彼の迷い
1992年 12月
すっかり日が短くなった冬の日。その日も、井沢さんと一緒に帰っていた。
プラットホームで、彼の様子に違和感を覚えたあの日から、どれくらいか経っていた頃。
私が深く詮索しないことで安心したのか、帰りに会っても、あの怖い顔は見せなくなっていた。
ただ、何故だか井沢さんは、終業後に会社の人と会うことを、良く思っていないようで、タイミング良く電車が入ってきた時以外は、プラットホームの奥へと歩いていく。
その姿は、私には“隠れんぼ”をしているように見えてしまう。だって、あまり人目につかない、目立たない場所で佇むから。
この日も、井沢さんと私は、いつものように2番線の階段を上がっていく。
上りきり、少し歩いたところで、彼は足を止めた。電車もまだ来ないのに、こんな場所で立ち止まるなんて珍しい。
ふと――彼は、私に顔を向けて、突然こんなことを言いだした。
「これからさ、中野に行かない?」
思い出した。いつだったか、彼の好きなミュージシャンのライブがあって、しきりに「行きたい」と言っていたことを。
「中野って、〈中野サンプラザ〉?」
「うん、そう」
急すぎる。しかも初めての誘いに驚いたのは確かだけど、「今から行ったらどれくらいの時間になるのかな」とか、「それじゃあ、1番線に行かないと」とか、割と冷静に考えを巡らせることができた。
だけど、井沢さんは考え直したようで、表情を変えた。
「――いや。やっぱり、いい」
肩すかしをされたような気分。ちょっとだけ、期待してしまった自分がいて、恥ずかしくもあったし。
(なあんだ……)
井沢さんがすぐ傍にいるのに、急に寂しくなってくる。彼との距離が、ほんの少しだけ、縮まったような気がしたのに…。
やっぱり、全然近づけない。
結局、井沢さんとは、いつものように夕霧駅で別れた。
電車を降り、歩いていく背中を見送るのは寂しい。電車に1人残された寂しさを、彼は知らない。
本当は、この頃の井沢さんは、遊ぶ時間などない程に多忙を極めていた。息を抜けないほど、ほぼ毎日。深夜まで。
「中野に行きたい」と言っていたあの言葉は、現実から逃れたかったのか、息を抜きたかったのか……。
それとも、ほんの少しだけ、私に気を緩めてくれたのか。
彼が、遊んでいられるような状況ではなかったと、私が知るのは、まだ少し先の事だ。
*
中野であったライブに誘われ(かけ)た日以降、いつもと変わらない、ごく普通の毎日が続いていた。
社会人生活にも慣れて、5月頃の足の重さはなんだったのか? と思わせるほどに、私は元気だった。いつものように、夕方の混雑をする駅前の道を、淳子ちゃんと楽しく笑いながら帰っていた。
駅の改札を抜け、2番線に上がる階段の手前で、私はゴミを捨てた。投げ捨てるのではなく、ゴミ箱の中に落とす感じ。
新聞紙や雑誌など、ごく普通のゴミが捨てられていたのだが――ふと、違和感のある物が目に留まった。ついさっき捨てたばかりなのか、ゴミの一番上に“それ”は乗っていた。
夕霧駅で乗り換えた、一つ隣りの駅までの定期券。
当時の定期券は、名前は手書き印刷が一般的だった。印刷されている文字に、見覚えがある。
「ねえ、淳子ちゃん! これ――」
思わずゴミ箱に屈み、その定期券を手にする。
「井沢さんの……?」
どういう偶然、巡りあわせなのだろう。たまたま、ゴミを捨てただけなのに、こんな形で彼の行き先を知るなんて。
私と淳子ちゃんは、有効期限の切れた定期券を、呆然と見つめた。




