を彫った。
彼は先代の大王たる豊日大王の息子で、十の言語を聞き分けるなど聡明なことから豊聡耳とも呼ばれた。
しかも、男性にして女性である半陰陽の厩戸王子は天女と見紛うばかりに愛らしく、蜜のように人々を惹き付けた。
馬子はそうした厩戸王子が四天王像を作ったことを利用し、我らには他国神たる仏神のご加護があると演説した。
士気の上がった将兵は、守屋を討って物部氏を滅ぼし、後に「丁未の乱」と称されるようになるこの戦いは、馬子の勝利に終わった。
厩戸王子も馬子の息子たる蘇我毛人/毛人に守られて無事だった。
二
毛人は馬子と布都姫の次男で、母方の血によるものか、武勇に優れていた。
その実力を見込んだ馬子は、何かと毛人を荒事に駆り出した。
それにより過酷な経験をしたからか、毛人は口が悪く、粗暴な振る舞いが目立った。
しかし、腕が立つのは確かで、「丁未の乱」でも馬子の命令で厩戸王子を護衛した。
厩戸王子は馬子の姪である泥部媛を母とし、毛人とは幼馴染みの間柄だった。
毛人は厩戸王子に対しても無愛想だった。
だが、宮中の寵児としてちやほやされる厩戸王子は、他の人間とは違うと見なされることに苦悩し、毛人の態度に寧ろ心が安らいだ。
そうして彼は毛人に仄かな恋心を抱き、その想いは「丁未の乱」で生死を共にしたことにより愛へと変わった。
毛人も内心では厩戸王子の孤独に共感を寄せ、毛人を想ってますます美しくなる厩戸王子に惹かれていった。
厩戸王子は凜とした眼差しで人を捉え、その目元は長い睫毛に縁取られており、艶やかな髪や可憐な唇と相俟って不思議な魅力を醸し出した。
形の良い胸は窮屈そうに上衣を押し上げ、引き締まった腰が胸元の豊かさを強調した。
張り詰めた下半身は嫋やかさと逞しさの両方を兼ね備えていた。
毛人は厩戸王子を抱き寄せて接吻した。
彼は舌を絡めて唇を吸い上げながら、大きく盛り上がった厩戸王子の胸を掴んだ。
その乳首は今にも上衣を突き破らんばかりに突き出ていた。
それから、毛人は厩戸王子の体を床に横たえ、襟を両手で大きく開いた。
胸の膨らみが露わになり、毛人が赧い先端を口に含んだ。
厩戸王子は喜びの声を上げ、毛人の首に両腕を絡み付かせた。
毛人は厩戸王子の首筋を吸いながら、片手で彼の乳房を掴み、もう一方の手でその陰裂を探った。
厩戸王子が喘ぎ声を漏らして腰を浮かせた。
毛人が厩戸王子の中に体を推し進めると、恍惚とした悦楽の中、厩戸王子の陽根からも白い精が放たれた。
厩戸王子は男性としては貝蛸王女の夫だったが、女性として毛人の妻になった。
貝蛸王女の母は厩戸王子にとって父方の伯母たる炊屋姫だった。
炊屋姫は豊日大王の先代である訳語田大王の妻で、夫の治世に活躍し、大王に準ずる大后とされていた。
馬子は炊屋姫と図り、甥の泊瀬部王子を即位させて傀儡とした。
泊瀬部王子は厩戸王子にとって母方の叔父で、泊瀬部大王となってからは馬子の傀儡から脱しようとした。
馬子は私兵の東漢駒/駒に泊瀬部大王を暗殺させ、その罪を駒に被せて彼も殺した。
次の大王は炊屋姫が馬子によって擁立された。
三十三代目の大王となった炊屋姫は馬子の姪で、叔父である彼の思うがままだった。
ただ、馬子には阿毎氏に取って代わって大王となるつもりはなく、聡明で聞こえる厩戸王子を摂政として表に立てた。
炊屋姫には竹田王子という厩戸王子と同年代の息子がいたが、「丁未の乱」に加わって戦死していた。
貝蛸王女は竹田王子の姉で、愛する弟を失った心痛から体調を崩して亡くなった。
馬子は娘の蘇我刀自古/刀自古を厩戸王子に嫁入りさせた。
刀自古は毛人の妹で、厩戸王子は彼ら兄妹の妻にして夫となった。
もっとも、駒と恋仲にあった刀自古は、彼の種を宿していた。
厩戸王子は恋人との仲を引き裂かれた刀自古に同情し、彼女が息子を出産すると、山背王と命名して我が子とした。
彼は舅にもなった大叔父の馬子に全ての政治的な決定を委ね、見聞を広めるため、伊予湯岡(道後温泉)で湯治すると称して西国を巡察し、黒駒に乗って東国へ赴いた。
それには従者たる舎人の調使麻呂/使麻呂が同行した。
黒駒は甲斐国(山梨県)から貢上された駿馬で、調氏は諸国からの貢物を管理していた。
使麻呂は百済王である聖明王の甥で、百済の宰相を父に持っていたが、政変により倭国へ亡命して調氏に婿入りした。
馬の扱いが巧みな彼は黒駒の世話を担当し、厩戸王子の遠乗りにも付き添った。
使麻呂は王族の身で馬丁となったことに思うところがあるからか、慇懃な態度のまま毒舌や皮肉を吐くなど捻くれた面が見られた。
けれども、他に行き場のない彼は厩戸王子に良く仕えた。
それ故に厩戸王子も使麻呂のことを厚く信頼していた。
使麻呂は武術も得意で、中央で馬子を補佐する毛人に代わり、地方を巡察する厩戸王子を護衛した。
三
炊屋姫は「三宝興隆の詔」を発表し、仏教を国教とした。
飛鳥(明日香村)の都には馬子が法興寺(飛鳥寺)を建設し、外港の難波(上町台地)には四天王寺が建てられ、豪族たちには墳墓よりも仏寺の建立が推奨された。
人材の育成にも力が入れられ、厩戸王子も百済の儒者である覚哿だけではなく、高句麗の仏僧たる恵慈も師と仰いで勉強した。
馬子は西暦の紀元後六〇〇年、弟の境部摩理勢/摩理勢に新羅を攻めさせ、遣隋使という使節を隋に派遣した。
新羅は倭国と親しい百済に圧力を加えていたが、摩理勢によって降伏させられた。
馬子は新羅に対する倭国の優位を隋に認めてもらおうとした。
震旦は文を尊んだので、隋に倭国の体制を説明するに当たり、馬子は神話的な表現によって文学的な効果を狙った。
また、隋は女性の君主を認めず、厩戸王子が太子に準じる地位にあったため、豊日大王の別名である多利思比孤が大王の名として伝えられた。
ところが、神話的な表現が上手く伝わらず、倭国は隋から蛮視され、新羅も倭国の軍が韓郷から撤兵すると、再び倭国と敵対した。
外交に失敗した馬子は、厩戸王子が地方の巡察から帰ってくると、汚名を返上すべく彼に協力を請うた。
承諾した厩戸王子は倭国を文明国とするため、先進国の制度を調べ、まず百済や高句麗の官位制を参照し、冠位十二階を馬子に提案した。
馬子はそれを実行に移し、豪族の官僚化が推し進められ、そのために厩戸王子は憲法十七条も作った。
その法理は聖戦に従事することではなく、仏教を興隆することで大王は正統性を得られるとし、大王の詔勅といえども仏教に反すれば無効とされた。
厩戸王子は儀礼も整え、文明的な仏教国に相応しい官僚たちを養成すると、彼らの中でも特に優秀な小野妹子/妹子を遣隋使に推薦した。
妹子は和珥氏の支流に属して身分こそ低かったが、使命感が強くて温厚で、優れた頭脳を持つことから大使に抜擢された。
隋に遣わされた彼は、厩戸王子から託された国書を皇帝の煬帝に渡した。
その国書は仏教の平等観に基づき、仏教徒の君主として皇帝と大王は同格と見なしていた。
これに煬帝は激怒したが、隋はこの頃、北方の大国たる高句麗への遠征に苦心しており、八洲は南方の広大な群島と認識されていた。
南北から挟み撃ちにされることを警戒し、煬帝は無礼を咎める返書を妹子に持たせ、妹子がその返書をわざと紛失してもそれ以上は叱責できなかった。
しかも、隋からの使いである裴世清が妹子の帰国に同伴して倭国に来訪した。
倭国は百済や新羅から大国と見なされ、山門県(山門郡)の邪馬台国が邪馬壱国(山倭国)と呼ばれたように「大いなる倭人の国」として俀国(大倭国)と称された。
大いに面目を施した厩戸王子は、仏神の化身と褒め讃えられ、膳氏は彼を崇敬する余りその種を欲しがった。
厩戸王子は飛鳥と難波を繋ぐ斑鳩(斑鳩町)に移り住んでいたのだが、彼のために土地を献上したのが膳氏だった。
彼は布教のためには生き仏や生き神といった信仰を取り込む必要もあると考え、膳氏の求めに応じた。
斑鳩の夢殿に籠もった厩戸王子は、菩岐々(き)美郎女/菩岐々(き)美ら膳氏の娘たちと番い合わされた。
しどけない姿を曝け出した菩岐々美たちは、何かに憑かれたのごとく馬乗りになって厩戸王子にむしゃぶり付いた。
押し倒された厩戸王子は獣じみた声を上げながら、連続して何度も強制的に射精させられ、その子種を搾り取られた。
そうした搾精の果てに舂米女王ら四男四女が産まれた。
舂米女王は山背王と夫婦になり、七人の子女を出産した。
山背王は刀自古とも母子相姦の関係を結び、三人の子女に恵まれた。
厩戸王子は刀自古に先立たれると、炊屋姫の孫娘たる橘大郎女と再婚させられて一男一女を儲けた。
それでも、毛人の妻であることを本分とし、嫉妬に狂う彼に抱かれ、息子たる蘇我入鹿/入鹿および蘇我敏傍/敏傍と娘である蘇我手杯娘/手杯娘を産んだ。
そして、菩岐々美ともども病に倒れて相次いで没し、橘大郎女は天国にいる夫を刺繍で描かせた。
使麻呂は仏僧となり、厩戸王子の菩提を弔った。
妹子も出家して仏前に花を供え、華道の祖となった。
毛人は馬子の後を継いで大臣となったが、嫡男の入鹿を政敵に暗殺され、自身も敵軍に包囲されたため、邸に火を放って自決した。
註
*厩戸王子が女性として男性の妻になる:覚如『本願寺聖人伝絵』
*伊予湯岡で厩戸王子が湯治する:伊予湯岡碑
*黒駒に乗った厩戸王子が使麻呂ともども東国へ赴く:『聖徳太子伝暦』
*使麻呂が聖明王の甥で、百済の宰相を父に持つ:調子丸古墳の伝承
*豊日大王の別名である多利思比孤の名で遣隋使が派遣される:欧陽脩・宋祁『新唐書』
*倭国が百済や新羅から大国と見なされて俀国と称される:『隋書』
*夢殿に厩戸王子が籠もる:思託『上宮皇太子菩薩伝』
*厩戸王子が菩岐々美ともども病に倒れて相次いで没する:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
*橘大郎女が天国にいる厩戸王子を刺繍で描かせる:天寿国繡帳
*使麻呂が仏僧となり、厩戸王子の菩提を弔う:叡福寺の伝承
*妹子が出家して仏前に花を供え、華道の祖となる:池坊家の伝承




