泥部媛
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一
大和王権は八洲(本州・四国・九州)の諸国と連合して大和政権を成立させ、八洲の大部分を支配し、八洲に土着の倭人を代表する倭国と諸外国からも認められていた。
ただ、そうなるまでに大和王権は王朝が葛城王朝から三輪王朝、河内王朝、播磨王朝、越前王朝へと交替していった。
越前王朝を開いた男大迹は、播磨王朝の血を引く広庭王子を養子とした。
広庭王子は豪族である蘇我堅塩媛/堅塩媛と蘇我小姉君/小姉君の姉妹を娶り、即位して広庭大王となった。
豪族は大和政権を構成する首長や王の一族で、大和王権の君主たる大王を盟主としていた。
堅塩媛と小姉君の父である蘇我稲目/稲目は男大迹や広庭大王に仕え、大王の直轄地たる屯倉を経営し、その拡大に貢献した。
倭国は超大国たる震旦(中国)に倣い、中央集権を目指していた。
稲目ら蘇我氏は百済の重臣である木満致が婿入りし、その縁で韓郷(朝鮮)などから渡来した人々や帰化した人々を配下に置いた。
百済は韓郷の西南部にある王国で、蘇我氏には百済の王女も嫁いでいた。
渡来人や帰化人は進んだ文化や技術をもたらし、蘇我氏は彼らに対して懐深く、百済の人々には王族のごとく仰がれた。
稲目は今来手伎と呼ばれた新来の職能民を傘下に取り込み、彼らの能力を使って屯倉を拡大させた。
そうして彼は政界の長である大臣ばかりか、大王の外戚にもなった。
娘の堅塩媛と小姉君も一族のため、広庭王子の寵愛を得ようとしたが、図らずも寵を争う形となり、その競争は子女の代にも引き継がれた。
炊屋姫と泥部媛も互いを敵視していた。
堅塩媛が母とする炊屋姫は勝ち気で、男大迹の曾孫たる訳語田王子と結婚し、小姉君が母である泥部媛も負けん気が強く、炊屋姫の兄たる豊日王子と夫婦になった。
もっとも、才に恵まれた炊屋姫は、自信に満ちて社交的だったが、泥部媛はそうした従姉に嫉妬してひねこびた。
彼女は何事にも冷淡に対応し、常に澄ました佇まいを崩さず、斜に構えていた。
しかし、その攻撃性は劣等感を持つがゆえ、無意識に張った予防線で、内心では一族の期待に応えられないのを恐れた。
そのような泥部媛を豊日王子は誠実な人柄で支えた。
彼は大和王権が中央の豪族たちによって集権化され、畿内政権へと再編されるのを見て感銘を受け、大王の息子として国家に対する責任感を培っていた。
それ故に豊日王子は見聞を広げるべく全国を行脚した。
彼は道奥(東北地方)や豊後国(大分県)にも足を運んだ。
豊後国では真名野長者の娘たる般若姫と恋仲になり、息子の田目王子を儲けた。
だが、般若姫は周防国(山口県東部)で乗っていた船が沈んで死んだ。
そうした経験が豊日王子を人間的に成熟させ、高潔な人格で万人から愛された。
理想的な家庭人でもあり、そのような豊日王子に泥部媛も忠実だった。
泥部媛は貞節を守り、夫に対して献身を尽くした。
彼女は美しくて髪が艶々と光り、肌の色は雪のように白く、切れ長の目には気品があった。
ふっくらとした頬には色香が漂い、優雅な脚と大きな乳房をしていた。
泥部媛の姿態はすらりと引き締まって官能的で、寝台に歩み寄る身のこなしは豹を思わせた。
豊日王子が差し伸べた手を握り、泥部媛は引き寄せられて彼と唇を重ねた。
長いこと舌を絡み合わせ、それから、彼女は口元を緩め、自分と豊日王子の衣服を剥ぎ取り、尖った乳首を彼に吸わせた。
泥部媛は豊日王子をうっとりと見詰め、その長い指で彼のものをまさぐった。
彼女は大きく呻き、興奮が膨れ上がってこめかみの血管がずきずきした。
泥部媛は我を忘れ、呑み尽くさんとするかのごとく豊日王子を貪った。
彼女は豊日王子の子供を次々と産み、教育と躾けに厳しくも子煩悩だった。
泥部媛は愛する夫を大王にし、可愛い子供たちにその位を継がせたいと望んだ。
広庭大王が崩じた後、大王の位は訳語田王子が継承した。
訳語田王子は即位して訳語田大王となり、子宝に恵まれてもいたが、彼らが成人するのを待たずに急逝してしまった。
二
大王には成人して統治の重責に耐えうる者を即位させるという不文律があった。
訳語田大王の息子たちはまだ若く、豊日王子と穴穂部王子が次期大王の有力候補となった。
穴穂部王子は泥部媛の長弟で、大連の物部守屋/守屋が担ぎ、豊日王子は大臣の蘇我馬子/馬子が担ぎ上げた。
それぞれ大連は官界の、大臣は政界の長で、馬子は堅塩媛と小姉君の弟だった。
また、大王の一族である阿毎氏でも宅部王子は穴穂部王子を支持した。
彼は広庭大王の先代たる高田の息子だったが、後ろ盾となる者がおらず、不遇をかこっていた。
しかし、宅部王子は腐らずに阿毎氏の一員であることを心の支えとして研鑽に励み、穴穂部王子に感心されて彼と兄弟同然の仲になった。
泥部媛も弟と親しい宅部王子とは付き合いがあった。
夫の競争相手ではあったが、泥部媛は軽率なほど開けっ広げな穴穂部王子のことが嫌いではなかった。
だが、血気盛んな穴穂部王子は罠に掛かり、炊屋姫を犯そうとしたとの汚名を着せられた。
そうして豊日王子が三十一代目の大王に選ばれ、豊日大王となったけれども泥部媛は釈然としなかった。
弟がそのようなことをしでかしたなど泥部媛には信じられなかった。
それでも、夫が即位して悲願が達成した彼女は、積み重ねた努力が花開き、めくるめく高揚感に歓喜の涙を流した。
ところが、豊日大王は病に伏し、西暦の紀元後五八七年にたった二年の治世で崩御した。
余りに短い在位に泥部媛は豊日大王が毒を盛られたのではないかと疑った。
やがて彼女は炊屋姫が豊日大王を毒殺したと思い込むようになった。
豊日大王と泥部媛の息子たる厩戸王子は訳語田大王と炊屋姫の子である竹田王子より聡明とされていた。
もしも豊日大王が長生きしていれば、厩戸王子がそのまま後を継いでいたかも知れず、泥部媛は是が非でも我が子を大王の位に就けんとした。
豊日大王の没後に馬子は炊屋姫の命令と称し、叛乱を謀った廉により穴穂部王子を誅殺した。
穴穂部王子の親友たる宅部王子も巻き添えで弑された。
逆賊の烙印を押された二人は、別々の墓を作るのも面倒とされ、同じ棺に入れられて埋葬された。
泥部媛は涙が枯れるほど泣き明かした。
彼女は穴穂部王子と宅部王子が豊日大王の片腕として誰よりも取り立てられることを願っていた。
馬子が穴穂部王子を誅し、彼を推していた守屋は、いよいよ物部氏と蘇我氏で雌雄を決すべき時が来たと覚悟した。
その争乱を避けるべく泥部媛は丹後国(京都府北部)に身を寄せた。
泥部媛を匿ったのは田目王子だった。
豊日大王の庶子たる田目王子も宅部王子と同じく大王の位を巡る競争から脱落し、政治よりも商業に活路を見出した。
母方の祖父である真名野長者は木炭を売って財をなし、伊予国(愛媛県)などに仏寺を建て、震旦の仏僧に黄金を寄進した。
製鉄の盛んな韓郷では木炭が大量に消費され、木材が不足しており、豊かな森が広がる八洲から輸入してもいた。
彼は木炭を海外に輸出し、漢人や韓人に信者の多い仏教にも入信した。
そのような舅に感化され、豊日大王も仏教を信仰するようになり、職人たちに保護を与えるよう訳語田大王に進言するなど商工業にも好意的だった。
小姉君の妹たる蘇我石寸名/石寸名に預けられていた田目王子も、真名野長者の遺産を相続すると、それを元手に商売を始めた。
田目王子は丹後国に拠点を構え、山城国(京都府南部)の秦氏とも付き合いがあった。
秦氏は山城国の開拓に従事するなど技術に優れ、養蚕や機織りによって巨万の富を築いていた。
そうした秦氏との付き合いもあり、田目王子は銅を商って成功し、そこらの豪族には負けぬほどの資産家となった。
商人でもある彼は誰とでも気さくに話し、血の繋がらない母たる泥部媛にも人懐こい態度で接した。
ただ、泥部媛に愛想が良いのには別に理由があった。
早くに母を亡くした田目王子は、年上の女性に憧れ、美しい継母の泥部媛に惹かれた。
泥部媛も後継者争いに加わらない継子のことを信頼していた。
三
守屋は穴穂部王子に代わる候補を擁立できず、馬子が炊屋姫から物部氏の誅滅を命じられたと主張しても反論できなかった。
それゆえ、殆どの豪族が蘇我氏の側に付き、物部氏の誅滅には竹田王子や厩戸王子、穴穂部王子の弟である泊瀬部王子らも馬子に求められて参加した。
全ては馬子の采配で、炊屋姫も彼に操られているだけだったのだが、泥部媛の目には炊屋姫が馬子を通じ、豪族らを従えているかのように映った。
炊屋姫は訳語田大王の統治を助け、大王に準ずる大后と見なされた。
そうした存在感を泥部媛は示すことが出来なかった。
泥部媛が丹後国に身を寄せたのは、万が一に備えて厩戸王子の弟たる来目王子ら幼い王子たちを疎開させるよう馬子から頼まれたからだった。
これも泥部媛には自分を中央の政局から遠ざけようとする炊屋姫の陰謀と思えた。
どうして自分は炊屋姫のようになれないのか。
泥部媛は野心と妬みの炎に自ら焦がし、遂には常軌を逸した手段に出た。
女盛りの彼女はその妖艶な肉体も利用し、自分に思いを寄せる田目王子を誘惑した。
泥部媛は入浴して厚化粧し、若い男を十分に誘うような装いをすると、田目王子と二人きりの夕食で彼に告げた。
夫のいない身が不安で堪らず、息子たちを守るためにも自分の再婚相手になってくれないか。
憧れの継母から告白された田目王子は、酒を飲んで自制心が弱まっていたこともあり、自らの欲望に負けた。
彼は半裸の泥部媛に後ろから組み付き、その胴に腕を絡み付かせ、彼女と激しく媾合した。
悶え狂う泥部媛の髪が乱れ舞い、身をうねらせる度に大きな乳房が揺れ、開きっぱなしの唇から唸るような喘ぎ声が発せられた。
田目王子は朝まで泥部媛の熟れた体を貪るように求め続けた。
こうして泥部媛は田目王子と再婚し、娘の佐富王女が産まれ、来目王子らも社交的な継父に直ぐ懐いた。
母子相姦は禁忌とされていたが、泥部媛と田目王子に血の繋がりはなく、二人の結婚は寡婦と孤児を救済するためのものと説明された。
もっとも、泥部媛が田目王子と再婚したのは、彼の財力や秦氏らとの繋がりが目当てだった。
他方、本土の畿内(奈良県・京阪神)では馬子が守屋を討って物部氏を滅ぼし、それに協力した王子の中で最年長の泊瀬部王子が即位した。
しかし、泊瀬部大王となった泊瀬部王子は馬子と対立し、彼の配下に殺害された。
しかも、その間に竹田王子が夭逝しており、厩戸王子の即位が現実味を帯びた。
都のある大和国(奈良県)に戻った泥部媛は、厩戸王子を即位させるための運動を展開し、それを田目王子や秦氏が援助した。
彼女は厩戸王子こそ大王に相応しいと宣伝するため、二歳の彼が東方を向き、「南無仏」と唱えて合掌すると、仏教の開祖である釈尊(シャーキャムニ)の遺骨が掌から零れ落ちたなど様々な伝説を流布させた。
だが、大王の位に即いたのは炊屋姫だった。
厩戸王子は訳語田大王と炊屋姫の娘たる貝蛸王女を娶っており、姑の摂政となった。
それは英邁の誉れ高い厩戸王子を抱き込み、女性初の大王に箔を付けるのが目的だった。
実際の政治は炊屋姫を擁立した馬子が行い、厩戸王子がそれに知恵を貸した。
泥部媛は炊屋姫に協力的な厩戸王子を見限って来目王子に期待した。
韓郷で新羅が弁韓を併合し、倭国にて新羅の征討が計画されると、彼女は来目王子をその将軍に推した。
新羅は韓郷の東南部にある王国で、中南部の弁韓には倭人の居留地である任那があり、弁韓の併合は倭国を刺激した。
来目王子は泥部媛の望み通り征新羅大将軍に祭り上げられた。
外征で軍功を挙げれば、次期大王も夢ではなかった。ところが、万の兵を擁して旅立った彼は、筑紫国(福岡県西部)の陣中で唐突に逝き、新羅の刺客に暗殺されたと噂された。
泥部媛は素直な来目王子を取り分け可愛がっていたので、彼の急死で野望が潰えたことに打ちのめされた。
これには流石の厩戸王子も気の毒に思い、泥部媛のために中宮を建てた。
そこで泥部媛は田目王子と淫らかつ退廃的な余生を送った。
註
*豊日王子が道奥に足を運ぶ:佐久間洞巌『奥羽観蹟聞老志』
*豊後国において真名野長者の娘である般若姫が豊日王子と恋仲になる:『烏帽子折』
*般若姫が周防国で乗っていた国が沈んで死ぬ:『防長風土注進案』
*蘇我氏と物部氏の争乱を避けるため、泥部媛が丹後国に身を寄せる:丹後町の伝承
*真名野長者が伊予国に仏寺を建てる:野田石陽『伊予古蹟志』
*震旦の仏僧が真名野長者から黄金を寄進される:河野彦契『豊鐘善鳴録』
*訳語田大王が職人たちに保護を与えるよう豊日王子から進言される:近松門左衛門『用明天王職人鑑』
*泥部媛が田目王子と再婚して佐富王女を産む:『上宮聖徳法王帝説』
*厩戸王子が泥部媛のために中宮を建てる:藤原兼輔『聖徳太子伝暦』




