刀自古
刀自古はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/142552522)
一
八洲(本州・四国・九州)に土着の倭人には牧畜民の天孫族や農耕民の出雲族、海洋民の海人族、漁撈民の隼人、狩猟民の毛人、山岳民の土雲ら様々な種族がいた。
倭人は天孫族なら粛慎(満洲)、出雲族なら韓郷(朝鮮)、海人族なら震旦(中国)、隼人なら夷洲(台湾)や亶洲(沖縄県)、毛人なら渡嶋(北海道)、土雲なら侏儒国(フィリピン)や黒歯国(インドネシア)、裸国(ポリネシア)などから渡来して土着した。
渡来してから日の浅い人々は渡来人と呼ばれ、倭人を代表する倭国に帰化しても帰化人と称された。
倭国を統治する大和政権は、八洲の大部分を征服した連合政権で、構成国の首長や王は豪族となり、大和王権の君主である大王を戴いた。
大王と豪族は氏という一族を形成しており、倭国王とも呼称される大王は、豪族たちにその地位を示す姓を授与した。
中央においては臣の姓が大王の同盟者に、連の姓が大王に直属する豪族に与えられた。
臣からは政界の長である大臣が、連からは官界の長たる大連が輩出された。
倭国が超大国の震旦に倣って中央集権を目指し、大和政権が集権的な畿内政権に再編されると、大王と中央の豪族である諸大夫が全国を支配するようになった。
畿内政権は大王と諸大夫の合議によって運営されたが、誰が集権化の主導権を握るかで路線対立が存在した。
大臣の蘇我馬子/馬子は自分が主導権を握ろうとしていた。
蘇我氏は百済の王族や貴族と婚姻し、帰化人の東漢氏からは主君と仰がれた。
百済は韓郷の西南部にあり、そこからの移民を東漢氏は多く受け入れていた。
蘇我氏は彼らを保護し、見返りとして渡来人らの先進文化を手に入れ、それを屯倉の開拓や戸籍作りに役立てた。
屯倉は大王の直轄地で、集権化のために拡大させる必要があった。
財政を担う蘇我氏は、屯倉や国庫たる三蔵の管理を任されていた。
彼らは財政面で中央集権に貢献したことを評価され、娘たちを大王の一族である阿毎氏に嫁がせることに成功し、外戚の地位を固めた。
また、蘇我氏が取り入れた先進文化には軍事技術もあり、馬子は最新の兵学にも通じた東漢氏から私兵を組織した。
その私兵は蘇我氏ではなく、馬子に忠誠を誓った。
馬子は孫子の兵法に学び、私兵を政敵の排除に利用した。
孫子は用兵の道を講ずる兵家で、間者を用いた兵略を説いてもいた。
私兵は東漢駒/駒が指揮を執り、馬子にとって目障りな者たちを襲撃した。
そうした任務に従事するだけあり、馬子の私兵は強いけれども粗野な荒くれ者の集団だった。
私兵を指揮する駒も腕は立ったが、傲慢な態度が目立った。
それでも、駒たちは馬子に忠実で、蘇我氏の屋敷も警護し、一族の身辺警護を担ってもいた。
馬子の娘たる蘇我刀自古/刀自古もまた駒たちの警護対象だった。
刀自古は鼻筋が通って整った顔立ちをしており、豊麗な肉体の持ち主で、色白の滑らかな首筋や豊かな胸の膨らみには色気が漂っていた。
その理知的な瞳は意志の強さを感じさせ、良家の息女らしく立ち振る舞いには凜とした気品があった。
そのような刀自古を駒はつんと澄まして冷たい女であると思っていた。
もっとも、刀自古は単に出自を鼻に掛けているだけの令嬢ではなかった。
彼女は母方の実家が武門の棟梁たる物部氏であるからか気丈で、物怖じせずに暴れ馬を乗りこなし、素行の悪い私兵を辛辣な物言いで叱り付けて駒とも言い争った。
彼も馬子の直臣としての矜持があり、遠慮することなく刀自古と口論した。
刀自古にとって駒たちの粗暴な言動は蘇我氏の沽券に関わり、駒たちにとって刀自古は生意気な小娘だった。
見かねた馬子が間に入り、刀自古と駒たちの和解を試みた。
馬子は遊猟などを催して彼らを交流させた。
刀自古は馬で思い切り野山を駆け巡るのが好きで、駒は剣や弓の腕が立った。
馬子の狙いは図に当たり、交流を重ねるに連れ、互いを認め合った刀自古と駒たちは、仲を深めていった。
しかし、刀自古が駒と深い仲になったのは馬子の誤算だった。
お互い相手に反発を感じていただけに、それが愛情に転じると、瞬く間に燃え上がった。
狩りの宴で駒は刀自古の手を掴むと、森の奥に消えていった。
刀自古の美しい指が駒の股間を這い、駒は刀自古の指使いに情欲を駆り立てられた。
彼は己のものを握られると、かあっと頭に血が昇った。
刀自古の肩を抑え、彼女を柔草の上に横たわらせると、その胸に駒がのし掛かり、後は獣と化して睦み合うだけだった。
二
集権化の主導権を握ろうとする馬子は、義兄である大連の物部守屋/守屋とも対立した。
守屋は馬子の妻にして刀自古の母たる物部布都姫/布都姫の兄だった。
馬子と守屋は先進諸国に倣って仏教を国教化するか否かで論争した。
信仰を共有すれば先進諸国との関係を強化できた。
また、仏教そのものにも最新の科学技術という魅力があった。
それに、国教を定めれば政治だけではなく、宗教の面からも中央集権を促進できた。
八洲では天孫族が天上の天津神を、出雲族が地上の国津神を、海人族が海の海祇を、隼人が山の山祇を、毛人が渡嶋の島津神を、土雲が地下の黄泉神を信奉していた。
馬子は仏教を国教化し、政教の両面で倭国を統一しようとも考えた。
しかし、倭国は皇道を国是としていた。
仏教を国教とすれば、皇道の地位が脅かされかねなかった。
儒教や道教は倭国に受け入れられていたが、それは皇道を飽く迄も理論的に補強するためのものだった。
国是である皇道の上に仏教が来れば、倭国は国の形を保てなくなるかも知れなかった。
それを危惧して守屋は仏教の国教化に反対した。
だが、馬子はそのことを奇貨とし、物部氏を滅ぼすことで主導権を握らんと試みた。
幸い大王の豊日大王が死の床で仏教に入信して崩御したため、追い風が吹いていた。
次の大王を誰にするかで諸大夫の議論は紛糾したが、馬子はそれを利用し、姪たる炊屋姫に物部氏を逆賊とする声明を出させた。
炊屋姫は豊日大王の先代である訳語田大王の後妻で、夫の治世に活躍し、大王に準ずる大后と見なされていた。
大后の声明は大王が不在の状況において絶大な効果を発揮し、物部氏は逆賊とされてしまった。
それゆえ、馬子が物部氏を討伐するために挙兵すると、諸大夫の殆どが馬子の側に加わった。
阿毎氏からも豊日大王の息子たる厩戸王子や炊屋姫の息子である竹田王子が参加した。
訳語田大王の前妻たる息長広姫/広姫が産んだ彦人王子も馬子に味方していた。
ただ、彦人王子は出陣しておらず、従者である舎人の迹見赤檮/赤檮が参戦した。
広姫を早くに亡くした彦人王子は、後ろ盾を失って逼塞を余儀なくされていた。
そうしたことから彼は諦観を抱き、権力に頓着することなく、舎人に対してもその地位を振り翳さなかった。
赤檮にはそのような彦人王子が痛ましかった。
毛野国(群馬県・栃木県南部)からやってきた赤檮は、毛野王国の王族たる毛野氏の出身だったが、本土の畿内(奈良県・京阪神)では東夷と蔑まれていた。
畿内の人間に自分を認めさせるため、彼は必死に腕を磨いた。
地位に頓着しない彦人王子は、東国(関東地方)のことも差別せず、赤檮を舎人の筆頭とした。
中央に軽んじられてきた赤檮は、畿内政権を心の中では冷笑していた。
だが、それは認められたいという感情の裏返しで、そうであるからこそ彦人王子による登用を恩義に感じた。
赤檮は彦人王子の立場を良くするため、物部氏の討伐に参陣した。
彦人王子は蘇我氏の血を引いておらず、それでいて訳語田大王の長男だった。
馬子に忠誠を示さねば排除されてしまいかねなかった。
赤檮は馬子の命を受け、守屋の盟友であるを中臣勝海/勝海を斬ってもいた。
勝海は彦人王子を担ぎ上げ、馬子に対抗しようとした。
しかしながら、彼は彦人王子と竹田王子を呪詛したとされ、赤檮による斬殺は正当な行為として是認された。
物部氏の討伐においても赤檮は守屋を射殺すという武勲を挙げた。
守屋は大木に登り、迫り来る馬子の軍勢に雨のごとく矢を射掛けていた。
赤檮はその樹木に忍び寄って守屋を射落としたのだ。
三
後に「丁未の乱」と呼ばれる物部氏の討伐には駒たちも加わっていた。
彼らは単に参戦するだけではなく、兵器の製作も担当した。
「丁未の乱」で守屋が討たれて物部氏が滅びると、彼らが掌っていた警察の職務は駒たちに引き継がれた。
駒は膨れ上がった仕事量に対処するため、分国の渡来人たちを東漢氏に受け入れた。
かつて韓郷の南端には倭人の居留地である任那があった。
それと同様に八洲にも渡来人の居留地があって分国と称された。
物部氏の滅亡によって馬子は絶大な権力を手にしたので、その私兵となることは、渡来人にとっても魅力的だった。
そうして馬子の私兵は急速に拡大し、彼らを指揮する駒は、自分たちの力を過信するようになった。
彼は私兵の力により馬子を大王に推戴しようとした。
丁度、馬子は新たに即位した大王と対立していた。
その大王は豊日大王の従弟たる泊瀬部大王で、駒は彼を武力で脅し、馬子に禅譲させることを主張した。
それに対して馬子は曖昧な姿勢を見せたが、内心では駒の過激さを危ぶんだ。
また、駒は即位した馬子の下で大連となるつもりで、その暁には刀自古と正式に結婚しようと考えていた。
守屋が死んだ後、大連は補充されていなかった。
刀自古は布都姫が石上夫人と名乗って石上神宮の斎神之頭に就任すると、河上娘なる巫女としてで母に付き従った。
石上神宮は物部氏の氏社で、その姫巫女と夫婦になるにはやはり大連の地位が相応しかった。
しかし、馬子に駒をそこまで重用する気はなかった。
そこで、刀自古を嫁がせると約束し、馬子は駒に泊瀬部大王の暗殺を命じた。
駒は刀自古を娶れることに舞い上がり、泊瀬部大王を暗殺するのも一種の放伐と見なして深く考えなかった。
だが、いざ駒が泊瀬部大王を手に掛けると、馬子は泊瀬部大王が殺された責任の全てを駒に被せた。
駒は乱心して泊瀬部大王を殺したとされ、追われる身となった。
彼は石上神宮に急行し、刀自古に事情を話して彼女と共に逃避行を試みた。
刀自古も馬子の仕打ちに憤り、駒と逃げることに同意した。
馬子は駒を誅殺する追っ手として赤檮を差し向けた。
赤檮に追い詰められた時、駒は隠れ家で刀自古を抱いていた。
哀れとは思いながらも赤檮は刀自古が見ている前で駒を討ち果たした。
刀自古は駒の亡骸に取り縋っているところを赤檮に捕らえられ、馬子のところに連れていかれた。
彼女は馬子によって厩戸王子のところへ輿入れさせられた。
泊瀬部大王が殺されて次の大王は炊屋姫が即位し、竹田王子は「丁未の乱」で負傷して夭逝したため、厩戸王子が摂政となっていた。
駒ばかりかその側近たちも容赦なく粛清され、私兵たちを震え上がらせたため、馬子は大きな反発を受けなかった。
刀自古は自害することも考えたが、その腹に駒の子が宿っていると分かって踏み止まった。
彼女は男の子を産み、その子は山背王と名付けられた。
刀自古は厩戸王子と床を共にせず、駒の忘れ形見である山背王をひたすら舐めるように可愛がった。
その愛情が昂じ、彼女は山背王と母子相姦の関係を結んでしまった。
母の体で女を知った山背王は、刀自古との媾合に没入し、息子の財王および日置王と娘の片岡女王を産ませた。
彼は妻を迎えてからも母との関係を続けた。
自分が原因であるだけに刀自古は強く拒めなかった。
厩戸王子も見て見ぬ振りをし、山背王と彼の子供たちを自分と刀自古の子とした。
刀自古は苦悩の余り憔悴し、そのまま死亡したが、山背王が馬子の孫たる蘇我入鹿/入鹿に一家もろとも攻め滅ぼされるのを目撃せずに済んだ。
他方で彦人王子は炊屋姫の治世まで生き延びて天寿を全うした。
赤檮はそれを見届けてから程なくしてひっそりと死去した。
そして、彦人王子の孫である葛城王子が蘇我氏を破滅させた。
註
*赤檮が馬子の命を受けて勝海を斬る:藤原兼輔『聖徳太子伝暦』
*東漢氏が兵器の製作を担当する:『肥前国風土記』
*河上娘が厩戸王子に輿入れする:聖誉『聖誉鈔』
*彦人王子が炊屋姫の治世まで生き延びる:『一代要記』




