善信尼
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一
大和王権は武装した難民によって建国され、誰もが安住できる王道楽土を武力で実現しようとした。
そのために大規模な常備軍が維持され、彼らの戦争は天上の神々から命じられた聖戦と見なされた。
皇道と呼ばれたその理念は、兵を宗教的な熱狂に駆り立て、大和王権は八洲(本州・四国・九州)の大部分を征服した。
八洲の諸国と連合して大和政権を成立させた大和王権は、海外からも倭人を代表する倭国と認められた。
倭人は八洲に土着の民だった。
大和王権は八洲の神道や震旦(中国)の儒教など様々な宗教により皇道を理論的に補強した。
超大国の震旦に倣って中央集権を目指し、大和政権が畿内政権に再編されると、大王と諸大夫の間で仏教を国教にするか否かが議論された。
大和王権と連合した諸国の首長や王は豪族となり、畿内政権では大和王権の君主である大王と中央の豪族たる諸大夫が全国を支配していた。
畿内政権は彼らの合議制によって運営され、大王であっても合議の議論を覆すことは出来なかった。
仏教は釈尊(シャーキャム)を開祖とする天竺(インド)の宗教だった。
釈尊は瞿曇悉達多(ゴータマ・シッダールタ)なる小国の王子だったが、その国は日夜、大国の脅威に曝され、亡国の恐怖に覆われていた。
彼は故郷が滅亡しようとも乱世を超えていける道を求め、地位や家族を捨てて修行し、やがて真理を悟った仏陀(ブッダ)と見なされるようになった。
戦乱に不安を抱えていた者たちは、多くが釈尊の説いた教えに共鳴し、仏教の教団が成立した。
個人として動乱に向き合った釈尊の教えは、あらゆる人々に開かれ、その普遍性は仏教を世界宗教とした。
宗教者は知識人を兼ねていたので、仏教は各地に伝播して世界中の知識を吸収し、最先端の科学技術にもなった。
それ故に孔雀王朝(マウリヤ朝)の阿育王(アショーカ王)や貴霜(クシャーナ朝)の迦膩色迦王(カニシカ王)といった天竺の帝王から保護されたばかりか、震旦でも梁の武帝が入信した。
公的に仏教が八洲へと伝えられたのは、百済の伝道によってだった。
韓郷(朝鮮)の西南部にある百済は、東南部にある新羅と争っており、最先端の科学技術たる仏教の導入と引き換えに倭国の支援を請うた。
倭国は震旦に近い百済には震旦との交流を仲介してもらっていた。
新羅とはそのような関係になく、倭人の海賊が略奪の対象にした。
そうしたことから畿内政権も百済との関係を重視したが、百済は自国と同様に仏教を国教とするよう畿内政権に勧め、それが論争の火種となった。
最先端の科学技術である仏教は魅力的だったが、それを国教とすれば、国是の皇道が蔑ろにされてしまうかも知れず、様々な宗教を取り入れる柔軟さも失いかねなかった。
大臣の蘇我稲目/稲目は賛成し、大連の物部尾輿/尾輿は反対した。
大王と豪族は氏なる一族を形作っており、豪族は大王からその地位を示す姓を授けられ、大臣は政界の長、大連は官界の長を示した。
大王の広庭大王は大臣と大連を調停できず、ひとまず稲目に仏教を崇拝させた。
しかし、海外との交流で外から持ち込まれた疫病が流行ると、仏教の国教化が孕む危険性を現すものとされ、尾輿によって排斥された。
稲目の息子たる蘇我馬子/馬子は仏教が国教となる機運を高めるため、様々な手を打ち、その一環として人材の育成にも努めた。
彼は蘇我善徳/善徳や善信尼を恵便に師事させた。
善徳は馬子の長男で、善信尼は俗名を嶋と言った。
彼女の祖父は梁から渡来した司馬達等/達等で、彼は鞍部氏に婿入りしていた。
鞍部氏は百済から帰化した工匠の一族だった。
達等は広庭大王の養父である男大迹の時代から仏教を私的に伝え、善信尼の父たる鞍部多須奈/多須奈も仏工であったため、馬子は彼女たちに布教への協力を要請したのだ。
蘇我氏は百済の王族とも婚姻しており、渡来人や帰化人と関係が深かった。
恵便は高句麗の仏僧だったが、物部氏の迫害を逃れ、播磨国(兵庫県南部)に身を隠し、棄教したように見せ掛けていたところを馬子に見出された。
高句麗は粛慎(満洲)の南部から韓郷の北部に広がる夫余の王国だった。
百済も支配層が夫余、被支配層が韓郷の韓人で、大王の一族である阿毎氏も夫余と同じ粛慎人の一派たる天孫族に属していた。
二
馬子にも倭国を文明化させるという理想はあったが、そのために彼は暗殺や謀略も辞さなかった。
それを間近で見てきた善徳は、父の跡を継ぐことを嫌がり、不良少年たちとつるんでいた。
馬子もそのような善徳を跡継ぎにせず、高位の僧職に就け、聖俗の両面に影響力を及ぼすことにした。
善徳は少しでも政治から離れられることを喜んだ。
また、不良少年たちとの付き合いはは秦河勝/河勝との出会いをもたらした。
秦氏は大秦(ローマ)から移民してきた豪族で、山城国(京都府南部)の太秦を一族の都と定めていた。
彼らはそこに大闢(ダヴィデ)を祀る大闢ノ(の)社(大酒神社)を建て、織物の生産などで膨大な富を蓄えた。
迫害を逃れて八洲へとやってきた秦氏は、政治に深入りしようとはせず、時の権力者に政治資金を供給することで安全を図っていた。
それには誰が権力を握っているか、情報の収集が必要で、河勝も倭国の都によく出向き、善徳ともそこで知り合った。
世渡りのためか河勝の物腰は不良の善徳と違って柔らかだったが、政治から距離を置くところは似た者同士だったので、二人は直ぐ意気投合した。
善徳は仏教を学ぶ傍ら、河勝らとよく市場に繰り出し、彼らが善信尼を助けたのも、海石榴市における出来事だった。
善信尼は物部氏により他の尼僧たちともども市で鞭打ちの刑に処せられていた。
尾輿の息子である物部守屋/守屋は父と同様、仏教の国教化に反対し、疫病の流行に際して廃仏に乗り出した。
善信尼たちは暴走した一部の物部氏によって市場へ引き立てられ、姉妹弟子の禅蔵尼および恵善尼ともども見せしめに公衆の面前で鞭打たれた。
彼女たちは法衣を破り捨てられ、全裸で縛られて辱められたが、善徳たちによって救出された。
話を聞き付けて同門の善信尼を助け出そうと駆け付けた善徳は、彼女の目には白馬の王子と映った。
同族の工人たちに囲まれて育った善信尼は、彼らの技に目を輝かせてきたからか好奇心が強く、仏教の科学技術にも興味を示し、その様は子供のごとく純粋無垢とも言えた。
善徳も善信尼の純真さに惹かれており、それ故に彼女の救出に駆け付けた。
善信尼は薔薇色の透き通るような肌をしており、体付きはすらりとしてしなやかで、唇は接吻のために作られたかのごとく瑞々しかった。
首はほっそりして撫で肩で、衣の下には巨きな乳が隠れていた。
善徳によって鞭打ちから救い出された善信尼は、彼に想いを寄せるようになった。
しかし、馬子が知略を尽くし、守屋を討って物部氏を滅ぼすと、善徳と善信尼は引き離された。
仏教の国教化を阻むものが無くなり、馬子は西暦の紀元後五九一年に法興という年号を定め、八洲で初の本格的な仏寺たる法興寺(飛鳥寺)を建立した。
法興寺は蘇我氏の氏寺で、善徳が寺司として資材を監督し、寺院を統制することとなった。
造営のために百済は使節団を派遣した。
その大使が仏僧や工人を送り届けて任務を果たし、帰国の途に就くと、善信尼と禅蔵尼および恵善尼もそれに付いていった。
三人は百済に留学し、その仏教を学んだ。
百済の仏教は震旦の南朝から影響を受けていた。
南朝の漢人にとって仏教や震旦の道教は貴族の教養で、仏教と道教の融合や教理の研究が進展した。
善信尼たちは百済で仏教の戒律を学び、秘密の儀式に参加することを許された。
その密儀は仏寺の地下にある泉で行われ、善信尼たちは透けるような白衣だけを身にまとい、同じ格好の尼僧たちと水中で愛を交わした。
禅蔵尼は少女の股間に顔を埋め、恵善尼は別の娘に尻の割れ目を撫でさすられた。
善信尼は二人の年上の女にその見事な乳房を貪るように吸われ、両手で彼女たちの乳首を弄った。
道教は個人の幸福の実現を問題とし、そのために性の力を利用する房中術などを発展させ、仙人という超人的な存在になることが目標とされた。
房中術は同性間でも可能で、震旦では釈尊が仙人の一種である金仙と見なされてもいた。
そうしたことから同性間の房中術も修行の一つとして受け入れられ、教理的に正統とされており、善信尼たちのごとく戒律を弁えた者たちに許可された。
三
法興寺の本尊には高句麗から贈られた黄金が用いられた。
高句麗と新羅の仏教は震旦の北朝から影響を受けていた。
胡人が漢人を支配する北朝は、仏教の普遍性によって胡漢を融和させようとした。
そのために仏教は国教化され、民衆の間にも浸透した。
高句麗の仏教も国王が主体となり、国策で法興寺に黄金を贈るだけではなく、仏僧の恵慈も遣わした。
それは倭国と国交を結ぶための措置で、恵慈は百済の仏僧である慧聡ともども法興寺に住んだ。
法興寺の本尊は善信尼の義弟たる止利仏師/止利によって造られた。
飛騨国(岐阜県北部)の天生峠で産まれた止利は、孤児であったところを多須奈に拾われ、その養子となった。
木材の豊富な飛騨国では木工が発展し、止利も工匠の才に恵まれていた。
孤児として苦労したからか口数は少なかったが、拾ってくれた多須奈に恩を感じ、それに報いるべく努力を重ね、幼くして法興寺の本尊を任された。
止利は巨大な金銅仏の鋳造に成功したばかりか、仏像を金堂へ入れるのにも工夫を凝らし、彼が建築にも卓越していることを示した。
寺司の善徳は止利の造仏も監督し、彼と懇意になった。
止利は養父たる多須奈の名を辱めぬよう矜持を保ち、馬子の長男たる善徳にも媚びなかった。
それが却って善徳に好感を抱かせ、止利も偉ぶらぬ彼に心を開いた。
そして、二人は善徳と善信尼が結婚したことで義兄弟となった。
八洲に帰ってきた善信尼は、禅蔵尼および恵善尼ともども建興寺(向原寺)に住んだ。
建興寺は蘇我氏の邸宅が尼寺になったもので、善信尼はそこで尼僧の育成に努めた。
ただし、その尼僧とは仏尊を他国神として祀る巫女で、仏教を倭人に浸透させるため、八洲に土着の迦微之道と混交させた。
迦微とは畏怖すべき力を信仰の対象としたもので、性の力も迦微だった。
それゆえ、その力を最大限に引き出し、子宝に恵まれるがごとく豊穣がもたらされるよう乱交も行われた。
しかし、それは仏教において道に外れた行いとされたので、尼僧は仏僧と一夫一妻を実践し、仏教の科学技術で民衆の生活を向上させた。
そうして仏尊を祀る巫女のおかげで暮らしが良くなったと宣伝し、乱交せずとも豊穣がもたらされると説得した。
善信尼も善徳と夫婦になり、離れ離れになっていた時間を取り戻そうとするかのように互いの肉体を貪り合った。
善徳と善信尼は着衣を脱ぎ捨てて裸になった。
善信尼が善徳に身を投げ出すと、善徳は善信尼を抱き締めて口吸いし、善信尼の女陰が善徳の陽根に突き上げられた。善徳は口付けを止めて唸り、善信尼も低く呻いた。善信尼の肌が夜露に濡れたように汗ばんだ。
善徳と善信尼は抱き合いながら、時を忘れて荒々しく絡み合い、善信尼の温かくて潤ったところが善徳の種を受け止めた。
善徳の胸に頬を擦り付け、善信尼は息を弾ませつつ、白い裸身を震わせた。
彼女は善徳の息子である志慈を産んだ。
その後も善徳は妻子ともども政治に関わらず、かつてつるんでいた不良たちにも協力してもらい、民衆の生活を向上させるのに専念した。
おかげで法興寺の権威は高まり、善徳と善信尼の死後、蘇我氏がその権勢を恐れた阿毎氏に滅ぼされても仏寺の筆頭として敬われた。
志慈も御炊氏の祖となった。
河勝は晩年まで善徳および善信尼と交流し、太秦に秦氏の氏寺たる広隆寺を建てた。
そこは仏寺に見せ掛けて大闢を祀る寺院だった。
河勝は秦氏の始祖が上陸した比奈ノ浦で死没し、大闢ノ社の分社が比奈に建立された。
止利も最期まで義兄と義姉のために腕を振るった。
蘇我氏が滅ぼされた後、止利の様式は廃れてしまった。
だが、その作品は八洲の仏教を代表する至宝として大切に受け継がれた。
註
*達等が男大迹の時代から仏教を私的に伝える:皇円『扶桑略記』
*恵便が物部氏の迫害を逃れ、播磨国に身を隠す:鶴林寺の伝承
*法興という年号が制定される:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
*止利が天生峠で産まれる:河合町の伝承
*仏尊が他国神とされる:『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
*志慈が善徳の息子とされ、御炊氏の祖となる:中田憲信『皇胤志』
*秦氏の始祖が比奈ノ浦に上陸する:世阿弥『風姿花伝』




