布都姫
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一
大和政権は八洲(本州・四国・九州)の諸国が連合した国家で、海外からも八洲に土着の倭人を代表する倭国と認められ、八洲の大部分を支配していた。
構成国の首長や王は豪族となり、大和王権の君主である大王を盟主とした。
豪族の一族は氏と呼ばれ、その地位を示す姓が大王から与えられた。
大和王権と同盟する国の王は臣、大王に直属する豪族は連だった。
中でも政界の長は大臣、官界の長は大連と称された。
大和政権が畿内政権に再編されると、それぞれ大臣は蘇我氏が、大連は物部氏が世襲した。
かつては大伴氏も大連を輩出していた。
しかし、物部尾輿/尾輿と蘇我稲目/稲目が大伴金村/金村を失脚させると、大連の地位は物部氏が独占した。
大伴氏は大王の近衛軍を指揮していたが、その権限も物部氏に奪われた。
物部氏は大和王権に滅ぼされた「鳥見の里」の王族だった。
流浪する難民が武力で建国した大和王権は、万民に門戸を開き、忠誠を誓うならば旧敵も拒まなかった。
物部氏は忠勤に励んで警察や司法、諜報などを掌るようになった。
対する蘇我氏は蘇我里(曾我町)の首長で、亡命してきた百済の宰相たる木満致/満致を婿入りさせ、その伝手で先進的な文化を取り入れた。
百済は韓郷(朝鮮)の西南部にある先進国だった。
蘇我氏は百済などから渡来した人々を積極的に帰化させ、彼らを大王のために役立てることで勢力を伸張させた。
それは同輩中の首席でしかない大王に阿る行為で、蘇我氏のような臣にとっては恥ずべき行いと見なされた。
だが、他の豪族を出し抜くためなら、形振り構ってはいられなかった。
倭国は超大国の震旦(中国)に倣い、中央集権を進めていたので、それに資する蘇我氏の動きは歓迎され、彼らを大臣に押し上げた。
ただ、物部氏も先進文化を学び取らせるため、一族の者を官僚として百済に仕えさせ、倭系百済官僚を形成していた。
どちらが先進文化による中央集権を主導するかで物部氏と蘇我氏は競い合った。
仏教を国教にする否かが議論された時も、稲目は国教化に賛成し、尾輿は同じ連の中臣鎌子/鎌子と共にそれを批判した。
宗教者は知識人でもあり、天竺(インド)の世界宗教たる仏教は八洲に伝来するまでの間、世界中の科学技術を取り入れ、最先端の宗教として百済でも国教となっていた。
稲目は倭国も百済に倣うべきであると主張した。
尾輿と鎌子はそれに対し、一つの宗教に偏れば、他の教えが排斥され、国家から柔軟さが失われると説いた。
大王たる広庭大王は百済から贈られた仏像を稲目に祀らせ、ひとまず様子を見ることにした。
すると、それから程なくして疫病が流行り、仏教の国教化は危険であると警告する祟りとされた。
尾輿と鎌子は広庭大王の許しを得て仏像を川に投げ捨て、稲目が像を祀った仏殿にも火を放った。
もっとも、尾輿は仏教そのものを否定してはおらず、物部氏も官寺ではなく、氏寺として仏寺を建立していた。
それに、蘇我氏と全面対立に踏み切るつもりもなかったので、尾輿は娘の物部布都姫/布都姫を稲目の息子たる蘇我馬子/馬子と結婚させた。
物部氏と蘇我氏が下手に争えば、内乱で倭国が滅びかねず、稲目の方もそれを承知していた。
政略結婚であったものの馬子と布都姫の夫婦仲は良好だった。
猪のごとくずんぐりとした馬子は、愛嬌のある見た目に違わず、陽気に振る舞っていつも冗談を飛ばしては布都姫を笑わせた。
それは敵対する一族に嫁いだ彼女を気遣ってのものでもあった。
その職掌から物部氏は軍事に秀で、布都姫も子供の頃から武術を習い、蘇我氏に嫁入りしてからは弱みを見せぬよう常に気を張っていた。
それゆえ、馬子の気遣いに絆され、布都姫は一途に彼を愛するようになり、彼の妻として相応しくあろうと努力した。
馬子も一本気な布都姫に愛しさを覚えていた。
彼女は背が高くて色の白い美人で、太い眉はきりりとし、少年の凜々しさを醸し出していたが、乳房は掌に収まらないほど大きかった。
馬子が布都姫の乳房を揉みほぐすと、乳首が大きくなり、彼の掌を突いた。
梅花に似た淡紅色の乳暈ごと指で乳首を摘まめば、絹肌に汗が滲み出て粘っこくなった。
布都姫は敏感に馬子の愛撫に反応し、息を弾ませて眼を閉じた。
馬子は布都姫を力強く抱き締め、その耳朶を噛んだ。
布都姫はその背に腕を掛けて馬子を抱き寄せ、馬子も布都姫の腰に廻した腕に力を入れた。
二人は抱き合ったままお互いを貪り合い、煮え滾った欲情を破裂させた。
そして、悦楽の余韻を味わいながら、心地好い眠りに陥った。
布都姫は馬子との間に息子の蘇我善徳/善徳および蘇我毛人/毛人、蘇我倉麻呂/倉麻呂と娘の蘇我刀自古/刀自古を産んだ。
二
馬子と布都姫の夫婦仲は良かったが、蘇我氏と物部氏は広庭大王の次に訳語田大王が即位し、世代交代が起きても対立していた。
稲目の後を継いで馬子が蘇我氏の当主となったのに対し、物部氏では布都姫の兄である物部守屋/守屋が父たる尾輿から一族を引き継いだ。
守屋は妹の布都姫に似て真面目で、一族や国家は自分が護らねばと意気込み、それに仇なす者には怒りを露わにした。
そのような守屋にとって蘇我氏の仏教は国に害をなす邪教でしかなかった。
再び疫病が広まると、守屋はその元凶が蘇我氏の仏教にあると見なした。
彼は蘇我氏に仏教の信仰を止めさせるよう中臣勝海/勝海ともども訳語田大王に進言した。
勝海は鎌子の弟で、中臣氏は大和王権の祭祀を掌っていた。
それは神道に基づいていたので、仏教の国教化など受け入れられるものではなかった。
また、勝海自身も神道の教えに凝り固まり、職務の遂行に私情を持ち込まず、容赦なく物事に当たった。
守屋と勝海は馬子が建てた仏塔を焼き、蘇我氏お抱えの尼僧たちを鞭打ちの刑に処したが、訳語田大王や守屋が病に倒れると、疫病は仏教を国教化しないことへの祟りとされ、世論の風向きが変わった。
仏教の国教化に反対する排仏派よりも賛成の崇仏派が優勢となり、蘇我氏の仏教も禁止を解かれた。
訳語田大王は帰らぬ人となったが、守屋は一命を取り留め、排仏派の巻き返しを図った。
彼は似た者同士の布都姫と仲が良く、妹を馬子に取られたと感じており、義弟に個人的な反感を抱いてもいた。
対する馬子も妻の布都姫と仲睦まじい義兄が妬ましかった。
そうした感情的な軋轢も絡む中、訳語田大王に続いて豊日大王が大王の位に即くと、蘇我氏と物部氏の対立は先鋭化した。
豊日大王は即位から程なくして病を発すると、正式に仏教の信者となってから死にたいと告げた。
大王の入信は国教化と同義で、崇仏派の優位は決定的なものとなり、殆どの豪族が馬子に味方した。
馬子は意思の疎通が難しい渡来人や帰化人との付き合いから相手の心中を察するのが得意で、布都姫を気遣ったように上手く相手の懐に入り込み、仲間を増やしていった。
激しやすい守屋や堅物の勝海はそのようなことが苦手で、気付けば彼らは畿内政権で孤立していた。
守屋は彼を暗殺する計画が練られているのを知ると、いよいよ馬子と決着を付ける時が来たと悟り、河内国(大阪府南東部)の別邸へと退いて兵を募った。
勝海は訳語田大王の息子たる彦人王子を馬子から離反させようとし、彦人王子の従者である迹見赤檮/赤檮に斬られて死んだ。
赤檮は馬子が勝つと見ており、彦人王子を勝ち馬に乗らせようとしたのだ。
馬子は豊日大王が没すると、訳語田大王の妻たる炊屋姫から命じられたと称して穴穂部王子を誅した。
穴穂部王子は豊日大王の妻である泥部媛の長弟で、排仏派の立場を取り、守屋から大王に推されていた。
炊屋姫は夫の治世で活躍したため、大王に準じる大后と見なされたが、叔父たる馬子の言いなりだった。
馬子は大王に担ぎ上げる存在がいなくなった物部氏を逆賊とし、炊屋姫に誅滅の命令を出させた。
彼は愛妻の実家を滅ぼすことに躊躇しなかった。
守屋が使命感に燃えるのと同様、馬子も倭国の文明化は己しかなし得ぬと自負し、そのためなら如何なる奸計も辞さなかった。
布都姫も馬子の妻として彼を助ける覚悟でいた。
彼女は馬子に離縁されて里帰りした風を装い、守屋の下に赴くと、物部氏の内情を夫に流した。
それは物部氏の女である布都姫がこれからも馬子の妻でいるための献身だった。
馬子は布都姫に改めて惚れ込んだ。
守屋は布都姫を信じたが、物部氏の少なからぬ人間が彼女を間者ではないかと疑った。
三
物部氏の誅滅は西暦の紀元後五八七年に実施され、中央の豪族である諸大夫の殆どが動員された。
大王の一族たる阿毎氏からも多くの王子が参加し、馬子が総指揮を執った。
守屋のところには物部氏の他、中臣氏や捕鳥部氏が馳せ参じていた。
武勇を誇る物部氏は、本拠地である河内国に布陣し、数で勝る馬子たちを迎え撃った。
守屋の統率は巧みで、防禦は鉄壁に近かった。
馬子の軍は寄り合い所帯で、長引く戦さに厭戦気分が漂った。
それが守屋の狙いで、彼は自ら木に登って矢を放ち、自軍の士気を鼓舞した。
物部氏の誅滅に失敗すれば、馬子は失脚を免れず、守屋が畿内政権の中枢に返り咲くのも夢ではなかった。
しかし、布都姫が流した内情に基づいて馬子は敵軍を調略し、守屋たちの結束を乱した。
そうして守屋の軍は渋川郡(八尾市)に追い詰められた。
皮肉にもそこには物部氏の氏寺が建っており、守屋は敗北を悟りながらもどこか満足げだった。
気に入らなくはあったが、同じく国を憂う者として彼は馬子の実力を認めており、負けても悔いはなかった。
守屋は馬子の軍に加わっていた赤檮により射殺され、馬子は守屋との決戦に勝利した。
守屋の近侍たる捕鳥部万/万は勇猛に抵抗して戦死し、その遺体は八つ裂きにされた。
中臣牟知麿/牟知麿は再興を期して諏訪国(長野県西部)の山中に隠れた。
諏訪国には守屋の次男である物部武麿/武麿も潜伏した。
長男の物部那加世/那加世は臣下の捕鳥男速/男速に守られ、日高見(東日本)を転々とした。
そして、布都姫は蘇我氏のために間者をしていたことが物部氏にばれ、囚われの身となった。
守屋が赤檮に射殺されると、物部氏の一部は自暴自棄になり、裏切り者の布都姫に狼藉を働いた。
馬子が布都姫を見付け出した時、彼女は首輪と足枷だけを身に着け、秣の上に襤褸のごとく転がり、精液に塗れて饐えたような腐臭に包まれていた。
布都姫の胎には誰の種とも分からぬ子がおり、その時ばかりは馬子も後悔をした。
物部氏が滅んだこの決戦は、戦いが起きた年の干支に因んで「丁未の乱」と呼ばれ、馬子は誅滅に参加した王子の中で最年長の泊瀬部王子をお飾りの大王に据えた。
だが、泊瀬部大王となった王子は、馬子の傀儡に甘んじようとはしなかった。
それ故に馬子は泊瀬部大王を弑逆し、意のままになる炊屋姫を即位させた。
彼は大連を廃止し、大臣は諸大夫の上に君臨する地位へと変貌した。
物部氏が有していた莫大な富は、布都姫を通じて馬子のものとなった。
布都姫は石上神宮の斎神之頭に就任して国政に参画した。石上神宮は物部氏の氏社たる神社で、その工廠でもった。
物部氏から近衛軍の指揮権も奪取し、蘇我氏に刃向かえる者はいなくなった。
しかしながら、娘の蘇我法提郎女/法提郎女を出産した布都姫は、心身ともに消耗していたにもかかわらず、自らを奮い立たせて神職を務めたので、無理が祟って黄泉路へ旅立った。
それに衝撃を受けて馬子も一気に老け込んだ。
そのせいか大和六県の割譲を炊屋姫に断られても馬子は大人しく引き下がった。
大和六県は葛城氏の旧領だった。
葛城氏はかつて大王の外戚として権勢を極め、蘇我氏も元はその子分でしかなかった。
馬子は大和六県を領有し、葛城氏の過去の栄光を受け継ぎ、蘇我氏の覇権を盤石にせんと図った。
けれども、大和六県は葛城円/円から大王の幼武に献上され、阿毎氏の御料地となっていた。
そこを蘇我氏に割譲すれば、彼らが大王の一族とされかねなかった。
炊屋姫を従わせる気力の湧かなかった馬子は、己の衰えを自覚した。
彼は隠居して余命を信仰に捧げ、諸国を旅する途上で死んだ。
その行脚には家臣の光庵が同行しており、彼は馬子の菩提を弔うために仏僧となった。
註
*蘇我氏が蘇我里の首長とされ、布都姫が石上神宮の斎神之頭に就任する:『紀氏家牒』
*布都姫が馬子の妻とされる:『石上振神宮略抄』
*勝海が鎌子の弟とされる:『松尾社家系図』
*牟知麿が再興を期して諏訪国の山中に隠れる:『九鬼文書』
*諏訪国に守屋の次男が潜伏する:井出道貞『信濃奇勝録』
*守屋の次男が武麿とされる:『守矢家文書』
*那加世が男速に守られ、日高見を転々とする:『物部文書』
*布都姫が国政に参画する:『先代旧事本紀』
*光庵が馬子の菩提を弔うべく仏僧となる:宇麻志神社の伝承




